2023年8月21日
「あんた、それ……」
月曜日夜の呼び出しは珍しいと思いながら足を運んだ先。玄関の鍵を開けてそのまま仁王立ちでいつも矢島を待っている男の姿が、今日は少々違った。
仁王立ちには変わりがないが──というか何故いつも仁王立ちなのか聞きそびれている──、上半身は裸で、しかしその左肩には真新しい包帯が巻かれていた。
顔はいつもの無表情だが、矢島の腕を引っ張る力がいつもより弱い。
「外された」
「はあ? 誰に」
と、問いかけつつも、そんなこと出来るのはこの世に数人だろうと、脳裏には答えがすぐにはじき出される。
「……職場近い方?」
間接的なのか直接的なのか微妙なラインの問いかけをすると、眉間に皺。正解のようだ。
手を引っ張られる先はリビングではなく風呂場で、こちらを掴む手が汗ばんでいるため、この男ももしかしたら帰宅したばかりなのかもしれないとふと思った。
「何があったんだよ」
「…………」
矢島の問いかけに、斉藤は無言を返す。以前もそうだったが、この男は長兄に負けると不機嫌に黙り込むのだ。ガキかよ、と最初に考えたことをもう一度思う。斉藤はこちらに言葉を返さずに包帯をむしり取った。肩を覆うように貼られた湿布。左腕はだらりと下に垂れたままだ。
「嵌ってんだよな?」
「ああ、外した張本人が嵌めた」
「……」
本当に、何をやっているのかこの兄弟は。
矢島も男兄弟で小さい頃はそれなりに喧嘩もしたものだが、今この年齢になってまでやることはないし、ここの兄弟に至っては十も年齢が離れているというのに。
「腕動かさねえほうがいいだろ、風呂入るのやめとけよ」
「手伝え」
なんでこいつは命令口調でしか言えないのかと、血管が浮かぶ。だが、仮にも怪我人だ無碍にするのも酷いだろうと、ため息一つで怒りを腹の中に押し込めカッターシャツと靴下を脱いで、スラックスの裾を捲し上げた。
「全部脱げばいいだろ」
「ぜってーごめんだ」
「なんだ期待してるのか」
「脳みそ腐ってんのか」
さっさと行けと手を振ると、にやにやと笑いながら全裸になった男が風呂場へと入っていく。その後に続くとシャワーの音がすぐに響いた。
中に入って湯船に湯を張り始める。外からだけじゃなく、浴室内でもボタン一つで適正量が入るのだから、有り難いことだ。
斉藤を座らせて髪を濡らしていく。裂傷ではないから、濡らすことを気にしなくていいのはありがたい。そう思いながら、シャンプーを泡立て猫毛に指を滑らせた。
自分のものならば、全体に広がればそれでいいと適当に洗ってしまうが、人の髪をそんな適当に出来ない。矢島とは違う柔らかな髪は、雑に扱うのを躊躇わせた。頭皮に爪を立てぬようにゆっくりと指の腹を滑らせ、泡を広げていく。強さの加減が判らず恐恐と動かす矢島に、しかし斉藤は文句もなく大人しかった。
その姿が珍しくて、少しだけ楽しい。
自分で洗う時よりも弱い力で洗うのも慣れていく。指通りの良い柔らかな髪と、いい匂いのするシャンプー。なかなか無い角度で見る斉藤の姿と、風呂場という雰囲気が、矢島の口を軽くする。
「あんたこれ地毛なんだよな」
濡れて濃くなっているが、それでも毛先は赤茶色をしている。太陽に髪が透けるとさらに色が判りやすい。毛先を弄ぶように泡を滑らせると、少しだけ顔を上げた斉藤が唇を曲げて笑った。
「染めてないことは、見てるからお前だって知ってるだろ」
「? …………、」
言われている意味を考え、視界の中の存在を見つけ何のことを言っているのか思い当たって言葉をなくす。今更、すでに何度も見ているもの――更に言えば自分にもついているもの――を見て、赤くなるようなメンタルはしていないが、かと言って何も思わないわけでもない。
「言うことがいちいちオヤジ臭えんだよ!」
乱暴に髪の毛をかき混ぜて斉藤の視線を外すと、くつくつと男が笑う。からかわれていると判ると苛立ちしかない。
ハンドルを弾くように上げてシャワーの湯を斉藤の頭にかけていく。筋肉を伝って泡が流れていくのを見ながら、乱暴に髪をかき混ぜると、痛いと抗議が来たが知るか。そんな矢島にどう思ったのか、斉藤が右腕を伸ばして矢島の腰に抱きついてきた。
「うわっ! 濡れるから離れろ!」
「うるさい」
……この馬鹿力!
