2024年11月13日
残業ありきで働いていることは決して良い事では無いのだが、状況を改善することなど出来やしない。梶が潰れたら別の人間がそこに宛てがわれるだけのこと。社会などそんなものだ。
溜息を飲み込みながら眠る街を歩く。仕事中の筋トレも、近くならば歩くのも、少しでも健康でいたいがための策だ。もちろん趣味というのもあるが、体力はないよりあったほうがいい。それに案外気分転換にもなるものだ。
自分の靴音ばかりが大きく、車通りが少ない静かな東京の街。明るいのに暗いという不思議な街は、ドーナツ化現象のため日が落ちると信じられないほど人の気配がなくなる。東京は人が溢れていると思っていたため、上京当初は驚いたものだ。新潟は虫や蛙の鳴き声、草木や稲が風に揺れる音がずっとしていて、それは生活の中でノイズキャンセリングされるのだが、先日久しぶりに帰って最初は随分と煩いと思った。すぐに優秀なノイズキャンセリングが働いて、なんともなくなったのだが。
仕事のことから思考を切り離すために、そんなことを考えながら歩く先は、自分が借りているマンションではなく、恋人が暮らすマンション。通い慣れたと言えるほどには足を運ぶようになった場所。角を曲がってそびえ立つ建物を見上げ、視界に入れるのは十七階。灯りが点っていることを認めて少しだけ眠気が飛ぶ。
「何間抜け面してんだよ」
誰もいないと思っていたところに突然の声。流石に驚き視線を戻すと、昼間とは打って変わってラフな格好をした神谷が立っていた。髪も下りているから風呂に入った後だろう。
「……お前こそ何してんだ」
「コンビニ行こうとしてた。タイミング悪かったな、お前が近くにいるんなら頼めば良かった」
固めていないと随分と柔らかい前髪をかきあげながら、神谷がこちらに近付いてくるのを待った。
梶のすぐ前に立った男は、そのまま少しの距離を埋めるように梶の唇に触れる。夏が近付きずつありながらも、まだ少しだけ肌寒い夜気に融けない体温を、ついじっくりと堪能してしまった。
「どうした」
呼気を感じる距離にだけ離れた神谷の腰を、半ば無意識に支えるとすぐ目の前の顔が笑む。
「今日はキスの日だって聞いたから」
語呂合わせだの何かの記念日だの、普段は梶と同じく興味を示さないくせに突然それを言い訳にこうして触れてくるのだから、いじらしいと言えばいいのか、もどかしいと言えばいいのか。そんなことを考え眉間に皺を寄せると、神谷がそこを指先で突いてからするりと踵を返した。
「俺がコンビニ行ってる間に寝るなよ」
「今から飲むのか?」
「良いだろ別に」
酒に飲まれることはないがそれなりに酒好きの神谷は、上機嫌に夜道を歩いていく。その背中をしばし見送ってから、家主が帰ってくる前に風呂から上がれるだろうかと思いながらエントランスに入った。