2022年6月13日
用箋挟に矢島の報告書を挟み、赤を入れていく上司に斜め後ろからついていく。
この後捜査会議と上層会議が立て続くと言われ、なら急ぐ必要なかったじゃねえかと思ったところで、だから移動の間に見るから一緒に来いと斉藤に言われたが、まさか言葉通り“移動の間”に見られるとは思ってもいなかった。
「お前はいい加減、小学生レベルのてにをはの間違いと誤字脱字を無くしてからもってこい矢島」
「気付かないもんで」
迷うことなくペンを走らせながら、斉藤が何時もの小言を口にした。それに返す答えも何時も通りだ。
歩く速度も階段を降りる速度も何時もと変わらないのだから、素直にどういう体幹と反射神経と視野の広さを持っているのかと感心する。同じことが出来るかと言われたら出来ない。優秀なエリート様は、こういう所作もスマートに出来るらしい。けっと内心吐き捨てた。
「何度言っても同じことを繰り返すってことは俺に怒られたくてわざとやっているのか?」
「――、すんません」
んなわきゃあるか、と叫びたくなる気持ちを右拳の中に抑え込む。
何かと嫌味と嫌がらせをしてくるこの上司は、矢島の反応を楽しんでいる節が見える。反応したら負けだと思うのに、毎回律儀に苛立ち吠えてしまう。そんな矢島を見て嗤うのだから、更に苛立つのだ。
「訂正したものは俺の机の上に置いておけ。それも見るから、俺が戻るまで帰るなよ」
「……はい」
返された紙の赤色の多さにげんなりする。今日も残業決定だ。
署内に残っている間に事件が発生した場合、最初に出動するのは班ごとで決められているが、追加で人手が必要となったらそんなものは関係なくなり駆り出される。故に残業はいいことがないというのに。
赤ペンをしている間、代わりに斉藤の荷物を持っていたため、訂正が終わったのなら返そうと荷物を抱え直す矢島は、故に前にいる男が足を止めたことに一瞬気が付かず、ぶつかりそうになった。
斉藤は自販機を見て、スラックスのポケットから指を出す。そのまま小銭を投入した。
「少し時間がある。何がいい」
「え、いや、いらないです」
光るボタンを前にそう聞かれるが、奢ってもらう理由がないからと反射的に辞退する。
斉藤はそんな矢島を横目で見た後、ボタンを押した。取り出され、差し出されたのは矢島が好んで飲むミルク多めのカフェオレで。
「上司が奢るって言っているんだ。素直に甘えておけ」
「はぁ……」
差し出された冷たい缶を受け取ると、斉藤は続けてブラックを買い、釣りをポケットに放り込んだ。
そのまま自販機横の壁に寄りかかる上司の隣に立ち、プルタブを引く。それを見てから矢島も同じように開けた。
「ごちそうさまです……」
「ああ」
冷たくて甘い飲み物を口にして、思うのは何だこの時間。斉藤とこのようなことをするのは初めてで、落ち着かない。反対側の壁を見ている斉藤の表情は無く、何か話題を、と考えて今見た光景のことを口にした。
「課長も、小銭そのままポケットに入れるんすね」
「……ああ、お前らがやっていたのを見て、真似したら案外使い勝手が良かったからな」
「外行く時なんかは、札だけ入れとくと身軽でいいんすよ」
「なるほど。今度はそうしよう」
矢島を見て、目を細めて笑う斉藤を初めて見た。いつも嫌味ったらしい言葉と嘲笑、もしくは眉間のシワとお説教ばかり見ているから、“笑顔”が新鮮で視線を奪われる。
顔が整っていて、幼馴染以外の美形というものに弱い矢島としては、いつもこんななら苛立ったりしないのにと思った。
顔が良くとも男で、嫌味とパワハラがセットな時点で矢島の中でこの男はさっさと異動してほしい上司ナンバーワンではあるが。時期的にあと一年もいないだろうから、それまでの辛抱だと言い聞かせて毎日を過ごしている。
「矢島は、甘いもの好きだよな」
「まぁ、元々好きですけど。頭使ったり身体動かすと欲しくなるんで」
「ほう、お前がいつ脳みそ使っているんだ?」
「……」
こういうところが本当にムカつく。上司でなければぶん殴ってやるというのに。握っても潰れないスチール缶に存分に力を込めてストレスを逃がす。
何も言葉を返さない矢島の横で、最後の一口を飲み干した斉藤は、ゴミ箱に空き缶を入れてから矢島の持つ斉藤の荷物を攫っていった。
「入れた糖分が残っている間に仕上げておけよ」
「……了解」
いつもの嫌味の笑みに切り替えた斉藤がそう言いおいて去って行くのを見届けたあと、矢島は残ったカフェオレを飲み干し、同じようにゴミ箱に放り込んでから自席に戻るため踵を返した。