2023年5月30日
手の中にある、小さな紙切れ。つるりとした表面に押してある今日の日付を、親指でゆっくりと撫でる。
ほんの数十分前までこの部屋に居た男の手元にもこの紙はあるが、どうするのだろうかとふと考えた。
今まで付き合ってきた相手と行った時には、義務感から王道な場所に行っていただけだったため、さっさと捨てていた。下手したら、現地でゴミ箱に入れていた時もあったはずだ。
なんの感慨もなく、思い出など、という感傷もなく。
――水族館がいい。
そんな連絡が届いたのは、異動後で落ち着かぬまま本庁で仕事をこなし、その最中に古巣へ用事が出来て足を運んだ丸ノ内署で、一週間ぶりに会った矢島を抱いた後。不貞腐れたような売り言葉に買い言葉のやり取りからデートの約束を取り付けた二日後。
そっけない短文で、けれど業務連絡とは違って敬語も定例文の挨拶もないものだった。それがあまりにもらしくて、けれど同時に初めて貰った私用のメールだと思うとガラにもなく嬉しくもなった。
さすがにこの短文なら誤字もないのかと思いながら、了承の意を送り、そうして今日。
矢島の私服は業務の中で見ることもあったから新鮮味などどこにもなく、そして同時にわざわざ着飾るという意識もないのだということも判明した。まあそれもそうだろう。矢島の中で今の斉藤の立ち位置はきっと曖昧だ。
唐突に変わった立ち位置と関係性。
それに戸惑い混乱していることは判っているし、何より矢島が現時点で斉藤と同じ気持ちであるなどと楽観視出来るほど、脳みそ花畑でもない。
ただそれでも、斉藤が伸ばした腕を矢島が自分の意志で拒否しなかった。その事実だけがあるのみだ。
あの夜何故矢島が斉藤を受け入れたのか、斉藤はもちろん、矢島自身もきっと判っていない。
絆されたのか、流されたのか、魔が差したのか――。
何にせよ、一度受け入れたのならこちらのものだ。零と一の差はそれほどに大きい。女が好きだと喚いていた男が、自らの意志で一歩を踏み出した。矢島の性格ならば、その意識が自覚の上だろうから、無かったことになど出来ないだろう。
口元に浮かぶ笑みを押さえることをせず、今日の記憶を反芻する。
最初は戸惑いながら、けれど少しずつ純粋に水族館を楽しみ始めた姿。関係を表す斉藤の言葉に挙動不審になったり、笑ったり。
上司と部下だった時には見ることが叶わなかった姿を、今日一日で随分と拝むことが出来た。
この小さな半券を見ているだけで、様々な記憶が蘇ってくるのが新鮮で、不思議だ。欲しいとは思ったし、同時に本格的に手に入れればそれで満足して、すぐに興味が失せるとも思っていたのに。実際は正反対で、深みに嵌っていく感覚。
自分にも他人にも興味がなく、流されるように生きてきたのに。弱味も弱点も、自ら作ることをしなかったというのに。
矢島の存在がそうなるのかどうか、今の斉藤には判らないけれど、少なくとも過去の誰とも違うのだけは判る。
……初めてこの部屋に他人を入れた。今までの相手にはしなかったことを、何の躊躇いもなく行った。
それは、矢島の素性が判っていて、そういう意味で警戒する必要がなかったから――というのもあるけれど。それでも、プライベートで初めて出かけてその足でなんて、なかなか大胆ことをしたなと自分自身に笑う。
何の変哲もない、ただの紙を持ち帰って、こうして眺めているなんて過去の自分が見たら、それこそ嗤うだろうに。
そんな自問自答をする斉藤の耳に、スマホがメッセージの着信を告げる。
画面を見ると、さきほどまで一緒だった男から。
――今日はありがとうございました。
と、たった一文のメッセージ。
「律儀なことだ」
呟いた声は我ながら柔らかくて、けれどそのことを悪くないと思いながら、返信画面を開いた。