2024年11月27日
多少のお小言に謝罪をしながら通話を切り、スマホの画面が暗くなってからゆっくりとため息を付いた。
視線の先に広がるフロアには珍しく人がまったくいない。いつもなら上席後輩問わず、常連連中がちらほらといるというのに営業フロアはガランとしているし、他のフロアに書類を置きに行った時もほとんど人がいなかった。
普段ならば人の目と気配がほどよくあるからこそ捗る休日出勤だが、今日ばかりは人がいないせいか途端につまらなく感じてしまった。
自分の行いが結果として返ってくる営業職を、松田は天職だと思っているから残業や休日出勤だって別に苦ではない。だが、それはそれとして一人こうして休日に仕事をしている虚しさに気が付いてしまうとやる気が削がれる時だってある。
……飲みに行くか。
日付変更まであと二時間。場所を選べばまだまだ飲むことが可能な時間帯だ。
せっかく神谷に突撃して資料を引っ張り出したが興が削がれてしまった。こんな状態でやってもミスが増えるだけだと、中途半端な修正部分だけを直してファイルを保存。どうせ数時間後にはまたここにいるのだから、キリの良いところなんて文章の途中でなければならんでもいい。開いていたファイルと閉じていき、ログアウト。
リモートデスクトップだからどの席に座っても自分のローカル環境を呼び出すことが出来るが、それ故に自分の席というのが平社員には存在しない。部長は部長室があり、次長はさすがに固定席になっているがそれより下は毎日席が変更される。機密情報を扱うからこそ自席という隠し場所を持たせないということだ。これにより、物理的な資料を持ち、隠すことが格段と難しくなる。電子機器やネット回線が発達しているため、パソコンやタブレットで仕事を完結出来るという状況でもあるが、同時にデータ故に流出の危険性も増すということで監査以外のときに突然抜き打ちセキュリティテストや確認が入る。……抜き打ちとは言われているが実質時期は決まっているのだけれども。そろそろそんな時期だよなと脳内のカレンダーを捲りつつ部屋を出た。
静かなフロアは独り言を言うのも憚られるため、エレベーター前でスマホを取り出しこの後飲みに行く店をピックアップしていく。取引先、上司、同期、そして女の子たち。それぞれ連れて行く店は違うため松田のスマホの中には状況に応じてすぐに場所が調べられるように情報が整理してある。同期にはマメだの律儀だの、褒め言葉なのか貶し言葉なのか微妙な評価をもらったことがあるが、笑いたければ笑えばいい。
打てる手はすべて打ち、予想を打ち立て道を整え導き、小さな災いの芽を摘めるだけ摘んだとてそれでも十全ではない。リアルタイムに変わる情勢、株価、そして人の思惑に翻弄される。人は金に支配されていると同時に、金は人を振り回すのだ。
その金の流れを制御し、自らの手中に収めることが松田は好きだし、そうして大金を動かして得た給料を使うのも好きだ。貯金はほどほどに、散財もほどほどに。何事もバランス。
そんなことを考えながら本日の夕飯を考えていると、画面が変わって見知った名前が表示され思い切り眉を顰めた。狙ったかのようなタイミング、どこかで見ているんじゃないだろうなと考えているうちに留守電に切り替わるが、電話はそのまま切れ間髪入れずにもう一度かかってきた。
「しつこい」
「松田が電話に出ないなんてことないだろうなって思って」
相手がたとえ俺でも、と言われイラッとした気持ちが収まらない。全くもってその通りだからだ。
営業の矜持――いくらなんでも、電話先のこいつも持っていると信じたいものがあるからだが、それを口にされると苛立ちが先立つ。
「いいよな、電話。いつもより松田の声が近い。ベッドの中よりは遠いけど」
切った。
すぐにコール音。
「切るなよ」
「用件は」
Bluetoothをあえて切ってイヤホンからの声は届けず、さらにスピーカーにも切り替えないでぎりぎり声が聞こえて届くまで電話を離して問えば、不満げな文句が聞こえてきた。数秒の沈黙はため息の間だろうか。
「まだ仕事してる? 切り上げて飲みいこうぜ」
下にいるから、と続けられて到着したエレベーターに乗るのを躊躇った。開くのボタンを押したまま電話口の声を聞いた。
「仕事もいいけど俺にも構ってよ。デートしよう」
「仕事とてめぇなら仕事を取るぞ」
「うん、だから俺が松田を取ればバランス取れるだろ」
どんな理屈だとついボタンから手を離してこめかみを押さえる。
命令がなくなったエレベーターの扉は自動的に閉じかけたため、咄嗟に足を差し込んでとめた。ガシャ、と響いた大きな音は、一階にいる男にも電波を通じて届いたことだろう。
「ナイスタイミングだったみたいだな」
「……」
否定したところでこいつは上に上がってくるだろうし、躱す方法はあるけれど別にそこまでする気分でもないと箱の中に入って一階のボタンを押した。
それからふと、聞いてみたいことが浮かび電話口に問いかける。
「なあ、お前仕事好き?」
やる気無い代表選手のような仕事ぶりは有名だし、会議中平気で居眠りもする男に愚問だろうけれど。
仕事に対するスタンスが松田と正反対の男なのに、成績だけはしっかり良いのだから癇に障る。
「……その心は?」
