朝涼

アイスの差し入れ

2022年7月4日

 いつもより人の気配が無いフロア。M&A事業部はその中でも人が密集している。
 休日出勤という褒められたものではない行動だが、そうでもしなければ平日だけでは到底終わらない。世界を相手とっている案件もあるため、半日のズレは当たり前という状態だ。梶含めて本日の出勤者は七人。
 そんな最中の日曜日。
 報せは見ていたが頭からすっぽ抜けており、総務が更新している全体予定表を日課の中で見て思い出した本日メインの行事。
「……あー」
 今日一日かけて、全館空調点検とネットワーク点検が入っている。
 空調は部署ごとに順次点検、ネットワークのほうは十五時から終了予定時刻は二十一時。
「梶さん、どうします……」
 同じく自席で予定表を見ていた休日出勤仲間の部下が、顔を覗かせて梶に問うてくる。
「切れるまでやるか」
 切れた後のことはその時に考えようと、山積みになった書類に手を伸ばした。どうせ仕事は待ってはくれない。それならば進められることを一つずつ行っていくだけだと諦めの中で指示した。

     ●

 ペーパーレスが叫ばれている世の中であっても、紙は無くならない。データは持ち運びしやすくセキュリティは高いほうではあるが保存の精度がどうしても低く、端末と保存媒体どちらかが壊れたら閲覧すら出来なくなる。紙だと物理的破損や消失でない限りその場で確認ができる強みがある。どちらが良いかではなく、どちらも強みと弱みがあり、今現在の日本では紙媒体の方が使い勝手がいいというだけだ。
 梶が新人で入った頃よりはデータ移行されているものの、まだまだ紙は多く。自席周りはよく燃えそうなほどに囲まれることもある。
 外に出ることの多い営業職のほうがデータ化は進んでいるため、脳裏に浮かぶ同期二人の机上と自身の目の前の惨状を比べてため息をついた。ため息をついたところで、この紙の束は減らないのだが。
 朝一からそれぞれデータ収集、まとめに解析。客先に提出するための資料作り、弁護士からの回答へ目を通し疑問点をピックアップし返信。営業からの無理難題はそいつの上司のアドレスをCCに入れて突っ返しておく。
 いつものルーティンであり、毎日どこかしら違う案件を同時進行。
 気付けば時計の針はてっぺんを過ぎ、長針をさらに一周させていた。
 梶以外は昼に出ていることを頭の片隅で数えていたため、あとは自分だけだとちょうど集中力の切れたタイミングで伸びをしながら考えた。しかし、あと少しでネットワーク点検に入り社内VPNも外部へのインターネットも全て繋がらなくなるため、それを待って昼に行くのもいいだろうとも思う。
 そんな思考でいた梶の耳に部下の声が届いた。
「あ、切れた」
 普段は意識しない空調駆動音。それがふつりと切れると逆に耳が敏感に拾うというもので、しんとなったフロアの天井を見てしまう。
 フィルタ掃除は平日日中に定期的に行っているが、大本の点検と掃除はこうして休業日に行うこととなる。そんな日に働いているほうが悪いわけで、この後暑くなるのも仕方がない。

 諦めの中、冷えていた空気がだんだんとぬるくなっていくのを感じながら仕事を進めること更に一時間半。私用のスマホがメッセージの着信を告げる。見るとそれは今朝方まで腕の中に囲っていた恋人であり、先程無理難題をおしつけようとしてきた営業の上司でもある男で。
『お疲れ。昼行くって言って下まで降りてこいよ』
 それだけのメッセージを暫し眺め、つまりは今、下にいるということを理解してから財布とスマホを持って立ち上がった。
「昼行ってくる」
「梶さん、アイス買ってきてくださいよ」
「使いっ走りにすんな」
 軽口に軽口を返しながら開けっ放しの扉から廊下へ出た。
 大窓ははめ込みで開かず、排煙窓を開けているが涼しいと言えるほど風は入ってこない。それでも開けないよりはマシだとフロアの開けられる場所は全て開けてある。セキュリティとは、時々で程度が変わるというものだ。
 エレベーターで一階へ降りると、壁がない分涼しさがあった。指先で汗を飛ばしながら痩躯を探せば、メイン口の近くの椅子に腰掛けてひらりとこちらに手を振っていた。
「お疲れ」
 ラフなシャツとチノパンで仕事に来たとは思えない雰囲気で。朝、別れる前にも出勤するとは言っていなかった。だというのに、何故ここにいるのか。
「昼食べてる時に思い出したんだよな。今日、点検二つ入ってるって」
 疑問が顔に出ていたのか、神谷はそう言いながら、隣に置いていたビニル袋を手に取りこちらに差し出した。
 受け取り、中を覗くとそこには様々な種類のアイスクリーム。ふわりと中から冷気が顔に当たった。
「お前からってことにしといてくれよ、梶次長」
「……何でだ」
「キャラじゃねえもん」
 あと、と言いながら無表情になっている男を見下ろすと言葉が続く。
「一個以外は全部おまけってこと」
「――」
 ストレートなその言葉の意味が判らぬほど頭の回転は遅くはないが、しかし意図が掴めない。
 顔を背けている神谷はそれ以上口を割る気はなさそうで、つまりは憶測しか出来ない。
 昼までは梶のことも今日の予定も思い出さなかった。けれど何かの切っ掛けで予定を思い出した。そこまでは判るが、やはり何故アイスの差し入れという結論にたどり着くのかが判らない。気紛れだとしたらそれを言いそうなものなのに。
「溶けんぞ」
 袋を持ったまま固まる梶に、神谷がそう声をかける。
「……行くぞ」
 袋を左手に、右手で神谷の腕を掴んで引く。
「どこへ」
「上」
「は? いや、行かねえって」
 立ち上がろうとしない神谷を無理矢理引っ張ると腕の筋を痛めさせかねない。腕は掴んだまま離さず、理由を口にする。
「この後ネットワーク点検で全部落ちるから、解散させる。一緒に帰んぞ」
「……それが何で俺が上に、」
 と、そこまで言って神谷は広いホールを見渡し、ああ、と納得をしたように息を吐いた。
「気遣いどうも」
「……俺が独り占めしたいだけだ」
「独り占めって」
 梶の言葉にふは、と笑う神谷の腕を引くと、今度こそ素直に立ち上がる。歩く先は上へと向かうエレベーター。
 先程梶が使った箱は今もまだそこに留まっており、ボタンを押せばすぐに扉が開いた。
「後で金払う」
「いい、別に」
「……どうも」
「どういたしまして」
 掴まえていた手首から掌への移動させ、力を込めると同じ力が返される。
「汗ばんでんな、梶の手」
「悪ぃ」
 不快だったかと手を離そうとするが、押し留めるように引かれた。元々新陳代謝がよく汗っかきだ。空調が止まっている今、汗はずっと滲んでいる。
「今更」
 親指で繋いだこちらの肌を撫でていく。
 夜を感じさせるその仕草に息を飲み隣を睨むが、当の本人は何食わぬ顔で動く階数表示を見ていた。
「覚えてろよ」
 唸るように言いながら手を解き到着した箱の外に一歩踏み出せば、すぐ後ろを着いてきた恋人が笑みを含んだ声で応えを返した。

「もちろん」