基本スペックが高いせいで、純粋な力勝負では悔しいが負ける。代わりにスピードはこちらが有利。ただ、スピード重視になるとどうしても一撃が軽くなるので、手数が少ないとすぐに追い詰められるのだ。荒っぽい喧嘩にも慣れているエリートとは何なのだといつも思う。
シャワーヘッドを外に向け、右腕を外そうとするが、片手と片手だとどうしても負ける。血管が浮くほど苛つくが、それが現実。ならばと斉藤の右腕から逃れるように、右に身体を振って逃げる。そのまま一回転して力の方向性を流して腕を外した。
むすっとした顔を向けてくる美形は無視。顔面に湯をぶっ掛けてからハンドルを戻しコンディショナーを手に取った。
「矢島」
「大人しくしてねーのが悪い」
濡れた髪をかきあげる姿は無駄にイケメンで、美形に弱い自覚のある矢島としては、下半身よりも顔を見たくない。
とろりとした液体を、猫毛に塗り広げていく。将来のハゲとは無縁そうな健康的な毛根は、男として羨ましい限りだ。そんなことを考えながらシャワーで洗い流す。
そのままスポンジにボディソープを出して泡立てた。その匂いをかいで、普段はむしろ自分がこうされているのだということをふと思い出し、一瞬思考が固まる。
……いやいや思い出すな。
矢島に対して甲斐甲斐しい男は、セックスの後の後処理を進んで行う。普段は王様で他人に命令ばかりしているというのに、だ。その流れで風呂場で幾度洗われたことか──ということを思い出しかけて、必死でその記憶を沈みこませた。
首から順番にスポンジを滑らせていく。思考は無、何も考えない。
「……邪魔すんなっての」
ようにしたいのに、洗われている張本人が邪魔をしてくる。矢島の顎をつかみ、視線を合わせてじっと見つめてくる。髪よりも深い赤銅色が見える瞳は、少しだけ楽しげで憎らしい。
言葉なく軽く口付けられ、それを受け止める。
すぐに離れたが、視線をまた合わせることが出来なくて顔を逸らし、分厚い身体を洗うことに戻った。
耳の後ろや鎖骨、そこから左腕に触れると動かしていないためか、やはり冷たい。他の場所との体温差が強いのと、痛みが響くかもしれないと優しくゆっくりと泡を滑らせていく。
前上半身を洗ったらそのまま背中。明るい場所でまじまじと見ることが少ないが、本当に羨ましいほどに筋肉が付いている。一体どこでトレーニングをしてこれを維持しているのだろうか。
「下は自分でやれよ」
「何だ、洗ってくれないのか」
「そこまで大した怪我でもねえだろ」
言ってスポンジを渡そうとするが、それを受け取らずに矢島の手首を掴んでくる。何だよと少し引くが、男も引かない。むしろ引き寄せる動きで矢島を留めようとしてきた。
「逃げるな」
「離せって」
矢島の話を聞かない男は、変わらずの馬鹿力で矢島を引き寄せつつ、こちらの耳元に唇を寄せてきた。
「期待しているから離れようとするんだろう。なら、応えるのが正解か」
「ち、──っ、」
違うと否定するよりも先に、首筋を噛まれる。
痛みに身体が竦んだところに、斉藤は矢島の手首を離したかと思うとそのままハンドルを上げて湯を出した。フックに掛けられたシャワーヘッドは、その下にいた斉藤と矢島を平等に濡らす。
「てっめ! ふざけんな!」
「さっさと脱げ」
