朝涼

苦さと甘さの思い出を

2022年11月11日

 仕事に蹴りをつけて外に出たのが日付の変わる一時間前。私用のスマホを確認したら、そこにひとつの名前。メッセージを確認して車に乗りこみ、最短でマンションに着いたのがその十五分後。駐車場の一番奥に見慣れた車を見付けて目を細め、隣に駐車すると運転席の中で目を閉じていた男が顔を上げ、斉藤と目が合った。
 ほぼ同時にそれぞれ運転席から外へと出る。
 斉藤が呼ばない限り、自らここに近寄ることのしない矢島が、ここにいる。今までにないシチュエーションに浮き足立つ自分を自覚しながら視線で促して共に十七階へ。

「ん」
 部屋に入ったところで、矢島が手に持っていたビニル袋から中身を取り出しこちらに差し出した。
 赤が特徴的な箱。意図が判らず矢島を見ると、矢島もこちらを見て首を傾げた。
「去年、あんたが丸ノ内で課長やってた時、欲しがってたってのを今日みんなで話してて思い出した」
 言われて、そういえば矢島とそんな会話をしたことを思い出した。今日この日、企業が作った記念日にかこつけて流行る遊び。無理だと判っていながら、からかい混じりに菓子を要求したこと。その日はその後、応援要請がかかりそれ所ではなかったのだ。
 そのまま次の日になって話題をぶり返されることもなく、斉藤の中でも忘れ去っていたこと。
 小さな接点、会話、触れ合い。
 埋まることの無い上司と部下の境界線の中で、少しでも視界に入ろうと足掻いていた頃の話だ。矢島にとっては嫌なパワハラ上司でしかなかった斉藤を避けようとしていた頃。判りやすく避けようするものだから、こちらは面白くなく追いかけた。……きっと、そのことについてはまだ気付いていないはずだ。
「いらねえのか?」
「いや、いる」
 引っ込めようとする矢島の手首を掴み、こちらに引き寄せながらそのまま抱きしめる。
 大人しく腕の中に収まる男の体温と匂いを存分に楽しみながら、思う。
 一年前の今日は、一年後にこうして矢島に触れられるようになる未来など、予想していなかった。ストレートである男に対して希望を持つほど楽天家ではなく。けれど、諦めきれるほど軽い気持ちでもなく。
 異動も決まっていなかったから、最後の思い出とばかりに手を出して嫌われて、姿を消すという荒業を使うこともしなかった。
 矢島に手を出したあれは、異動が決まったからこそ行った賭けだった。
 賭けて、勝って──今ここに矢島がいる。
 そんな未来を、夢想することすらしなかった一年前。
「ワインを開けるから飲んでいけ」
「俺車なんだけど」
「泊まっていけ。明日休みだろ」
「……」
 後ろ首を掌で撫で軽く唇を吸うと、矢島の身体から力が抜けた。それを了承と見て、そこでやっと赤い箱を受け取った。