朝涼

「今夜お前の身体予約した」

2023年3月13日

 ちらほらとピンク色が増えてきたことを感じる暖かな空気の中、外訪帰りの神谷は少しだけネクタイを緩めた。日中は春を通り越して暑さすら感じるため、夜のひやりとした空気との差で風邪をひきそうだ。
 野良のタクシーはそこらを走っているが、あえてそれを捕まえようとはせず、街路樹に沿って歩く。ほんの数日前まではアウターにマフラー、手袋までしていたというのに、今週に入ってからは一気に皆薄着となり、色鮮やかだ。
 次の休みは冬物を仕舞わないとなと考えながら、横断歩道の前で足を止める。
 書類の住所は共にしていないが、一週間のうち半分以上同じ扉を潜る男の私物は、ここ数ヶ月で随分と増えた。最初は遠慮がちに、神谷がそのためのスペースを空けておいたら察して持ち込んで来て。
 自分以外の私物が家にある、なんて初めてのことではないのに面映ゆい。
 初めてではないけれど、ここまでの関係になった相手は初めてのことで、戸惑いと気恥ずかしさとが綯い交ぜとなり、時折八つ当たりしたくなる。ポーカーフェイスは得意な方だったはずなのに、そんな神谷を上回る鉄仮面具合と、その態度に。
 普段はデリカシーがないくせに妙なところで察しが良くて、神谷の精神がブレると甘やかしてくるのだからたちが悪い。
 ……ああいうのを人たらしって言うんだろうな。
 強面なのに上司、同期、部下からも慕われている。その優しさで無自覚に人をたらすのだ。
 本人は全く気付いていないが、梶を狙う女性は多い。下心を持たない優しさは、下心を芽吹かせる。
「────」
 あの人とかこの人とか、と浮かぶ顔を払う。
 神谷と関係を持っている限り不誠実なことはしないだろうが、色んなところで無防備故、自分たちの始まりのように寝ている間に既成事実取られかねないなと、実は心配はしている。こんなこと、考えたところでどうしようもないのだが。

 自分の部屋に相手の居場所を作って、縛ることは独占欲の現れだ。
 昔の自分ならあり得なかったことに戸惑いがあって、思考するたびに身体の芯が振れる感覚に未だ慣れない。
 かといってそれは悪い気持ちになるわけでもないのだから、案外自分は図太いのかもしれない。
 年度が変わったら異動があったり、新入社員が入ってきたりと人間関係がまた変わる。いちいちそれに流されるほど若くはないが、あの無自覚人たらしはきっと、無自覚なまま人に好かれていくのだ。
 下手につついて自覚させるのも違う気がするが、予防線は張りたい。

 そんなことを思いながら、まだ信号が変わらないことを確認してスマホを取り出しメッセージを打ち込んで送信。
 それに気付いた後、どんな言葉を返してくるだろうかと想像しながら、横断歩道から外れ空車のタクシーを拾って乗り込んだ。
 自分の感情をぶつけても受け止めてくれる心地良さ。甘やかされたいと素直に思えるようになった自分の変化。だからこそ生まれる、起きていない未来への不安。それらを察して人たらしである恋人は、神谷を甘やかしてくることだろう。
 車窓から流れるビル群を見ながら、さてどんな予防線を張ろうかと思考した。