朝涼

感情論では定義不可能な感情に付けた名称

2022年3月3日

 強い執着の見える囲いと、柔らかな唇を受け止めて、けれどふと冷静になって体温が下がり、その瞬間、腕を突っぱねて男を拒絶した。
「矢島……?」
「どさくさに紛れに何しやがる」
「……」
 矢島の言葉に判りやすく斉藤が機嫌を悪くするが、知ったことではない。ここで流されるわけにはいかない。
 斉藤家長男の言葉がきっかけではあるものの、将来この男の隣に立つのは矢島ではないのだと気付かされた。若気の至りとするには少々遅い気もするが、始まったばかりの関係である今ならばお互いに過去にしやすいのは事実。
 決して好きではないけれど、当初のような嫌悪感は無くなっているのは事実。ぶつけられる感情が過激で一直線故に嵐のようだったが、人生で一度でもそこまで他人に想われたことは、誇っていいことだろう。
「あんたの気持ちは否定しねえけど、それでも俺なんかに構ってたら駄目だろ」
 立っている場が違う。
 見ている現在が違う。
「この先は行き止まりだ。ちゃんと戻れよな」
「お前が俺のことを勝手に決めるな」
 怒りに視線が強くなる。それを真正面から受けて、それでも苦笑して斉藤の胸を押した。
「俺が決めたんじゃねえよ。あんたが生まれた時から敷かれてるレールだろ。脱線に気付いたんだから、戻してやんねえと」
「……」
「見合いだったんだろ」
 矢島が長兄からそのことを聞いていると斉藤は確信していて、だからわざわざ言わなかっただけなのかもしれないが、結局一度も斉藤からその事を語られなかった。暗黙の了解として横たわらせるには、あまりにも大きな塊。

 ……言葉を重ねるのは苦手だ。

「それが、あんたに求められてる役割なんだろ」
 だから、と。
「認めた通り、あんたのことは嫌いじゃない。けど、好きでもない。俺達は終わったんだよ」
 心の裡を全部言ったところで意味などないのだからと、伝えたいことだけ伝えて横をすり抜ける。
 警察官になっておいてよかったなと思う。どれだけカッとなっても、すぐに冷静になる術を身につけられるから。
 そんなことを思いながら去ろうとしたのに、その腕を強く掴まれた。
「……おい」
「今日は一人で帰るな」
 不機嫌なまま、けれどどちらかというと仕事の時の雰囲気を纏わせて斉藤がそれを言う。だからか、咄嗟に言葉を聞いてしまった。
「被疑者が近くにいて、お前はかなり飲んでるな? 素面ならお前がアレに後れを取るとは思わんが、判断力の鈍っている今襲われたら、今度は無傷で済まなくなる」
 監禁事件の被疑者であるあの美容師は、男女問わずターゲットにしている。見掛けは優男だが、掴まれた顎に掛かった力から決して非力ではなさそうという予想はつく。
 だから、斉藤の言葉に反論が難しい。
「お前が嫌なら、何もしない」
 何時だったか言われたことと同じことを言われて、更に反論を封じられる。
 矢島の腕を掴んでいた指から力が抜け、その下の指に絡みついてきた。握られる強さに、目眩がする。
「行くぞ」
 腕を引かれて歩き出す。地下駐車場から外に出てもその指は解かれることがなく、離そうとしても離れない。
 指を取り返そうと引くが、そのせいで拘束が強まる。抵抗するだけ無駄だと気付いて、大人しく手を引かれて歩いた。

 美容師の住まうマンションから二本通りを外した有料駐車場。精算したあとに車の助手席に導かれる。ここで逃げたらどうなるのかとチラリと考えはしたが、歩いている間に酔いを自覚したため大人しく助手席に収まるが、斉藤はドアを閉めず、身体を折り曲げて矢島に顔を近付けた。
 何だと思う矢島の耳に届く、

