2022年5月16日
前日夜から降り出した雨は次の日も太陽を見せることなく、しとしとと冷たい水を地に落とし続けた。その水は空気を冷やし、やっと暖かくなってきた気温を下げるには十分だった。
そんな雨の一日。照明器具が、蛍光灯からLEDに変更されて久しいが、それでも何となく暗く感じる部屋の中で矢島と香川は一日監視カメラの映像と向き合い続けていた。
東京駅周辺にはいくつかコインランドリーがある。主に使うのは国内外問わずの旅行者や長期出張者等だ。
殆どが一見客故に、下着泥棒がしやすく、かつ事件になりにくい。一枚二枚無くなっても気付かなかったり、警察に届けるのを面倒くさがったりするのだ。
今回は珍しく通報があった。
一ヶ月会社の研修で地方から出てきている社会人二年目の若い女性。会社の用意したビジネスホテルの近くにコインランドリーがなく、会社近くである東京駅近くのコインランドリーを利用していたとのこと。
全自動洗濯乾燥機に金を入れて回したあと、その場を離れて夕飯を食べに行っていた。乾燥が終わった頃に戻ってきて畳んで持って帰る、ということを週に三回の頻度で行っていた。今回で三週目。回数にして十回目。
持ってきている下着の数は多くは無いため、無くなればすぐに判る。確かに入れたことを覚えているブラジャーとショーツのセットが無くなっており、その場で通報。というのが聞かされた概要だ。
刑事達の予想としては、行動パターンを読まれた上での犯行で間違いないだろう、が満場一致で、そうなると何をやるのかなど一つだ。
現場周辺の監視カメラチェック。まずは被疑者を割り出し、そいつが映っている時間をチェックし、どこから来てどこに去るのか、監視カメラで追えるだけ追う。何十……下手すれば百もの監視カメラの映像から。
「俺、小さい頃ゲーム少年だったんですよ……」
「おう……」
「その時は一日テレビ画面見てても目が疲れるとか気持ち悪くなるとかなかったのに……」
「香川、それは歳をとったってことだ……」
語尾に三点リーダーが付いているのは許して欲しい。すでに今週全ての時間をこの作業に当てており、有名な大佐のように目を抑えて「目がぁ」と呻いているのだ。
コインランドリーでの下着泥棒は、一箇所だけで犯行を重ねることは殆どない。必ず“狩場”を数箇所持っている。被疑者はすぐに判明し、現在は行動パターンを洗い出している最中だ。別チームは現場及び周辺のコインランドリーを張っている。ビデオチームは狩場をいち早く把握することが急務。そのための連日のにらめっこだ。
ビデオチームと現場チームどちらが辛いかという議論は、隣の芝は青く見えて自宅の芝は茶色に見えるため毎回配置された方が辛いという結論に至る。
つまり、今現在は現場チームが羨ましい。
「目が……うう……女子達が頭痛いって言ってるのこういう時にああこれかって思いませんか先輩」
「思う。普段は二日酔いと何が違うんだって思うけど全然違うよな……」
「それです……」
冷凍庫から持ってきた、ケーキを買うと付いてくる小さな保冷剤をそれぞれ目元に当てながら静かに会話をする。たまにこめかみに持っていくと、ひやりとした冷たさが心地好い。
警察官は身だしなみもきちんとしてなければならないため、数日に一度帰宅してきちんと風呂に入って清潔な着替えを持って帰ってくることが許されている。
というかそうしなければ、うっかり市民に警察官だとバレた時に臭かったらご意見が届く。バレなくとも酷いと通報される。制服組に職質されるとどうなるか。上司から説教され、署内で笑いものになる。地獄だ。
後は監査が入った時のための言い訳でもあるがこちらについては毎回毎回その言い訳いいのかという無茶が通っているため、実はあまり意味が無いのかもしれない。
あと数時間耐えたら、一度この地獄から脱出し帰宅出来るのだ。今、矢島と香川の気力を持たせているのはその数時間後に見えるゴールのみ。
「……やるか」
「ふぁい……」
香川が気の抜けた応答をしながら体勢を戻す。保冷剤はまだ冷たいから、持ったままでいよう。
