2022年6月15日
記憶喪失になったらしい。
随分と他人事なのは、矢島の意識としては自分自身が「矢島千紘である」と認識しているからだ。幼少期の幼馴染姉弟との出会いも強烈すぎて覚えているし、小学校の頃ガラス突き破って怪我したことも覚えているし、中学の時赤点とったテストを焼却炉に投げ込んだことをチクられて、親に大笑いされたあとにゲンコツを貰ったことも覚えている。
昨日、幼馴染と進路の話をしたことも、覚えている。
――なのに。
「ここにいても何も出来ないですけど、先輩一人暮らしですから、マンションにいてもらうのもまずくないですか」
「だよなぁ。それなら実家の方が生活面では安心か」
「ええ。ご両親に説明して……怪我の通院もありますし」
「矢島のご両親仕事なんだったか」
「さすがにそこまでは」
座っている矢島の頭上で交わされる会話は、見知らぬ男二人。さきほど、変な感じですけど、と笑いながらされた自己紹介で、人の良さそうな青年が香川という名前なのだと知った。それと一緒に矢島の今の状況も。
自分の手を見ると、確かにゴツい感じがする。指が太いというか、関節が重いというか。そこから前腕上腕と視線を移すと、明らかに太くがっしりとしている。
他人の身体のようで、おお、と素直に感激してしまうのは鍛えられた筋肉だと判るからだ。
「何してるんですか先輩」
「え、あ、自分の身体じゃないみたいですげーなって」
自分の腕をもんだり回したり眺めていたのを香川に見られていたらしい。
「警察学校で肉体改造されますからねぇ。ノンキャリアだと一から九まで体力で、残りが学力みたいなところありますし」
「へえ……」
幼馴染の美人な姉の軽口で決めたような将来は、しかし実際その道に続いたという未来を見ると不思議な感覚がある。未来を覗き見しているという非現実も、自分の進路が希望通り叶った現実の前には些細なことのように思えた。
「先輩の意識として、高校……?」
「高三です」
「ってことは十八」
「誕生日まだなんで十七」
「実年齢より一回り下の先輩かぁ」
不思議だなぁと笑う香川とて、年齢が退行しているなんて不思議な状況に狼狽えているように見えない。警察官というのは、不可思議なことに対しても対応出来るようになるものなのだろうか。自分もそう出来ているのだろうか。聞いてみたい気はするが、聞くより先に車の準備が出来たと呼ばれ、矢島の意識としては昨日も過ごしていた家に帰ることとなった。
●
老けた印象を受ける両親と、大人なのに中身は子供という意味の判らない状況にお互いどう接したらいいのか判らなくなったため、今日は顔を合わせずに寝ようと問題を明日に繰越、矢島は部屋に入った。
その部屋は自分の記憶と違っていて、人が毎日生活している空気はなかった。
本当に自分が知る時間ではないのだな、と実感が湧いてくる。
ベッドの上に乗っている布団は見知ったものではなく新品で、自分の匂いがしない。その、余所余所しさ。
ため息をついて布団の上に座り、ポケットの中に入っているものを取り出した。
揃いになっているキーケースと財布。それと、スマートフォン。腕時計も取ってしまう。
この中で一番気になるものと言えばやはりスマートフォンだろう。なにせ、自分にとって未来の機械だ。
知っているものよりも大きくて、センターボタンがない。サイドボタンを押したらパスワード画面になった。あっているかどうか判らぬまま、自分が記憶しているパスワードを入れるとロックが解除され、ほっとする。
「おお、知らねえのが沢山……」
変わらぬアイコンと見たこともないアイコンがそれぞれ沢山。
メールを開いても知らない名前ばかり。中身は仕事のことだったり、友人ともやり取りだったり。幼馴染の名前もあるが、日付は数ヶ月前でさほど会っているわけではないらしい。というか、あの幼馴染は今どう生きているのだろうか。頭の良いバカだから、ヒモやっていてもおかしくないよな、などと思う。
「……?」
登録されていない、番号が表示されているものがひとつだけある。開いてみると集合場所や近況が短く書かれている。絵文字もテンションの高さも感じられない、淡々としてやりとり。
やり取りが生まれているのに登録されていないことに首を捻りながら電話アプリを開くと同じ番号から何度かかかってきている履歴があり、こちらからもかけている。メールに戻り送信履歴を見ても、その電話番号の相手の名前は出て来ない。仕事関連だと必ず最初に皆名乗っているし、未来の自分も名乗っている。
だというのに、その番号のみのものは一番最初から最新まで、一度も名前が出てこない。
まるで、誰に見られても相手を知られないようにしているかのよう。
「なんだコレ……」
考えたくないことが頭をよぎるが、いやいやまさか自分がそんな、と首を振る。それからもう一度受信メッセージを見ると、相手の一人称が俺で男だということが判り胸をなでおろした。不道徳ではなさそうだ。
しかしそうなると、何故痕跡を消すかのような状態になっているのか。この相手は誰なのかが気になってしまう。
自分の性格上、交流のある相手ならばきちんと登録をする。だから、これはわざとこうしているということだ。
好奇心がうずく。
これは誰で、未来の自分とどんな関係なのだろうか。
電話とするかメールとするか画面を見ながら悩む。一方的に用件が伝えられるのはメールだが、声や感触が判りやすいのは電話だ。さて、どうしようか。
まるでそんな悩みを見透かしたかのようなタイミングで着信が届く。相手は、番号のみ。
ニコール分考え、通話ボタンを押した。
「……はい」
「そろそろこの番号が何なのか、興味が抑えられなくなってきた頃だろ」
緊張と共に出ると、機械の向こう側からテノールが響いた。挨拶も何もなく、届いた言葉とその声にドキリと心臓が響いた。全くもってその通り、見透かされている。
「頭を打ったときいたが、吐き気は」
「はっ? 特にはない、です」
「そうか。退屈だろうが、大人しくしていろよ」
「……はあ」
最初の言葉とは関係のない、矢島の身体を気遣う言葉に生返事をする。
声を荒らげているわけではないのに、こちらが話すタイミングを外すように言葉が来る。名乗らない謎の男は、しかしこの電話口で敵意は感じられなかった。
「あの」
「俺がお前の何なのかは、言わない」
「――」
静かな声が矢島の言葉を遮る。
強い意思を感じる声に言葉は喉の奥に消えた。
「……明日も同じ時間に連絡してもいいか」
黙ってしまった矢島に何を思ったのか、声を柔らかくして男が言う。
悪い人ではないのだろうが、真意が全く見えず不気味な感じがする。ただ、ここで拒否したらきっと二度と電話はかかってこないだろうとそんな予感はあった。
「名前、なんて呼べば……」
次のため、せめてそれだけでも知りたいと問いかければ、電波の向こう側にいる男が、く、と喉奥で笑った。
「それはむしろ俺が知りたい」
男の言葉が理解出来ずにいる間に、挨拶もなく通話は切れた。
何一つ情報は増えず、謎ばかり。メールよりは血が通ったやり取りになるかと思えば、矢島が喋ることはほとんどなく翻弄されただけ。
何なんだ、と思いメールを開く。
せめて明日はもう少しやり取りが出来るように情報を仕入れようと、履歴を最初から漁ることにした。