「忘れるな。俺にはお前が必要だ」

 その、言葉に。
 アルコールで緩んだ理性の紐を、一気に手放した。
 伸び上がりながら腕を伸ばし、斉藤の前襟を掴んで引き絞る動きを取り、最短で頸動脈を締めに行く。
 と、同時に。
 斉藤は、左腕を矢島の手と自身の首の間に差し込み、左手を右側の首と肩に挟んで固定。自分の腕を挟むことで窒息を回避する。
 それぞれの一瞬の動きは、幼少期からの武術、そして警察学校で培ってきたものだ。
 矢島は左手が、斉藤は右手がそれぞれフリーだが、それだけ見るならこちらが不利。しかし、そんな細かいことを思う思考は今の矢島からは抜け落ちていた。
「――ッ!」
 奥歯を噛み、目の前にある男の顔面に頭突きをぶち込んだ。
「ふざけんな! こんな惨めになるくらいなら、性処理扱いのほうが断然マシだ!!」
「……ッ」
 激昂を夜に響かせながら腕を振って斉藤を遠ざけるが、一歩下がっただけでこちらが降りる隙間がない。
「どけよ」
 矢島の声を無視して、斉藤が地面に唾を吐き捨てる。確実にそれは、血が混じっているはずだ。それほどに容赦なくぶつけたのだから。
「どけ、――ッ」
「――」
 無言で斉藤がこちらに腕を伸ばす。先程の構図とは真逆に今度は矢島が襟首を掴まれ、窒息を逃れるため矢島が斉藤の手首を掴んで止める図となった。
 助手席に押し付けられ、同時に男の膝が矢島の膝を割って入り込んでくる。左半身は車の中、右半身は外に出して、こちらを拘束。上から下という不利で、逃げ場がない。
 何をされるのか判らず警戒する矢島の前で、斉藤は徐に顔を近づけ、すり、と頬同士を触れ合わせた。
 痛みを耐えるために身体を固くしていたため、その優しい感触に息を飲んだ。
「お前はいつもそうやって俺を振り回す」
「……何が」
 声と気配の落差に脳みそが疲れて身体から力を抜けば、斉藤の気配も緩み首元から指が離れ、矢島の顔の右側に腕を突く。
「俺の事が好きだと認めろ」
「しつけーよ」
 左首に触れる柔らかい髪の毛。肌は触れない距離を保ったままだということに、そこで気が付く。
 くぐもった声に言葉を返すが、男はめげない。
「女と結婚しろと言いながら、自分が唯一でないのなら、俺に気持ちが無い方がマシだとのたまう」
 それは、と何時になく優しい声が矢島の耳に届いた。
「唯一しか要らないということだ」
 断言され、眉根を寄せて目を閉じる。そうではないと否定するには、どうしたらいいものか。
「勝手な解釈してんなよ」
「するに決まっている。俺にはそれしかよすががない」
 矢島に触れないが、逃げ出せないように囲い込む。その執着が見えるのが、つらい。
「じゃあ、こう言えばいいのか」
 目を閉じたまま、息を吸う。
 矢島が出来る、最大の拒絶。

「あんたなんか要らない」

 一息で声帯を震わせれば、斉藤は、ゆっくりと矢島から離れた。
 瞼を上げれば、壊れた人形のような不細工な笑みを浮かべていて。
「そのまま座ってろ」
 そう言って、静かに助手席のドアが閉められた。
 斉藤が運転席に移るまでの数秒で口の中を噛み、感情を全て切る。
 目を閉じれば、身体の中がぐるりと回転しているようで。気持ち悪さから意識を手放した。

     ●

 傍若無人で俺様な性格で。
 普段は自分勝手なくせに、セックスの時は痛みで逃げ出すことを一欠片も許さぬように、優しく追い込んでいく。
 良くも悪くも――矢島にとっては大抵悪い方に作用するのだが――飾らない言葉は、ダイレクトに矢島に届く。それが居心地悪さと少しの嬉しさがあったのは事実。でなければ、関係を続けるなんてことしなかった。
 職場で上官であろうとも、プレイベートにそれは関係ない。屈したつもりはないし、庇護下に入ったつもりもない。
 対等を謳いたかったわけではないけれど、決して一方的な関係でもなかった。
 一筋縄ではいかない自分たちの関係。