「目が、……開かない……」
「指でこじ開けろ香川。開かないのは気のせいだ……」
「うう、はぁい……あと五時間……」
屍一歩手前の身体に鞭を打ちつつ、今見えるゴールのために仕事を再開した。
●
「傾いてるな」
「あんたの常識が?」
「お前の身体が、だ。馬鹿のくせに何でそういう軽口はスラスラ出てくるんだ」
お互いに酷いことを言い合うのはいつものことだ。そしてそれに対してお互いいちいち噛みつかない。所謂お約束というやり取りだ。矢島は現在、そもそもそんな気力もないし、馬鹿扱いはいつものことだ。
矢島の言葉に苦笑した斉藤は後部座席のドアを開ける。何時もは助手席を開けるのに何故と顔を見ると、乗れと無言で促される。
言い合いも面倒で従い、中に入ると外から声がかかった。
「少し寝ろ」
「ぅあ……?」
上半身を車内に入れた斉藤が、矢島の身体を横たわらせる。元々気力も体力も減っている身体は、その圧に素直に従ってしまった。
元々、今日斉藤と会うことを約束していたのだが、今週初めに事件が起きて、そこから根を詰めていたため、リスケするのを忘れていたのを思い出したのは、署を出てからのことだった。
待ち合わせ場所にいけば何時ものように涼しい顔をした男が待っていて、ギリギリにでも思い出せて良かった。流石にブッチするのは後味が悪すぎる。
斉藤の、骨張っているのに細い印象を受ける指が矢島の頭皮を優しく揉み、瞼の上を掌が覆う。じわりと染みてくる体温に息を吐いた。
「俺、風呂入ってねえよ」
「後で堪能させろ」
「…………」
変態発言も、こんな関係になってから多少時間が経った今はスルー出来るようになってきた。というか、今は疲れていて怒りも嫌悪も沸かないだけではあるのだが。
「連絡、忘れてて、けど……」
「判ってる。いいから寝ろ」
言い訳なのか単なる報告なのか自分でも纏まらぬままに口にした言葉は、斉藤の声に遮られて喉の奥に消えていった。
緩やかな体温に導かれるように、ふつりと意識が途切れたのを感じ取った。
●
甘やかされているなと感じるときは、よくある。
下に見られているわけではなく、対等の人間として判りやすく男は矢島を甘やかす。
一方的な施しなどごめんだが、斉藤はその辺り巧みで、矢島を巻き込んだ最初の時のように強引に行いながらも、矢島が本気で嫌がることはしない。その境界線すらも、つまりは甘やかしの一種だ。
noblesse obligeの精神を根本に教育されている節があり、弱っている人に対して手を差し伸べるし、それに対して礼を必要としていない。それが当然、と思っている。
矢島への甘やかしとて、恐らくその一種でもある。――斉藤の中でどれだけ区別されているのかは知らないけれど。
流石にそれを施しだと勘違いするようなことはもうないけれど、関係が始まった当初はそう感じたこともあったし、それに対して苦言を伝えたこともあった。しかし本人は言われて意味が判らないという顔をした。それでこの行動は本人にとって嫌味や上から目線の金持ちアピールでやっているわけはないのだと、矢島は知った。
「出来るものがそれ相応の振る舞いをすること、それが何故嫌味になる」
とは、本人談。
住む世界が違いすぎるし、そこを深掘りすると貧乏人の僻みになりかねないので以降はあまりにも矢島の価値観に合わない場合は言うが、理解が及ばない場合は疑問は口にしつつもそのまま受け入れるようになった。
斉藤も共に過ごすうちに矢島のラインを探っていたのか、最近ではどちらの出番もなくお互いがそういうものとして受け入れ流せるようになっている。
元々斉藤家三兄弟の中では一番――あくまで三人の中でという注釈を付けるが――一般人と密接した仕事をしており、ファストフードやコンビニ、立ち食い系で食事をするような生活に馴染んでいた男だ。仕事柄下流から中流に生きる人々と接していたため理解が早かった。
上に行くほど俗世とかけ離れすぎていて、矢島は未だに特に長男は何を考えているのか判らない宇宙人としか思えない。三男曰く我儘な子供というお前が言うな発言は聞いたことがあるが。
