朝涼

繋ぎ 紡がれる

2024年3月27日

「梶ー、お次どうぞ」
 花冷えと言えば良いのか、寒の戻りと言えば良いのか。日中は少しずつ暖かくなりつつも風は冷たく、夜になると足元から冷えてくる日々。普段はシャワーで済ませるところを湯船に浸かったのも、寒さ故だ。そうして身体の芯まで温まって風呂から上がり、この瞬間ばかりはひやりとしていて気持ちがいいと感じる空気を感じながら廊下を歩き、リビングへと戻った。
 床暖房が入っているリビングにでは、梶が床に直接座ってテレビを見ていた。
 神谷の言葉に視線を向けた梶は、のそりと立ち上がる。その動きがどことなく熊っぽいよな、といつも思っていることを今日も思いながら冷蔵庫を開けて水を呷った。
 キッチンから見るリビングは、一年前よりも物が増えた。
 当たり前だ、一人で暮らしているのではなくて二人で暮らしているのだから。神谷が購入していない物が増えていく不思議は、一年かけてやっと慣れてきた。二人で使うもの、梶だけが使うもの。神谷のセンスでは選ばない、けれどこの部屋の空気を壊すようなものではない梶の私物はちゃんと馴染んでいて違和感はない。
 これから年月を重ねるともっと交わっていくのだろうかと考えていると、一度寝室に戻った梶はすぐにリビングに戻ってきた。
 なんとなく視線で動きを追っていると、梶はリビングを横切り何故か神谷がいるキッチンへと入ってきた。
「神谷」
「?」
 着替えを腕に抱えた左手が神谷の右手を捉えて引っ張る。なされるがままの神谷の右の掌に、硬い感触。
「やる」
「は?」
 それだけ言ってさっさと風呂場に行ってしまう梶を呆然と見送って。
 残されたのは、訳が判らない神谷と手の中の小さな箱。視線を下げれば確かに存在する梶から渡されたものがあり、遠く届く水音が現実だと教えてくるのに、同時にその水音が非現実で頭がくらりと揺れた。