慌ててハンドルを戻すが、すっかり濡れ鼠だ。ムカつく。
「今日ぐらい、怪我人なんだから大人しくしてろよ」
「大した怪我でないからな」
言葉尻を取るなと思いながら、こうなったら引かないことももう学習している。こちらとしては苛立ちがあるが、怪我をしているのは本当のこと。抵抗して悪化させるのも考えものだと、ため息ひとつで様々な感情を押し込めた。
濡れて張り付く服を悪戦苦闘しながら脱いで、脱衣場に放り投げている間に、斉藤は自分の身体を洗い終えたようだった。
「洗ってやろうか」
「湯船に沈めんぞてめえ!」
反響する矢島の声に笑う斉藤は、それでも大人しく湯船に入っていった。
視線を感じながら自分の身体を洗うというのは、それなりにストレスだ。斉藤の視線は特に強いから、気配が纏わりつく。反応したら負けだと、心と表情を無にして上から順番に洗っていく。自分の身体なら、大雑把。それでも一日の疲れが湯と共に流されていくのは気持ちがいい。
シャワーのハンドルを戻して、は、と息を吐く。水分の多い空気が肺に重たい。湯船の方を向くと、相変わらずこちらを見ている斉藤と視線が合う。このまま出たら、確実に面倒くさい。明日も仕事だから、無茶はされたくないという打算が働き──どっちにしても斉藤の望むままというのは気に入らないが──遠慮なく斉藤の身体を椅子にするように湯船に沈んだ。
すぐに矢島の腹に回される右腕と、動かない左腕。触れる左肩は、やはり体温が低い。身体を少しずらしながらひねって、背後の男に振り返った。
「痛ぇのか?」
「尊から、今日一日まではなるべく動かすなと言われているだけだ。痛みはない」
長兄のやる事なす事には反抗的だが、次兄の言う事には比較的素直に聞く三男は、言いながら矢島の肩口に歯を立ててきた。何度やめろと言っても聞き分けない行動に顔を押して遠ざけた後、湯を掬って肩にかける。
脱臼は癖になりやすい。これが理由で何かあったらと、少しの不快感を自分の気持ちのどこに置けばいいのか判らず、無言で斉藤の腕の中に囲われたまま。官僚のくせに現場に出たがる破天荒な管理官は、現場の人間よりも強いけれど、だからこそ怪我ひとつでどうなるか判らないというのに。それを、あの長兄が知らないはずもないだろうに──そう、考えてしまう。
斉藤の指先に促され、唇を重ねる。先程とは違って、すぐに入り込んでくる舌に自分のものを絡み取られ、深く噛み合う。吸って、吸われて、呼吸すらも満足に出来ない状態。唇を話して酸素を取り入れてもすぐにまた塞がれて、粘膜が触れ合う。
「……ん、ぅ……」
臍をくすぐられ、下腹部に掌が当てられる。ひくりと蠢く肌を、斉藤の指が引っ掻いた。
「ここじゃ狭いし……茹だるだろ……」
だから一度離れろ、と身体を離すと矢島が拒否していないことを理解したのか、斉藤は大人しく背中を湯船に戻した。
「お前が何をしてくれるのか、後の楽しみということか」
「だから、言い方がいちいちオヤジ臭えんだっつの」
一つしか違わないというのに、何故言動の年齢が高いのか。半目を向けるが、本人はどこ吹く風で楽しげだ。
明日に響かない程度に出来るといいなと思いながら、すぐ近くにある猫毛の前髪をオールバックにして、デコ出しというレアな美形の顔を拝んでおいた。