矢島の印象として、長男は俗世離れしすぎていて次男は浮世離れが激しく三男は現実離れがすごい。
人を使うことと、人に手を差し伸べること。
斉藤の中でそれはどちらも両立しており、どちらかに偏っているわけではない。
そして、その中でも特別、として接せられているのが矢島だという現実を考えるとこそばゆく感じるのだ。
それにいつか慣れる時はくるのだろうか。
●
水面から浮上するように、意識が戻ってくる。
瞼を開けるとそれでも暗く、視覚より先に嗅覚が慣れ親しんだ匂いを感じ取った。
顔の上にかかっている布を少しずらすと、光源が増えた。この光源だと黒にしか見えない、実際はブルーブラックの質の良いスーツが視界に入る。匂いの大元はこれかと思いながら起き上がり、狭い車内で伸びをした。
「起きたか」
「スッキリした」
「それは何より」
上着を簡単に畳んで座席に置き、矢島自身は一度外に出た。合流していた時には降っていた雨は止み、冷たい空気が身を包んだ。
外で上に伸び、欠伸をひとつ。
時計を見ると、合流してから十五分経っていた。
もっと寝た気がするくらいにスッキリしているのは、深く眠れたからだろう。目の奥の痛みやこめかみの鈍い熱さが無くなっているのは有難い。
背後の車のエンジンがかかるのを聞いて、パーキングメーターを見ると残り五分ほど。ちょうどいいタイミングで目覚めたようだと思いながら助手席に潜り込んだ。
「何食いたい」
「刺身」
起きる時、海をイメージしたためか、刺身が食べたくなった。
肉のように腹は膨れないが、たまに食べたくなる。肉より単価が高いため、特別感もあるのだ。
「なるほど」
そう言いながら運転席から身を乗り出して、矢島の顎を掴んで引き寄せる男に対して身を委ねるように身体から力を抜いた。
「移動するよりも近くで食べてさっさと寝たほうがよさそうだな」
唇が触れ合う直前、ひそりと囁く男に対して否やはない。今、矢島がどんな仕事をしているのかまでは知らないだろうが、草臥れ具合から察しているらしい元上司がそんな提案をしてくる。東京駅の反対側にいけばいくらでも店はあるので、場所は任せることにする。
少しだけ冷えている体温が重なると、先程寝起きに嗅いだ煙草と斉藤の体臭が混ざった匂いを感じ取った。
存在が強烈なのと、していても違和感がないが斉藤は人工的な匂いを身に纏わない。だから煙草の匂いが嫌いな人間としては近寄り難く感じるのではないだろうか。
体温を同じにした頃合にそれは離れ、斉藤はそのまま矢島の首筋に鼻を埋めてスンと鳴らした。――こういう所は理解出来ない。
「なぁ、あんた匂いフェチなのか?」
風呂に入っていないと先程主張したのに、わざわざ近寄ってくるばかりか匂いを嗅ぐ不可思議。風呂に入っていない男の体臭など、百害あって一利なしだというのに。
「他の匂いに興味はないな」
犬のように何度か鼻を擦り付けて矢島の体臭を堪能し満足したらしい男は、口を開きながら運転席に戻り、シートベルトに手をかけた。出発の合図に矢島も同じようにしながら隣の声を聞いた。
「しかし、そうだな……」
車道に出ながら、斉藤は言葉を続ける。
「他の者だろうが、人工的な匂いだろうが興味は一切無い。ただ、お前の匂いだけが俺を狂わせる」
「くっ」
る、わせる、とは、なんだ。そんな日本語なかなか耳にしない。
それこそドラマなんかの創作物の中でしか耳にしない言葉を自分自身に告げられて、心臓が変な音を立てた。
「……重てえよ」
「そうだな」
否定するどころか肯定され、何とも言えなくなる矢島の鼓膜に続きが刺さる。
「だから言っているだろうが。早く同じ場所まで落ちてこい、と。そうしたら重さは等分だ」
「ンな単純な話じゃねーだろ……」
同じ場所まで来ることを疑わない一方で、強制的に連れて行こうとはしない。緩く囲い誘うだけに留める頭の良い男は、それならば矢島が逃げ出さないと知っているからだ。
逃げ出すきっかけを丁寧に潰してどれだけ時間がかかろうとも、斉藤が望む一方方向にしか誘導しない。そしてそうしていることを矢島が気付いていることを知った上でやっているのだから、たちが悪い。
