朝涼

記憶に残る記念日へ

2023年6月3日

 眼前につきつけられたものと、それを突き出した男を何度か見比べてから口を開いた。
「……なんだよ」
「お前に……」
「……へえ」
 視界にある、赤ピンク黄白と様々な色と、青臭さのなんとも言えない匂い。これが好きという人もいるのだろうが、慣れていない神谷からしたら、少々刺激の強いものだ。
 薄いペーパーに包まれ、真っ赤なリボンで留められている、花束。
 片手で持てるほど小さな束だが、存在感が凄い。
「浮気でもしたか?」
「んなわけねえだろ」
 これっぽっちも本気でない声で、取り敢えず世間一般的に多い理由を口にする。我ながら、あまりにもやる気のない声が出たが、言われた梶も全く同じ声音で否定してきた。梶にこんな気配りが出来るのなら、そもそもバツは付いていない。
「で、これなんだよ」
「とりあえず受け取れ。お前のだから」
 ぐっと花束を胸元に押し付けられ、受け取ると梶の手はさっさと離れていった。包装紙に移った梶の熱を感じながら、きちんと持ち、上から覗き込む。
 花には全く詳しくないが、バラとかすみ草は判る。逆に言うと、それくらい有名な花しか判らないのだが。
「宮川が、今日はなんかの記念日だから、嫁に花買って帰るって言い出してな」
 ソファに座り、引っかかっていただけのネクタイを投げるように机に置いた梶が、口を開いた。

     ●

 二人とそれぞれの部下と、合計四人で外訪し先方をお暇したのは定時を回った時間帯で。これから会社に戻るつもりの梶たちと、直帰するつもりの営業たち。なら、営業が持っている資料は梶たちが預かっておくと提案した。……のだが。
「会社に住んでる梶さんですけど、せっかくなんですから早く帰ってください」
 と、中堅の営業がいらんことを言ったせいで雲行きが怪しくなった。営業の言葉に、梶の部下がいやいや、と口を開く。
「最近梶さん会社に泊まること少なくなったんだって、彼女が出来たみたいで。離婚してから仕事が嫁みたいな働き方してたんで、ほっとしましたよ」
「おい」
 前半は営業に、後半は梶に向かっての言葉を諫めるが本人にはまったく響いていない。
「それなら、梶次長も宮川次長についていって彼女さんに花を買って帰ったらいいんじゃないですか?」
「それいいな! ね、梶さん!」
 盛り上がる部下二人の隣で、宮川が苦笑しているのは梶の事情を知っているからだろう。なら助けろと視線を向ける。
「梶が困ってるから二人共落ち着けって」
「宮川次長は、梶次長の彼女どんな人なのか知ってるんですか!?」
 宮川の言葉にも耳を貸さず、被せるように疑問をぶつけてくる営業に、宮川は梶を見た後手を振る。
「梶の彼女は知らない。ほらもう俺は行くから、解散解散」
「会社には俺ら二人で行くんで、梶さんは宮川次長と花屋へどうぞ」
「どうぞどうぞ。お疲れ様でーす! 明日結果教えてくださいね!」
 強制解散させようとした宮川だが、部下二人は全くもって響かない。宮川と梶、それぞれの背中を押した後、二人して会社に向かう道へと歩き出す。
 それを大人しく見送ったのは、引き止めたり追いかけたりしたらこれ以上の面倒になると判っていたからだった。

     ●

「で、宮川と一緒に花屋に行った、と」
 眉間にシワを寄せた草臥れた男を接客したであろう店員が可哀想で、部下の軽口を流さずにこうして行動する梶が可笑しくて、神谷は肩を震わせた。
「そんなもん無視すりゃよかっただろ」
「あいつらうるせーんだよ」
 バラの花びらは一枚一枚は思っていたよりはぶ厚くて、マットな感覚がする。それを指先で弄びながら笑うと、隣に座る男が神谷の髪を梳いた。
「律儀だな梶次長」
「……花なんて初めて買った」
 からかう神谷に言葉を返さず、梶がぽつりと呟く。
 その内容に驚き顔を梶へと向けると、視線があったあと逸らされた。
 それでも、神谷に触れる指先は逃げていかないのだから、神谷としてもどうしていいのか判らなくなる。
「今までの彼女や元嫁にはどうしてたんだよ」
「菓子やらアクセサリーやら、欲しいって言われたもんを金だけ出してた」
「お前、昔からモテるくせに長続きしなかっただろ」
「…………」
 確信を持ってそう言えば、視線だけでなく顔まで逃げていくのだから、どこまでも嘘がつけない男だ。そんなところが無防備で、実直で、人を惹きつけるのだろうけれど。
 苦笑しながらバラの花弁に鼻を埋めると、人工的に作られたバラの匂いよりも瑞々しい、香り。
「梶が花買ってるところ見たかったな。宮川撮ってねえかな」
「何でだよ」
 ぶすっと膨れる梶だが、怒っているわけでもない。きっと気恥ずかしさがずっとあるのだろう。そのせいで、いつもより眉間の皺が多い。
「ありがと。貰っとく」
 渡す方も貰う方も、どちらも初めてのことなんて、四十近い男二人では珍しいだろう。
 だからこそ気恥ずかしくて小さくなった声を、梶はきちんと拾ってくれて、神谷の頭を引き寄せこめかみに口付けを落とした。
 それを受け止めた後、お礼とお返しをこめて神谷から梶の唇に触れる。
 花束を潰さぬように腕を背中に回すと、きっと、今日のことはずっと忘れないだろうなと思うくらいに、香る花と鮮やかな色が脳裏に焼き付いた。