朝涼

もらい事故からぼた餅

2022年11月3日

 面倒くさい。
 と、いう感情を空気に紛れ込ませているというのに、向かう先の相手はその空気が読めないときた。
 ……あーくそ、ムカつく。
 思いながら顔にありありと嫌悪を出して、けれど相手の顔は見ない。こういう手合いは、目を合わせたら逆に詰めてくるからだ。
 チェーン店の居酒屋だがツマミが美味くたまに利用している場所。その上土地柄同類が多く居心地自体は悪くない。──いや、なかった。
 ここがもう少し店側と客側が近いのならば店員の介入もあるだろうが、そこはチェーン店故にあまり期待してはいけない。
 悪質ならば堂々と店員を介入させることが出来るが、相手は隣に座って話しかけているだけ、なのだから。つまり自分でどうにかするしかないのだ。
 そんなことを思いながら透明でフルーツの香りがふわりと漂うグラスの中身を呷る。
 柔らかな味が好みで、来店する度に必ず頼むそれ。慣れ親しんだ味が喉から胃に流れ、鼻から香りが抜けるのを楽しむと少しだけ気持ちが落ち着いた。
「オレ、あんたみたいなクール美人を崩すのが好きなんだよねえ」
 そのタイミングで、今まで聞き流していた隣からの声が綺麗に脳に届いてしまった。
 神谷を見て、そう声をかけてくるタイプは多い。泣かせたいだの喘がせたいだの屈服させたいだの。こちらにそんな趣味はないので全てお断りだ。
 一言も一目も返さない神谷を前に、しかし男はめげる気配もなく言葉を重ねてくる。
 美人を傷付ける趣味はないから殴ったりするつもりはない、縛ったら映そう、メガネかけたまま顔射したいだの。これが口説き文句だと思っているのなら、この男の感性は死に絶えている。
 後ろ首に気配を感じ、触れられる前に腕を伸ばして男の指を払い除けた。
 そんな神谷の態度にもめげない男は、むしろ反応があったことに喜び、更に身体を寄せてきた。
「相手いるって言ってるだろ」
「オレはそんなこと気にしないし、一晩くらいで目くじら立てる男なんか捨てた方がいいよお」
 こういう手合いは、反応があったことに喜びそれを梯子に更に絡んでくる。ウザい。
 空気の読めない素人ではなく、ルールを知った上でそのギリギリを狙ってきているからタチが悪い。
 これと比べるのも何だが、杉本のほうが性質的にはマシだったなと、数ヶ月前までの男を思い出す。あれもあれで性格に難アリだったのだけれども、今隣にいる奴よりかはマシだ。多少思い出補正されている可能性もあるが。
 そんなことを考えながら神谷に触れようとする手を払い除け、言葉は少なくあしらいながらグラスの中を空けていく。これを飲みきるまでに梶から連絡がなければ出ようとそう、決めて。
 いつもの自分のペースより少しだけ早めに。美味しい酒がもったいないが、飲み直しはこの後、梶に付き合ってもらおう。
 男の声を騒音と処理し、意識から追い出しつつも、触れてこようとする手は払い除ける。
 あと三口、というところでスマホが震えた。
 ジャケットから取り出し画面を見ると待ち人からで。男と反対側の左手に持ち通話を開始した。
「悪い遅くなった」
「お疲れ。予想より早かったから気にするな」
 右の指先でグラスの縁をつうと撫でる。
 電話で気配が繋がっただけで心が浮き立つなんて、中学生ではないのだからと苦笑しながらも、そんな自分が嫌いではない。
 だが、その指を隣の男に掴まれ、一気にテンションが急降下する。男の体温が気持ち悪く振り払おうとするが、ぎゅうと握りこまれそれも叶わず、嫌悪が立った。
「ねえ、オレと遊ぼうよ。そいつよりもいい思いさせたげるから」
「……神谷? どうした?」
 無駄な自信満々な発言と、スマホの向こう側から不自然な沈黙を不審に思った梶の声が同時に届く。
 