いつかの見合い話から別れを一方的に決めたあの時よりも、本気で逃げ出そうとしても斉藤はそれを許さぬだろうことを矢島は知ってしまっているし、矢島がそれを知った上で留まりなおかつ誘導に逆らっていないことを斉藤は知っている。
恋、などと甘い菓子のような、未成年が憧れるような、絵本に描かれるような。古今東西多くの書き手が様々な形で表現してきた物語に描かれる優しい感情よりも、どちらかと言うと怪談話の元になるような愛憎劇や怨みつらみに属するのではないかという、重い感情を矢島に向ける。そうしながらも矢島に触れる指先は優しく、強引さはあっても無理矢理ではないし、こちらの意思を尊重しながら甘やかしてくるのだ。
眠らない街は、雨に濡れた地面が反射していつもより眩しく同時に暗く、その明暗の差に目を細めた。
職業病でしかないが、助手席に座っているとどれだけ疲れていても対向車や歩道へ目を走らせてしまう。その合間に運転席をちらりとみて、そういうことなのだろうかと内心思う。
矢島に寝ろといって、車を移動させなかった理由だ。
車が動いていると寝られない矢島のために、仮眠を取らせるために動かなかった。
気付かれていたこと自体はいいのだが、それに対しての甘やかしに気恥ずかしさを感じて、奥歯を噛んだ。やはり慣れない。言わずにされて甘やかされてから気がつくから、余計に。雁字搦めにする一方でそんな軽やかなことをしてくるのだ、この男は。
「……」
何か言いたいけれども、何を言えばいいのか。
悩んで結局何も言えずに沈黙するしかない矢島の思考を割るように、スマホが震えた。
引っ張り出して画面を見て、通話ボタンを押した。
丸ノ内署からの連絡は、つまりは休みが無くなったことを意味するのだが、出ないという選択肢は存在しない。
風呂入りたかったなと思いながら電波の向こう側からの連絡を聞く。
現在追っているコインランドリー下着泥棒。捜査員から被疑者が現れたが立地の関係上盗んだという確定が見えなかったらしい。被疑者はそのまま車に乗り込んだため現在追っている、という報告をきいたところで、視界に飛び込んできた情報にとっさに口を開いた。
「すれ違った黒の軽!」
「――っ」
運転席の男が矢島の言葉に反応し、直後の信号で転回。禁止のところでなかったのは運が良い。
「矢巡査部長?」
「被疑者車両とすれ違ったので追跡します。後ろ……に、元々追ってたやつらも多分いるんで」
「多分」
「見えねんスよ。誰が追ってたか教えてください。あとこっちでやるんで」
「……了解。何かあったら連絡を」
署に戻るよりもそちらのほうが早いと返答して電話を切った。
前方を見ると、一台挟んで被疑者車両。本来この位置にいるべき捜査車両が後方に見えない。
「撒かれたとか、そんな馬鹿なことあると思いますか」
「あるみたいだな」
「……」
説教何分かな、と心の中で手を合わせつつスマホに送られてきた説教予定者の名前を見る。
階級は同じだが、入った年度が一つ上の先輩の名前が表示されていたため、そちらにメールを送ることにした。ペアはタメ口きくなんてとんでもねえという大先輩故に恐らく運転中だろうが、あの人は運転中に自分のスマホをコンソールボックスに置いておくから、ペアが見るだろう。
被疑者車両の背後を取ったことと、このまま追うこと、被疑者が車を降りたところでまた連絡することを伝えた。
「ところで管理官、車での尾行経験は」
「そういえばないな。徒歩は何度かやったが」
「……」
丸ノ内署生活安全課課長時代に、斉藤は現場に出ていくという珍奇な行動をよくしていた。矢島も二回一緒になったことがあるが、何故官僚がわざわざ現場に出てきたのか未だに理由を問うたことはない。
「今ばかりはお前の指示に従うから、好きに使え。矢島巡査部長」
赤信号で止まった隙に、こちらを見て目を細めて笑う。
巡査部長が警視を使うなんて本来なら有り得ないのだが、本人がそう言うのなら気にせず運転してもらおう。
●