 落ち着こう、と言い聞かせながらまずはリビングに。
 ソファに座ると足元は床暖房で温かい。ほんの数分ではあるしスリッパも履いていたのに指先がすでに冷え始めている。すり、と無意識に足先を擦り合わせてから掌の箱を改めて眺めた。
 重さはあまりない。手触りの良い布が張ってあり中心辺りから上半分が開く仕組みの箱。軽く振っても音はしないが、何かが入っていることは判る。この形の箱はほとんどの人間が一度はどこかしらで見たことはあるだろうけれど、神谷の人生ではほぼ縁がなかったもの。
 それを、どんな意図を持って梶が神谷に渡してきたのかが判らない。
 月末、平日ど真ん中。
 年度末の忙しさは営業もM&A事業部も変わらず、三月に入ってからというものすれ違い生活でお互いの寝顔を見るか、そもそも家に帰ってこなくて職場で顔を合わせるかのどちらかだった。当然甘い空気など一欠片もなく、週末を共に過ごせるかも不透明。
 そんな状態だったのに、何故か今日に限って梶の終わりが早く、神谷よりも先に家にいたことは確かにいつもと違うと言えよう。珍しいと言えば、代わりに明日は始発で会社に行くことになると言っていたけれど、それもまたある意味いつものことだ。
 ……いつものこと、だと思っているのは神谷だけだったのだろうかと、手の中の箱を見下ろして思う。
 浮気をしてこれを渡してきたのならあまりにも豪胆ではあるが、梶がそんな人間でないことは嫌という程知っている。故にその線は考えない。疑うことはあまりにも失礼だろう。それほどに、きちんと梶からの気持ちを貰っている。
 この線を消すのならすぐに思い当たるものはもう一つあるが、それならばむしろ梶は貰う方だろうにと思うとそれも違うのか。
 有名な日本発のブランド名が箱に書かれているため、露天商で買った安物というわけでもなさそうで。つまりは、それなりのお値段がするものが中に入っているというわけで。粗末に扱うことに気が引けて机に置き、更に指で遠ざけた。
 中に入っているものが神谷の予想通りのものだとしたら、貰う謂れはなんとなく判るものの、やはり何故今日なのかが引っかかるというもので。もやもやとしたまま開けるのも気が引ける。何より何も説明せずに風呂に行く梶もどうなんだ。せめて神谷が納得してから風呂に行けというものだ。いっそ風呂に突撃してやろうかと考えたが、そのタイミングで梶が上がってきた気配を感じたので待つことにした。ソファの上で足を抱えて箱を見る。
 つけっぱなしのテレビから聞こえる音が意識を上滑りしていくのは、現実味がないからだ。何かしら予兆があったのならば自然と覚悟も出来るのに、サプライズのようになっていて、それになれていないから翻弄されている。
「何いじけてんだ」
「いじけてない」
 気配と共にリビングに戻ってきた梶の一言目に短く返し、けれど抱えた足をそのままにしていれば、ソファの空いているスペースに梶が座り神谷の顔を覗き込んできた。その表情がどことなく楽しげに見えるのは、被害妄想だろうか。
「なんだよあれ」
「開けたか?」
「開けてない」
 開けられるわけない、と返せば梶は机に放置した箱を手に取り、最初と同じように神谷の掌にそれを乗せた。けれど今度はその指が神谷から離れていかない。
「予想は?」
 二人して小さな箱を覗き込めば、額同士が当たる。
 風呂上がりの体温がじわりと広がるのを感じながら、予想というほどのものでもない考えを口にした。
「梶の誕生日」
「正解」
 梶が、中身をこちらに見えるように蓋を開ける。
 そこにあったのは予想通り銀色の輪っかで、数はひとつのみ。どちらの予想も当たっていたことに喜ぶ気持ちは置きずに二人分の影の隙間を縫うように落ちてくるLEDの光を反射する銀色をじっと見た。
 細すぎず太すぎない幅で、縁取りを残した上で全周にクロスカットが施されている。シンプルな形は神谷が好むものであり、きっと身につけても違和感を覚えないものだろう。
 梶がその指輪を手に取り、神谷の左手を引き寄せたため、ゆるく拳を握ってから口を開いた。
「なんで俺に」
 疑問を口にしながら少しだけ顔を上げて梶を見ると、額の動きで判ったのか梶も同じように神谷を見る。
 視線があったまま数秒。神谷の根気に負けた梶が視線を逸らした。
「お前の、これからを俺が貰いたい」
 落とされた言葉は、とても真摯で。けれど少しだけいつもの梶よりも弱かった。
 梶は、神谷の薬指を撫でながら言葉を続ける。
「口約束よりもこうしたほうが判りやすいだろ。いつも着けてろなんて言わねえけど、意志があるなら受け取ってほしい」
 神谷の未来を梶が“貰う”から、それが自身へのプレゼントとなるだなんて、なんてロマンチックで梶らしくない。
 らしくないサプライズという形になったのは、言い換えれば突発でないと勢いが取れなかったということで。
 それはつまり、梶の弱気の証拠だ。近さを理由に、顔を上げないのも、きっとそう。
「……ひとつだけなのは?」
「いつか、神谷が……俺に渡してもいいって思った時にくれりゃあいい」
 その時は、と神谷の掌を掬い上げて先ほどまで撫でていた薬指の根本に口付けを施す。
東都銀行今のところだろうとそれ以外だろうと、隠さねえからな」
「……」
 ――ああ本当に、この男は自分に甘い。
 緩く握ったままの指を無理矢理解くことも、そこに指輪を無理矢理嵌めることもない。
 そのことも含めて覚悟を決めろと言いながら、それがいつになろうと……その時がやってこなくとも、怒ることはないのだろう。自ら覚悟を見せながら、しかし神谷に強制しない。優しくて甘くて、お人好しだ。
「俺のセンスに文句言うなよ」
 言いながら左指を伸ばし、梶の背中に右腕を回して引き寄せる。
 顎を上げればすぐに重なる唇。静かに重ねたままでいると、薬指に小さな重みが増えた。梶の指がその境界線を撫でるに任せながら、少しだけ唇を離す。
「誕生日おめでとう、梶」
 言い忘れていた言葉を空気に溶かすように口にすると、感謝の言葉と共に梶の腕の中に閉じ込められた。