「早く帰りたいな。さっきメールした場所にいるから、待ってる。孝臣」

 男の手は一旦そのままに、電波の向こう側にそう伝える。
「……あ?」
 梶がどこにどう引っかかったのか手に取るように判るが、説明するわけにもいかない。さて、どうしようかと思う神谷の耳に、少しだけ不機嫌な低い声が届いた。
「……すぐ行く」
 全てが判らずとも、何かを感じ取って短く言う梶に息を吐く。待ってる、と伝えるとすぐに電話が切れた。
 そのスマホを左手に持ったまま、右手首を上へと跳ねあげ隣の男に拒絶を示す。
「いい加減諦めて他あたってくれ」
「えーいいじゃん、何ならそいつも一緒に」
「そっちの趣味はねえよ」
 気を許していない人間に長時間触れられる嫌悪で肌が粟立つ。思い切り払い除けたいが、下手に刺激するとどう転ぶか判らないため無理矢理剥がさない。
 あと少し、梶が来るまでの辛抱。自分に言い聞かせて深く息を吐く。
「こんだけ断られてんだから諦めろって。しつこい男は嫌われるって知ってるだろ」
「しつこくしたいほどあんたが魅力的だから」
 どストレートな口説き文句だが、すでに嫌悪が先立っている神谷にそれは一欠片も届かない。

「なあいいだろ、一晩。金も払うからさあ」
「だから嫌だって言ってる」
 いい加減して欲しいと思いながら、全く楽しくない押し問答をすること十分ほど。もう振り払って外に出てやろうかと考える神谷の背後に気配が立ち、手元が少し暗くなると同時に、神谷の視界に大きな掌が入り込んだ。
「帰んぞ。……恵一」
 視界にある掌とは逆の左腕が神谷の腕を掴み引き寄せながらの声。その声と存在に、自分の身体の芯から強ばりが抜けるのを感じた。
 視界を覆っていた掌が外れ、すぐに右手から馴染むことのなかった他人の体温が離れる。その代わりに慣れた体温が同じように覆った。
 似たようなことなのに、神谷の心持ちだけでこうも感じ方が違うのかと感心するほど、そこに嫌悪はなかった。
 仰ぎみると額からじわりと汗。少し上がった呼吸からかなり急いできたことが伺えた。
「飲んだのそれ一杯か」
「え? ああ」
 梶の言葉に首肯すると、右手が離れて戻ってきた時には千円札。それを机の上に置き、そのまま腕を引っ張られた。
「なあ、美人さんのカレシ? 旦那? あんたもオレと一緒に」
「必要ない」
 めげない男を一刀両断し、歩き出す。
 有無を言わせぬ態度と声。近寄ってこなかったくせに興味津々な視線をこんな時ばかりは向ける店員や他の客、それらの気配も無視するように梶は早足で歩いていく。
 連れ出すためという目的があるとはいえ梶が外で神谷と手を繋いでいる。そのことと、先程の一言目。それを思い返して梶の背中を見ながらひそりと笑う。
 こんなことで喜ぶくらいに浮かれているし、楽しい。しつこい男に絡まれたことは面倒だったが。

「何を絡まれてんだ」
「好きで絡まれたわけじゃねえよ」
 店から出て一つ路地を曲がったところで足を弛めた梶がそう不機嫌に呟いた。
 その隣に並びながら、繋いだ指はあえてそのままに言葉を返す。
 寒くなってきた時期でよかった。少しだけ距離が近くても違和感が少ない。梶が気付いていないうちはこの距離を楽しもうと考えて。
「お前なら上手く躱せるだろ」
「面倒な方向にポジティブだと難しいんだよ。問題起こすと目立つし」
「……だったら連絡してこい」
 梶の言葉に、怒りの方向が神谷が思っていたものと違うことを知った。
「あとさっきの、不本意だからノーカン」
 ぶすっとした言葉にさすがに吹き出した。そっちの怒りも入っていたとは。
「はは、了解。どっちも悪かったよ梶」
「……神谷」
「はいはい」
 握った指に力を込めると、そこでまだ繋いだままだと気が付いた梶が判りやすく動揺する。
 そんな梶に笑いかけ、あと少しだけこのままでと呟いた。