運転をしていると、自分の車の前後や対向車は気にしても、その更に前後――特に後方――は気にしない場合が多い。こればかりは人間の認知力のせいなので、意識しなければほとんどの運転者は二つ後ろの車のことなど気にもとめないだろう。
この位置は尾行するにちょうどいいが、それも信号がある通りならば、という注釈がつく。
信号のない生活道に入ってしまうと、車が三台並ぶのはよほどのことがない限りありえないのだ。二台でも早々ないため、難易度が跳ね上がる。とはいえ、被疑者の住むマンションは通りに面しており、交通量が全くないわけでないのは此方側にとって運が良かった。
斉藤には二つ前を気にしてもらいつつ、後をつける。
スマホの地図で被疑者宅近くを検索。車で監視出来る場所は限られているため、経験があれば現場を見なくともここならなんとかなるだろうという位置は検討がつく。まあ実際行ったら無理でしたなんてことも無きにしもあらずだが。
車の方向的に家に帰るだろうと当たりをつけ、斉藤の車についているカーナビを操作して被疑者宅から少し離れた有料駐車場を指定し、確定。
「まだもうちょっと先ですけど、俺を途中で降ろしてその後はカーナビが指示する駐車場にいてください」
「判った」
被疑者車両が左折、その後ろであり自分達の車の前にいる車は直線。曲がった先から見失わない程度に距離を空けながら後ろをついていく斉藤は流石という塩梅だ。大抵初めてだと距離を取りすぎて見失うことが大半なのに。
あとは少し先の角を曲がれば被疑者宅というところで件の説教予定の同僚の番号から連絡が入った。
シートベルトを何時でも外せるように右手をロックに掛けながら応対する。同僚とペアである大先輩からの報告では、別ルートを通って現在被疑者宅へ接近中とのこと。恐らく同時刻あたりに到着予定。
それならば合流したあとは自分は署に戻って報告し、それで一度放免になるだろうかと考えていると、
「直進したな」
「……まじかよ」
家に続くルートに入らなかった。それをそのまま電波の向こう側に報告。向こうはとりあえずそのまま被疑者宅に向かってもらい、こちらは追いかけることにする。
「コンビニに寄っただけですってならねーかなめんどくせーから」
「本音が漏れてるぞ」
「車内尾行なんてこんなもんだし」
通話を切って動く密室に戻れば最初に出てくるのはそんな不満。
「なるほど、上司の悪口を言ったり?」
「ゴソーゾーにおまかせしまーす」
言っていることも言われていることも判った上で、それぞれの立場から肯定も否定もしない。組織とはそういうものだ。息抜き場所は必要。
後ろをついていくこと数十分。
とっくに丸ノ内署の管轄は出ているため、そろそろ地理が怪しい。管轄内なら裏道細道がどう繋がり混み具合も判るが、管轄外に出てしまえば大通りならまだしも、それ以外はさっぱりだ。
「どうする」
前の車は、こちらが今までノーマークだったコインランドリーに駐車しようとしている。仕事が増えたという心の叫びを喉の奥に引っ込め、代わりの言葉を口にした。
「通り越して次の路地曲がったところで降ろしてください。で、位置情報お願いします」
自分のスマホをコンソールボックスに置くと、斉藤は片手でハンドルを握ったままスラックスの後ろポケットから私用スマホを取り出し指紋認証で開けた後にこちらに投げた。
「代わりに持っていけ」
「あんたな、」
文句を言うよりも先に角を曲がられたため、反射的にスマホをつかんで外に出た。
小走りでコインランドリーに近寄りながら被疑者の動きを確認する。
店内には被疑者一人。動いている洗濯機はないが、男はきょりきょろと店内の様々なところを確認している。新しい狩場にするための現地調査の可能性を考えていると、スマホが短く震えた。見ると、見覚えのある携帯番号がポップアップで表示されており、タップして開くと自分の携帯番号からこのスマホ宛に斉藤から位置情報を送ったこと、応援到着は十五分程度を見るようにと手短に記載されていた。
なんというかおかしなことになっているなと思いながら、了解と返事を送る。