 斉藤がデートだと言い張って、何度か出掛けもした。
 けれどそれ以上に即物的に身体を繋いできて、それで時間を過ごしてきた。そちらの方が矢島としても都合が良い……と、そう思って、
 ――ちがう。
 そうだ、違う。認めたくなかっただけだ。自分の中の感情を。
 あまりにも突然の、認識外からのアプローチ。驚いているうちに引っ張られて、けれどそれを受け入れたことも本当のこと。
 男だということもあるが、矢島とは全てが違う上級階級の人間が、理由を聞いても何故という気持ちがやっぱりあって。
 ぶっとんだ思考を行う上司で、パワハラ紛いの命令が日常だったからこそ自分に向けられる感情が“ごく普通の恋愛感情”であることが認められず、本気ではないのだ、気まぐれなのだと思ったほうが気が楽だった。
 ストレートである自分が、男に迫られて身体を重ねて相手に恋愛感情を返すなんて、矢島の中ではあってはならないことだったから。言葉にされない逃げ道に逃げ込んで、安心していた。

 一緒に過ごすうちに見た仕事外の姿。
 直球にこちらに届かせようとする言葉や、命令口調ではあるものの、仕事中よりは優しくなる言葉尻。目元を緩ませてリラックスする姿。矢島を翻弄する、雄としての姿。事後の不器用な優しさ。
 知ってしまったからこそ、怖くなった。
 生きる世界がそもそも違うのだ。けれど、その先に行ったところで行き止まりでしかないと判っていて進めるものか。心が動いていると自覚があったから、拒絶した。
 それは、正しい。正しくないと否定したら、自分自身があまりにも惨めなのだから。

     ●

「……、」
 夢なのか、現実なのか。頭の中に文字が踊っていて、視界がぐるぐると回っている。
「起きたか」
 静かな声が脳みそに響き、そちらを見ると斉藤が矢島を見下ろしていた。
 腕と背中を補助され、上半身が起こされる。ぐらりと揺れる身体は、斉藤の肩に支えられた。
 馴染んだ体温に、は、と息を吐く。
「今起きている間にこれは飲み干せよ」
 そう言われて手渡されたのは500mlの水のペットボトル。ご丁寧にストローが刺さっていた。常温のそれを喉に通すと、少しだけ意識がハッキリする。部屋を見渡せば、そこは見慣れた自分の部屋ではなく、見慣れてきた男の部屋で。何故、と思う矢島に向かって、斉藤が口を開いた。
「最初に言っておくが、証拠はドラレコに残っている。見たいのならあとで見せてやる」
 一息。
「お前の家に着いた後、目を開けたと思ったら車内でそのまま吐いた。仕方なく外で全部吐かせたが、お前どれだけ飲んだ? 出てきたのほぼ水分だったぞ」
「……ワインと、ウイスキーを一本ずつ」
「もう少し現実味を出せ」
 矢島の過小申告に対して、呆れを含ませた言葉に何も言えず、俯きながら水を飲む。
 そんな矢島に追撃はせず、斉藤は淡々と続きを話した。
「そのまま家に放り込むわけにもいかないからここに連れてきた。ここならお前のところよりもセキュリティはしっかりしているからな。服が変わっているのは汚れたから。……被疑者の指紋が付いている可能性は」
「本人申告で、指紋がない、と」
「――ダメ元で回すか」
「あと、ペンが」
「それも回す」
 斉藤が喋るたびに感じる振動が心地よくて、目を閉じ息を吐く。離れなければと思うのに、その心地よさを手放すことが出来ない。一度離した理性の紐は、まだ全て手繰り寄せられていないらしい。
 斉藤にぶつけた酷い言葉はまだ舌に残っているのに、アルコールを理由に触れていることを拒絶していない。最低だ。そう思うのに身体は動かない。
 ペットボトルを一本飲みきった矢島の手から空を奪い取り、斉藤が新しいものに交換する。
 それをきっかけに斉藤の体温が離れていくことを、視線で追ってしまった自分を自覚し、水を飲む振りをして俯いた。拒絶しておいて惜しむなんてひどい話だと、少しだけ戻ってきた思考が言う。
「朝六時までこの家を出ることは禁止。その後は好きにしろ」
「……」
 立ち上がった斉藤が、寝室からリビングに向かいながらそう静かに命じた。