すぐに答えず、そんな小賢しい問い返しをしてくる加藤の声は、電波が挟まっているからかいつもよりも穏やかに松田の耳に届く。
だからか、エレベーターが一階にたどり着くまでの時間つぶしに会話をしてもいいかという気持ちになり、閉じるボタンを押しながら口を開いた。
「俺は、自分の能力で世界を動かして、それで得る金が好きだから残業だろうと休出だろうと苦じゃない。他の休出常連組だってそんなもんだろ。……一部、家庭に居場所がなくてここにいるのもいるだろうけど、ほとんどはやりたくてやってるか、やらざるを得ないほど仕事が出来ねえ奴のどっちかだ。いつもはそんな奴らがいくらでもいるのに、何故か今日に限っては全然いなかったんだよ。だから……」
仕事が好きなはずなのに、いない理由なんて人それぞれだけど。仕事が好きなわけではない加藤と電話で繋がって、自分と他人の仕事へのスタンスが気になった。
「だから淋しくなった?」
そう続けようとしたのに、言葉尻を掠め取って加藤が柔らかい声のままそんなことを口にしたから。
「――……」
思わず、そうかもしれないと肯定の気持ちが沸き上がって、口を噤んだ。その沈黙をどう取ったのか、加藤がそのまま続けた。
「ここに入ったのは親父の命令だったから面白さなんてひとつもなかった。寄ってくる連中は俺のバックにしか興味もたないのばっかりだったし。最低限社会人としてスキルを身につければそれでいいって思ってたし、今も別に仕事が楽しいって思うことはない。手は抜かないけど、松田みたいには出来ない」
リン、と小さな鈴の音と共に箱が停止し、扉が開いていく。
ちょうど真正面。ポケットに両手を突っ込んでこちらを見ていた加藤は、松田を認めて目を細めた。
「けど」
正面からの声と耳に当てるスマホがほんの一瞬のラグを持って届く。
「松田に会えたからここは好きだな。恩返しとして利益はおいておくつもりだ」
こちらが降りるより先に、加藤が箱の中に入ってくる。一歩引いても追いかけてきた腕に捕らわれた。体温に包まれると同時に扉がゆっくりと閉ざされた。
「一緒に来てよ」
「行かない」
ここ数ヶ月、何十回と行われているやり取りを再び繰り返す。いい加減諦めろと松田は思っているけれど、加藤がこの程度で諦めるような男でないことも知っている。だから加藤の腕の中でため息をついた。
──新年度が始まるその日、加藤は来年度はここにいないということを松田に告げた。
残り一年、本気で口説き落とすから。そう笑ってからもう五ヶ月経つ。一年前に松田に告げた誠意を無下にするほど松田は加藤を蔑ろに出来なくて、このやり取りや他にも色々と、加藤のアプローチをきちんと受けては返している。
「お前の部下になるなんてごめんだ」
「一緒にいけば同期だって。俺だって最初から役職につくわけじゃないんだから。むしろ松田の優秀な頭なら、俺より先に出世しそう」
「……」
加藤を部下にするというそれはかなり惹かれるけれど。
「コネ入社もごめんだね」
「……ぶっちゃけると俺もこれから面接」
「はあ?」
初耳情報に思わず身体を離すと、加藤は少しだけ唇を尖らせて目線をそらした。
「親父はそういうの容赦ねえから。面接や試験が駄目だったら容赦なく落としてもう一回修行行って来いって別んところ放り込まれるだろうな。むしろ身内だから厳しくされると思う」
「まあ二代目が親の七光りのバカで会社潰すわけにいかないからな。妥当か」
「だから正直言うと、松田を紹介することは出来るし、面接の約束までは取り付けられるけどそこから先は松田の実力次第。落とされたら加藤製薬に入るには実力が足りないってことになる」
それはまるで、落ちる前提のような言い方で苛立ったが、それが加藤のやり口なのだと奥歯を噛んだ。何年も似たようなことをされていれば学習する。落ち着けと鼻から息を吐いた。その手は食うか。
加藤の身体を押しのけ開くボタンを押してエレベーターホールへと出た。人気のない従業員専用のそこは薄暗い。けれど通い慣れていて、……これからも通う場所だ。
「残念」
「何年テメーに付き合ってると思ってんだ」
横に並んだ加藤を睨みつけ、それぞれ通話を切りながら通用口へと歩を進める。
「松田はやっぱ優しいよな」
「てめえに優しくした記憶はねえよ」
「なにそれツンデレ? 可愛いな」
「誰がだ!」
笑いが溢れる言葉に噛みつけば、加藤は更に笑う。いつも通りのやり取りは気負いなどどこにもない。今までもこれからも続くやり取りだ。加藤が加藤のままで、松田が松田である限り、ずっと。
「メシ、どこ行く? 腹減った」
「飲むの?」
「むしろ飲まないのかよ」
大通りに向かって歩きながらの会話は、周りが静かだからか少しだけいつもより密やかに。それを理由にしたのか、加藤がこちらに寄ってきたけれどその距離はそのままに。嬉しそうに目元を緩ませる顔は、別に嫌いじゃない。
「……はあ」
絆されていると自覚しているだけに、怒りが沸かないし自虐も出来やしない。
「松田」
ふと肩を掴まれたかと思うと、加藤の顔面が目の前にありすぐに唇が柔らかい熱に包まれた。
そのまま、三秒。
「……なんだよ」
「ため息つくと幸せ逃げるだろ。戻しておこうかと思って」
問えば大真面目にそんなバカなこと言うから、デコピン一発で顔を離した。こういうところが加藤のずるいところだ、まったく。