被疑者は持ってきたのであろうタオルを数枚洗濯機にいれて、金を放り込む。そのまま椅子に座って置いてある雑誌を手に取った。その姿はどう見ても一利用者にしか見えない。
一旦歩きながらコインランドリー前を通り過ぎ、道路を渡って反対側にあるバス停の近くに立った。そこから男を観察するが、とくに不審な動きは見えない。洗いが終わり、乾燥機へ自分で洗濯物を移動させ、またコインを投入する。その間も客は男一人で、他の誰も入ってこなかった。
今までここに男が来たことはなかった。初めての場所で犯行に及ぶよりも、下調べをするというのは情状酌量の余地は皆無なのだが、ここでいつか犯行を重ねる可能性があることを考えると、今日こうして露見したことは幸運だろう。
「矢島」
声に視線を向ければ、説教予定の二人組。片手を上げて視線で促せば、二人共コインランドリーを見る。
「仕事増えたなぁ」
「ここで始めるより先に令状取れるといいんだけど」
そんな愚痴とも軽口とも取れるやり取りをしながら、簡単に引き継ぎをして矢島はその場を離れる。この後署に戻って報告書を上げるまでがお仕事だ。
斉藤のスマホから自分のスマホに電話をかけるという違和感に腹の底がむずむずしながらコールすると、電波はすぐに繋がった。
「こっち引き継ぎ終わったけど、どこにいる?」
「さっきの場所から東に向かったところに見えるコンビニの駐車場」
「判った、すぐ行く」
通話を終えて見下ろす他人のスマホ。パスワードの開いた、個人携帯。
今なら全部の情報を抜くことが出来る。……出来てしまう。
「――――」
試されているのか、いないのか。
深い意味や考えなどないのか。
判断が付かないまま待受画面を暫く眺め、ため息をついて電源キーを押して画面を落とした。
指定されたコンビニに足を進め、駐車場に止まっていた車に乗り込んだ。
「俺みたいな下っ端と違うんだから、ホイホイ個人情報入ったもん渡すんじゃねーよ」
スマホを突き返しながら言えば、斉藤は暗くなった画面と矢島を見比べ、ふと笑った。
「何だ見なかったのか」
「……あ?」
「別に見られて疚しいことなんてひとつもないから見て構わんぞ。何なら暗証番号も教えてやろうか」
「いらねーよ! あと俺の携帯返せ」
矢島の言葉に笑う斉藤は、それでも突き出した掌の上に矢島のスマホを置いた。その画面を見て、目を見開く。
「これ」
「この後に役立つだろ」
「役立つっつーか」
メモ帳アプリに羅列されている文字は、そのままコピペしたら報告書として体裁を持つもので。
「俺も当事者だからな、不正にはならんだろ。必要なところはお前が足せ」
だから、と。
「部屋を取るからさっさと終わらせて戻ってこい」
つ、と首筋を撫でられ、顎を引く。
「……やんねーぞ。明日も仕事なんだから」
「判ってる。少しだけ触れさせてくれたらそれでいい」
これは甘やかしなのか先行投資なのか施しなのか。
判断を下そうとする思考を邪魔するように、斉藤の指が首筋から喉仏に触れ、鎖骨を擽っていく。指の腹と背を使い往復して緩やかに。
「お前に触れていると、安心する」
「意味判んねえよ……」
首の後ろ、生え際を爪で引っ掻かれてぞわと肌が粟立つ。
「匂いも体温も、焦がれた期間が長いからな。離れ難い」
「散々、勝手してんだろ」
「足りん」
応酬に耐えられなくなり、三度往復したところでその指を捕まえ、払った。
「これは少しだけに含むからな」
「こんなのは戯れにも入らんだろうが」
それでもそれ以上触れてくるようなことはせず、斉藤は大人しく車を発進させた。
振動に身を任せながら、自分のスマホに残されたメモ帳に目を落とす。事件のことを知らない男は、それでも回転の早い頭で概要を掴むのか、あった事だけを綺麗に纏めてある。
これをこのまま出したら何時もの矢島の提出する報告書との差が激しすぎて疑いを持たれることは必須なので、今のうちに下書きをしてしまおうと斉藤のメモ帳を幾許か……いや、それなりに参考にさせてもらいつつ一から制作にかかった。
別に、早くホテルに入るためではなく、休みたいからだと脳内で自分に言い訳をしながら。