「俺は隣にいる。何かあったら呼べ」

     ●

 リビングと寝室の間の扉は開かれたままで、これを矢島が閉めても恐らく男は怒らないだろうが、わざわざ閉める意味もないし、開け放たれている理由も矢島のためだということが判るため、何も出来ない。
 ソファの肘掛けに体重をかけてスマホを弄る横顔を寝室から眺める。
 無表情で、何時もと変わらない横顔。
 矢島の言葉などなかったかのような表情だが、さきほどは必要以上に触れてこなかった。
 それがお互いの答えで、矢島が行ったことの結果だ。
 本来ならば放り出されてもいいような状況なのに、斉藤はこうして世話を焼いてくれている。傍若無人なくせに優しさもあるのだから、憎めない。プライドの高い男が、男よりも下の人間に捨てられたのだから見捨てておけばいいものを、そうしない。
 一方的に傷つけて切って捨て、それなのに世話になっている情けない状況だが、動けないのも事実で。二本目のペットボトルを半分空けたところで床に置き、ベッドに沈んだ。

 寝てしまおうと目を閉じて、しかしすぐに気がついた。
 このベッドを、普段誰が使っているのか、を。

 アルコールで理性が緩んでいて、心に隙があり、油断した結果。
「――」
 脳みそより身体が先に反応した。身体の奥に触れられる感触と、融かされ揺さぶられた記憶。体温が一気に上がり、視界が緩む。
「、」
 鼻腔から感じる匂いは煙草の苦味と男の体臭と、リネンの洗剤の匂い。混ざりあったそれを知っているから、身体が反応して止まらない。
 唇を噛み、鼻からゆっくりと息を抜く。暴走する身体を鎮めようと防衛本能から身体を丸めるが、苦しくなるばかりで落ち着かない。
 水、と腕を伸ばすが、指がペットボトルを倒してしまう。静かな部屋に鈍い音と、水が溢れていく小さな音が連続する。
 それと同時にリビングから気配が動いたのを感じ取り、矢島は身体に力をいれた。
 視界に入ってくる斉藤が、床のペットボトルを拾い上げた。視線がこちらを向き、驚きに目を開く。
 ――今、自分はどんな顔をしているのだろうか。
 残念ながら、自分自身では判らない。

 斉藤がベッドに乗り上げ、車の時と同じように矢島の顔の横に触れないまま腕をつき、真上から見下した男が目を細める。
 視線を合わせて、けれど何も言わない男を見ていたら矢島のほうが先に口を開いていた。
「一方的に切ったんだから、あんたから捨てろよ」
 矛盾していることを言っていると自覚はあるが、考えることと自分への言い訳に疲れて訂正する気にもならない。元々考えることは嫌いで身体を動かして結果思考が付いてくるほうが得意だというのに。
 矢島の言葉に斉藤が喉で笑う。
「何度言わせればその脳みそに刻み付くんだろうな。それともわざとか?」
「何がだよ」
 触れないギリギリまで斉藤が顔を近づけ、笑う。
 その気配に肌がざわつく。顔を背けても何の意味もないと判っていながらも背けると、耳元に熱を感じた。
「俺に言わせて優越感に浸りたいのか」
「ンなわけねーだろ……」
 こういうところが本当に理解出来ない。何故そんな思考に辿りくのか。
 勝手な解釈をして話を進めようとする男を睨みつけるが、斉藤は意に介すことなく笑っている。
「切っただろ、俺は」
「俺は一言も同意していないが?」
「――っ」
 それに、と明らかに機嫌のいい声が続く。
「自白させなければ証拠として機能しない。今更そんな初歩的なことを言わせるなど、俺が警察学校に送り返してやろうか」
 判りやすすぎる挑発に、拳を振り上げて目の前の肩にぶつける。だが斉藤は、そんな衝撃など何もなかったかのように矢島を見下ろし続け、

