2024年11月27日
風呂からあがってもじとりと纏わりつく不快感は湿度のせいで、この時期ばかりは欧州に行きたくなるといつも思う。からりと乾いた空気が少しばかり恋しい。
上は裸で下だけ布を纏う。ガーゼ生地の寝巻きは梶の趣味ではないが、神谷からもらったものなので使っている。寝る時なんて正直何でもいいと思っているのだが、実際肌さわりはとてもいい。風呂上がりで汗をかいていてもべたりと肌に張り付かないのは有り難いというものだ。バスタオルを洗濯機の中に放り込み、乾いているフェイスタオルを肩にかけて脱衣所を出た。篭った熱が開放され、冷えた空気が気持ちいい。部屋の主である神谷は、締め切った結果出来る温度差が嫌だと寝る直前まで全ての部屋の扉を開けっ放しにして、部屋の中と廊下の温度差を少なくする癖がある。だから廊下は人工的な冷たさがあり、たしかにこっちのほうがいいなと実感があるため、梶も扉を閉めることをやめた。
リビングに入ると、テレビが消されており代わりに神谷の声だけが響いていた。ちらりと見ればスマホ片手にタブレットを広げ、少しだけ眉を寄せている姿。それを横目に冷蔵庫からビール缶を一本取り出し、シンクにもたれかかってステイオンタブを引いた。
「……そう、そこのフォルダの中。……それじゃない日付新しいのあるだろ」
神谷の頭の向こう側に見える東京の夜景。そこから職場は当然見えないが、あの灯りのひとつと会話中らしい。終業からずいぶんと時間が経ったこの時間──日付変更のほうが近い時間帯に神谷次長にわざわざ電話をかけてくるというのは緊急だろうか。だが、神谷の声に緊急性は感じない。どちらかというと呆れや叱咤の気配。
「……」
思い当たるのは一人いるなと脳裏に描くのは、梶の元部下で現在は神谷の部下の姿。
仕事の効率は悪くないし、梶と違って様々なところから勝手に積まれるわけでもなく。自分の力量を見誤ることもなく器用にこなすし、仕事自体も丁寧だが、請け負った仕事に対するプライドが高すぎて力を抜くということ、人に頼るということを何時まで経っても覚えず、百パーセントどころか百二十パーセントの成果を求めようとするせいで残業が嵩む中堅。
「今回は誤魔化してやるけど、次はないからな。松田」
思った通りの名前が神谷から出たため、電波の向こう側の青年が恐縮しながら謝罪と感謝を繰り返す姿を想像した。梶にはナメた態度を繰り返すが、神谷には一定の距離を保って接している松田は、人の見極めが上手い証拠だ。梶を見下しているのではなく、上席として使えると思っているからこそあの態度。そして梶がそんな松田の態度に怒ることがないということも、きちんと見定めている。梶としては、松田の態度や思惑など心底どうでもいいから放置しているだけだ。
通話が切れたのを確認してから、冷蔵庫の中に入っているもう一本を取り出して神谷に近付く。通話の切れたスマホ画面を無表情に見ている男の頭にこつりと当てると、そのまま缶を奪われた。
「お前だろ」
「……」
その断定には答えず、黙ったままソファを背もたれに床に座って神谷に背を向けると濡れた髪を軽く引っ張られた。
銀行というのは個人情報の塊で、資料が見られる権限は細かく制限されている。自分の権限だけで見られるもの、上席の権限が必要なもの、パスワードがかかっているもの、そもそもオフライン上にしか存在しないもの等々。
日中なら上席に許可をもらって堂々と閲覧出来る資料も、残業時間となるとそうはいかない。だがどうしても必要な場合もあるわけで。
上司に取り入っておくと、そんな場合に融通を効かせてもらうことが出来て、結果残業を捗らせられるのだ。
タブレットを操作している神谷は、松田の閲覧許可を出した時間を今日の日中に誤魔化す処理をしているのだろう。
「神谷に行くとは、あいつの心臓どうなってんだ」
「そうじゃないだろ」
当然誰もが知っている手ではない。残業常習犯組が法と規律に触れない範囲で行っていることで、管理部も多少ならば見逃してくれる。多用は出来ずとも、有効な手というだけだ。故に、頼む側も頼まれやすい側もメンバーはほぼ固定されているわけで。神谷も入行して長いからそんなやり取りがあること自体は知っていただろうけれど、若い頃のこいつが深い時間まで残業することは稀だったし、立場が上になってからは部下ときっぱり一線を引くタイプで頼まれる側になることはなかったはずだ。ちらりと画面を見ると、問題なく後処理をしていて流石の器用さだと感心。
