朝涼

矢島千紘の反応が見たいがためだけにフレーバーシガレットを購入する斉藤誉

2023年6月1日

 助手席のドアを開けた瞬間から、違和感があった。
 乗り込み、シートベルトをしながら無意識にスンと鼻を鳴らした。幾度かそうして違和感が確定したところで、運転席に座る男がくつりと笑った。
「期待通りの犬仕草だな」
「あ゛?」
 睨みつけるが、斉藤はそんな矢島を気にすることなく、アクセルを踏んでハンドルを切る。滑らかに動き出す高級車。その車内が、いつもと違う匂い。
「変えたのかよ」
 芳香剤は置かれていないのに、車内はいつもあえて言うのなら無臭で、新車独特の匂いも人工的な匂いもない。そして、芳香剤ほど強い匂いでもない。なにより、こんな匂いの芳香剤は売っていないだろう。
 となると、残るは斉藤自身の匂いということになる。この男の日常の中で、匂い立つものなど、ひとつしか浮かばない。
「お前の反応が見たかっただけだ」
「……はあ?」
 言いながら上着のポケットに手を突っ込み、出したと同時に矢島に向かって何かを放り投げた。
 軽くて四角のそれは、全体が灰色で、文字が赤い。そして、話題の中心の匂いが強くなった。
「……ブラック、デビル?」
 悪魔らしきキャラクターの絵まで、ご丁寧に描かれている煙草の箱。匂いを嗅ぐとやはりこの匂い。
 斉藤は右手でハンドルを握り、視線も前に向けたまま左腕を伸ばして矢島が持つ箱を器用に開けれ、中の一本を引き出した。
 そのまま斉藤は、こちらを一瞥することなく矢島の口の中にそれを突っ込んだ。
「……!?」
 何に驚けばいいのか。一切こちらを見ることなくやり遂げたことか、その間運転が一度もぶれなかったことか。
 それとも、口の中に入れられたフィルターからの思わぬ刺激が。
「甘い」
 喫煙したことのない矢島でも、煙草のフィルターは単に紙と繊維でしかないことは知っているし、煙草自体もどちらかといえば苦いものだということを知っている。
 だというのにこの煙草は、フィルターが甘く、匂いも甘いのだ。先程乗り込んだ時から感じ続けているこの甘いチョコレートの味と匂い。
 フィルターを咥えたままだと、紙に水分を持っていかれるため口から離す。
 手の中で転がしていると、差し出された掌。一瞬困惑し、しかし意図を察して咥えていた煙草を乗せた。
 斉藤はそれを咥えて、火をつける。
 ふ、と一口目を吐き出すと強くなるチョコレートの匂い。
「こんな甘いの、あんたに似合わねえな」
 強烈な男のイメージは、どちらかというと苦い。そんな男から香る甘ったるいチョコレートの匂いは、ちぐはぐで面白さすらある。
「俺はお前に甘いだろ」
「……はあ? どこがだ」
 嫌味とパワハラとセクハラと、俺様発言や態度、王様のような傍若無人が服を着ているような男のどこがと本気で訝しげると、煙草を口から離した男は、吸口からフィルターをそのまま親指でゆっくりと撫でた。
「ベッドの中であれだけどろどろに溶かされておいて、まだ足りないのか」
「――――」
 奇を衒うことのない直接的なその言葉に、いつもは気にしないようにしている記憶が揺さぶられ動揺する矢島を、赤信号で車を停止させた斉藤が笑って見つめる。
 何か、悪態を。空回る思考と脳内で再生される記憶と、縺れる舌が噛み合わない。
 そんな矢島をじっくりと眺めた斉藤は、強くフィルターを焼いた後、矢島に向かって紫煙を吹きかけた。
「……っ」
 咄嗟に目を瞑る。何度やめろと言ってもやめないこの仕草。今日はいつもとは違って苦さとだけでなく、甘さも同時に襲ってきた。
「甘いだろ?」
「ねえよっ」
 笑う男をぶっ殺してやりたい。そう思いながらまとわりつく甘さを散らすために窓を全開にした。