「――お前が手に入らないのならなにもいらない」

 気配をガラリと変えて、斉藤が言葉を落とす。
 明確な独占欲の塊が、矢島の精神を一気に焼きに来た。
 視線を逸らすことも許されず、男の腕に囲まれたまま、その業火を浴びるしかない、現実。
「お前の腕が他の人間を抱くつもりなら、それより先に俺がお前を殺す」
 声だけを聞くならば、淡々と。
 矢島を見る視線も狂気の一欠片も見つからず、何時もの冷静な瞳で。だからこそ、それが一時の感情なのではないと、矢島に教え込む。
 殺人者やその一線を越えることへのハードルが低い者に必ず見える、心理のブレがないからこそ、恐怖を感じる。
 その恐怖心が身体を冷やし、汗が前身に流れるのを感じながら、感じたそれを無理矢理押さえ込み、口を開く。
「……殺害示唆かよ、最低だな」
「行われた場合、被疑者死亡で書類送検となる」
 それは、つまり。
「人として終わってんな」
 自分の死体と男の死体が転がっている映像が頭の中に浮かび、首を振った。どんなスキャンダルか。
「それなら、生きているうちに三鷹まで行って入水自殺でもするか?」
「水位足んねえだろ」
 作家の有名なエピソードを持ち出して笑っているが、これも本気でやりかねない。
 というか、同じ場所で死ぬ必要はこれっぽっちもない。世間様を無駄に騒がせてどうする。ただでさえ男二人が一緒に心中でもしようものなら騒がれること必定だというのに。
 ……違ぇそうじゃねえ。
 何故死ぬ方向になっているのか。
 まだ酔っている自分の思考に嫌気がさして目を瞑った。

「疲れた……」
 心の底から呟くと、斉藤が体勢を変えたのかベッドが揺れた。衣擦れ音がして空気と熱が離れる気配を瞼を閉じたまま追う。ボス、と音がして矢島の右側に荷重がかかる。きっと、いつもの位置に座ったのだろう。
「ひとつ問うが、矢島にとって真っ当とはどういう意味を持つ?」
「は?」
 話題を繋がりが判らずに思わず瞼を上げると、思った通りの場所から思っていたよりも真剣な顔をした斉藤が矢島を見ていた。
 質問に何の意味があるのか意味が判らないが、斉藤の中では繋がっているのだろうし、本筋から逸らそうとしているわけではなさそうなので思考を転がす。
 真っ当。つまり、まとも。
「真面目に……、曲がったことをしないとか」
 改めて問われるとなんと言っていいのか口が回らない。
 矢島の答えを聞きながら、斉藤は煙草に火をつけ、深く吸い込み吐き出す。
 ふわ、と空気に苦味が混ざる。
「つまりお前は俺につまらん人生を歩めと」
「……頼むから酔っぱらいでもついていける会話をしてくれ」
 真っ当からつまらないに変わるプロセスが理解出来ずに素直にそう訴えれば、斉藤は何度かフィルターを焼いた後に口を開いた。
「お前が言う真っ当とは、子孫を残して死んでいくということだろう。どこが楽しいんだそれ」
「生物の原始的行動を真っ向から否定するのは素直にすげえよあんた……」
 繁殖時期になったら性別が変わったり、そもそも子孫を残すのに雌雄が関係のない生物ならまだしも、人間が繁殖するには役割の違う肉体がいるわけで。人間は、男同士ではそれが出来ない。
「あんたの子供、生意気だろうけどめちゃくちゃ美人だろうな」
「……」
 美形と美人の掛け合わせ。絶対顔がいい子供が生まれてくることが約束されているわけだ。
 そんな気持ちのまま喋る。
「俺みたいな庶民だったら結婚しようがしよまいが好きにしたらいいけど、あんたみたいな金持ちの上流階級はそうはいかねーんじゃねえの」
「くだらん」
 空中に紫煙を吐き捨てながら男が言う。
 半分以下になったその煙草の火種が真っ赤で目を細めた。
「そもそも俺は命令されるのは嫌いだ」
「けど、親に反抗したって意味ないだろ」
「親の言いなりになって人生過ごせと? それこそ生きている意味がないな」
「いやだから……」
 交わらない会話は平行線。
 お互いに譲るつもりのない主張にどうしたらいいものか。