「あまり悪いこと教えるなよ」
「冤罪だ」
両手を上げて主張するが、じとりと睨まれる。
実際松田は梶が教えるよりも先に知っていて、当然のように申請してきたのが最初だ。だから本当に梶は教えていない。ただ自分以外に言いやすい連中の名前を教えてだけで。どうせ今日も休日出勤している連中はいるだろうに、何故リスクの高い神谷に頼んだのか、あの野郎。お陰で必要のない冷や汗をかいて責められることになっている。
「……」
仰け反る梶を上から睨む神谷に対して、ホールドアップ。規約的にはギリギリセーフだが、これを知っているがために部下の残業時間が増えた事実を思うと、上長である神谷次長の怒りはごもっともである。残業時間超過が当然のM&Aと違って営業はそこらがしっかりしている。
「悪かった、俺から言っておく」
白旗を降ればスマホとタブレットを机の上に放り出し、梶から奪った缶ビールの中身を空にしてから、神谷は梶の髪を両手で適当に掴み、左右に引っ張った。地肌が引っ張られる感覚が気持ちよくて、同時に毛根が心配になる。何せ色々と気になる年頃になっている。
「何だよ」
「梶次長は慕われているなと思っただけだ」
「はあ? 松田に関してはあいつ俺のことを役立つ道具扱いしかしてねえぞ」
「そういうところだよ」
指から力を抜き引っ張るのをやめた後、濡れた髪に指を通して弄び始める。どういうところだよと思うが、不機嫌とは違うが、機嫌がいいとも言えない空気を醸し出す神谷にされるがままでいるしかなかった。
「……付き合い方の違いだろ」
「そうだな。俺はこういうのを頼まれるような優しい上司はやってないし、これからもやる気はない。そもそも梶や宮川みたいには出来ない」
厳しくはあるが決して冷たくはない神谷の指導は、むやみに人を寄せ付けない。恐れられながらも嫌われはしないという絶妙なラインを狙っているのだから、梶としては流石としか言いようがないのだが。
「梶の部下だと伸び伸び仕事出来そうだよな」
「お前が部下とか絶対嫌だ」
「酷い言い草ですね梶さん」
楽しそうな神谷の声に反して、梶の顔は逆に顰め面になる。上にいる神谷を仰ぎ見ると、目を細めて笑う姿。
皺の寄った眉間を指で撫でる神谷は、先程よりは楽しそうに見えた。
「髪ちゃんと乾かさないと風邪ひきますよ。もう若くないんだから」
「んぶ」
眉間に触れていた指は、そのまま鼻を潰し唇を摘む。それから顎をするりと撫でた。
「お前が後輩だったらこうならなかっただろうな」
腕を伸ばし、神谷の後ろ首に添えて顔を近寄らせ、軽く唇同士を触れ合わせ言えば、神谷はくしゃりと相好を崩した。その表情を見ながら身体を反転させ、ソファに座る神谷を囲うように腕をついた。神谷は梶の背中に腕を回し、再び距離を零にして少しだけ苦い味をするキスを交わす。
きちんとケアしている神谷の唇は、いつもしっとりとしていて心地良い。軽く吸って感触を存分に楽しんでいると、早くと促すように神谷の舌が伸びてくる。それを押し返すようにこちらも舌を伸ばして咥内に入り込むと、なんの抵抗もなく奥まで招かれる。
触れ合う舌同士と絡まる唾液。吐息を飲み込めば、神谷の身体が小さく震えた。
「……きもちい」
呼吸の合間に落ちた囁きの同意の代わりに再び密着して、舌を絡めあった。
くち、と鳴る唾液の音に煽られて神谷の舌を噛むと、代わりとばかりに腕に爪を立てられた。神谷の指はそのまま腕を辿り背中に回される。肘を曲げて体重を預けると密着が強くなった。
頭の片隅では明日から週始めで今日はこれ以上の接触は危険だと信号を光らせているのに、離れるのが惜しくて呼吸を言い訳に少しずつ接触を軽くしていく。
「梶の口、でかいよな」
梶の口の端に舌を這わせる神谷を好きにさせなが、代わりに首筋を擽る。逃げようとする身体を許さずに神谷の頬を食んだ。
「梶とキスしてると食われてるって思う時ある」
「……」
「呼吸ごと全部食われて、それが……気持ちいい」
「煽るな」
梶の下唇を噛んで笑う神谷に苦言を呈すると、珍しく声を立てて神谷が笑った。