     ●

「強情張るのもいい加減にしろ」
「何のことだよ」
 右手に煙草を持ったまま、左腕を矢島に寄せてくる。
 何をされるのかと顎を引くが、男の指は矢島の肌に触れず、しかし目尻から頬に向かって指が流れた。
「駐車場で泣いた」
「…………は?」
 斉藤の指が矢島の髪を軽く弾き、戻っていく。
 が、それよりも今言われたことが理解出来ない。思考が真っ白のまま斉藤の続く言葉を耳にした。
「声がいつもと違って、見たら明らかにお前は無自覚に泣いている」
 つまり、と斉藤が笑った。
「言葉よりもその無意識こそが本心だろう」
「な……、」
「お前は切り札のつもりで言ったのかもしれんが、むしろ俺の切り札になっていたんだよ」
 二の句が告げない矢島に対して斉藤は更に続ける。
「お前が何を言おうと言葉は上っ面でしかない。お前が言葉で俺を丸め込むことは出来んだろうし、物理的に逃げれば死体が二つ増えるだけ」
「――……」
「こういう時、警察官というのは不便だな」
 煙草を灰皿に押し付けた斉藤は、再び矢島を囲うようにのしかかってきた。
「俺が言ったことを、嘘だと否定出来ない」
「……っ」
 その通りだ。
 警察官は、職務中その目でみたことを証拠と出来る。本来は状況が限定されるし、乱用出来ることではない。しかし、だからこそ警察官は基本的に嘘をつかない。プライベートであろうとそれをすると、職務に支障をきたす可能性が出てくるからだ。
 オオカミ少年とならぬよう、嘘を付かない代わりに言わない、言わせる、という手段を取りがちとなる。
 くわえて、上官と下官という絶対的な身分のせいで、斉藤の言葉を断切することが出来ないのだ。こうしたプライベートの中に斉藤がそれを持ち込むことはないが、矢島側の身についた反射は消えるものではない。
 駐車場でのやり取りを忘れているわけではないけれど、霞がかっているのも事実で。かつ自分の姿は客観視出来ないため否定材料が見つけられない。

「俺を切りたいのなら、それを本心にしてから言え」

 斉藤の顔が近づいてくるのを咄嗟に顔を背けると、そのまま首筋に唇が触れる。その柔らかな感触に息を呑んだ。今まで触れられていなかったというのに唐突な接触。
 濡れた舌が筋に沿って這わされる。
「っ、」
「認めろ」
 好きだと認めろと、男が言う。
 視線を合わせて湧き出てくる感情は。

 激流に流されるような感情の嵐。
 惹きつけられる存在感。
 嫌悪の裏側にある感情。

 心の底に押し込めても、
 箱の中に閉じ込めても、
 視線が合えば、
 気配を感じれば、
 それだけで振れるモノ。

 黒くて暗くてどろっと濁っている、それ、を。

「こんな感情もの、そんな単純な名前じゃねえ」
 斉藤の後頭部を掴み、唇を噛み合わせる。歯がぶつかりお互いに痛みを感じるが、けれど離れない。
 斉藤の腔内に舌を這わせると、感触が違うところがあり、そこに触れると男が息を呑んだ。駐車場で矢島の頭突きが直撃したところだろう。
「ざまぁ」
 呼吸の合間にそう嗤えば、反撃のように男が矢島の舌を噛んできた。痛みに眉を顰めつつ、ぐ、と押し込めば歯が離れて柔らかい触れ合いに変わる。
 苦い唾液が咥内に入り込んでくる。上顎を刺激されて溢れる唾液と混ざり合い、二人の口元を汚していった。
 体温と匂いを同じになるくらいに離れず、境界線が曖昧になっていく。腫れた舌同士が擦り合うと気持ち良い。
 時間感覚がなくなるほどに貪り合い、最後は酸素が足りなくて口を離した。
「……確かに、そうだな」
 二人分の唾液で汚れた口元を拭うことなく、斉藤が矢島の顎を掴んで笑った。
「これは、好き、などという優しくも甘い箱の中に収まるような、そんな感情じゃあない」
 矢島だけでなく、斉藤も同じ感情を持つのだと。
 綺麗な感情が多いのならこんなことにはならないのだと。
 傷付けあって、補い合って、それでも離れられないコレを、恋や愛なんて美しい言葉で表すなんて間違っている。

「これは、――貪慾執心だ」

     ●

 どちらかが女だったのなら、こうはならなかった。
 どちらかが職業を変えていたら出会わなかった。
 偶然という名の運命を恨みながら、お互いの肌を傷つけあう。

 深く男を咥え込み、下から突かれる。苦しさすら感じるのに身体の奥がぐずぐずに溶けているのが判る。
「ん、っ……く」
「今日は役に立たないな」
 ベッドに寝転ぶ斉藤が、自身の上で腰を振る矢島の陰茎を指で弄ぶ。
 殆ど勃っていない、いつもより硬さのないそこ。酔いのせいで血が集まらない結果。それでも触れられると気持ちが良い。
 下腹部を斉藤の掌が押すと、中にある男の陰茎が強く感じられて、内部を締め付けてしまう。
 前屈みになり、斉藤の肩を両手で掴んで、身体を揺すった。
「は、ぁ、あ」
 疼痛を生む腹の内側を何度も擦る。先走りが斉藤の腹を汚していくのを視界に収めながら、しかしやめることが出来ない。
 矢島の陰茎から指を離した斉藤は、そのままこちらの胸を摘む。息を飲むのは、違う種類の痛みに身体が反応したからだ。
「大人しく、転がってろよ」
「それじゃあつまらんだろ」
 親指で粒を転がされ、引っ張られ。下半身に比べたら小さな刺激なのに、無視することが出来ない。
「……ん、ぁ、」
 気紛れに下から突かれるたびにそれより前よりも深く咥えこんでいるようで。底なし沼のような恐怖がどこかある。
 矢島の下で笑う男に食い破られそうな恐怖。
 それを誤魔化すように上半身を倒して、斉藤の鎖骨に噛み付く。
「ッ」
 かたくてやわらかい。その皮膚を破れば、口の中に血の味が広がった。
「っく、ァ、あッ――」
 腰を掴まれたかと思えば、臀が斉藤の肌に触れるほど落され、目の前に星が飛ぶ。
 勃たない前から欲が出ることなく、男を咥え込んだ内部のみで達する。硬い陰茎を逃がさないかのように締め付ける自分の身体。けれど、気持ちが良い。
「ま、だいっ、つ」
 中から抜かれ、お互いの場所が入れ替わる。片足を担がれ、横抱きで斉藤が入ってきた。一度抜けたことで男の存在が増した。シーツに縋り付きながら、律動を受け止めるが、声を止めることが出来ない。
「は、ぁ……、ア、んン〜〜っ」
 甘く達しては波に攫われ、深く落とされるを繰り返す。
 シーツの間から斉藤に視線を移せば、余裕を無くしている表情。鎖骨に滲む赤が映える。
 担がれた足に力を込めて下に落とし、同時に腕を伸ばせば意図を察した斉藤が矢島の背に腕を回す。
「ふ、ぁ……っん、ん、ぅ」
 煙草の苦味と血の味。
 どちらも最低の味なのに混ざりあうと興奮する。
 深く触れ合い混ぜあって飲み込む。

「たまに、お前を食ってしまえれば楽になるのにと思う時が、ある」
 斉藤が、矢島の首に歯を立てながらそう呟く。
「ひとつになってしまえば、もう誰もお前に触れられない」
 傷つけた場所に舌を這わせ、矢島の身体を抱きしめる腕に力がはいる。
「俺だって、たまにあんたのこと殺してやりてえと思う」
 男の背中に腕を回し、爪を立てる。
 そこにいるだけで求心力を発揮する、最上の男。
 男女問わず、善悪問わず、人を惹きつける存在。
「ただ、そうしたら」
 ぐ、と奥を抉られ身体を逸らす。

「こんなこと、二度と出来なくなるからやらない」

 その台詞は矢島と斉藤、どちらが言ったのか。どちらが言ったとしても同じことだと笑い、二人だけの悦に溺れた。