2023年2月14日
巡査部長二人と一般市民
前日夕方に無理矢理ねじり込まれ、朝一から行われた取引先での打ち合わせは、十一時を回った頃に開放され、東京駅に戻った頃には昼休憩まで残り十五分という時だった。それなら食べてから会社に行くと一報を入れて、長谷川は早めにランチを開始している店を脳内ピックアップ。ここから近くて安くて不味くなければなんでもいい。そんなことを思いながら雑踏の中を歩いていると、前を歩く人々が地面に視線を落とし、一点を見て歩いていくのに気づいた。
なんだろうと思い同じ行動をすれば、なるほど。地面に財布が落ちている。ヌメ革のそれは、使い古されて味が出ている。きっと、きちんと手入れをして長く手元に置いているであろうもの。放置するのも良心が痛み、立ち止まって拾い上げた。
念の為通りの方を向いて、財布を開ける。変な嫌疑がかかっても防犯カメラだらけのこの街ならば、どこかしらに長谷川の動きが記録されてくれるだろうと信じて。
実際に持ってみると細かい傷と柔らかい革、黒光りするそれに丁寧な手入れを感じさせた。中身はどうにもならなくても外身だけでも手元に帰ってきてほしいと願われそうな財布だ。
中には現金はなく、けれどカード類はそのまま。免許証も残っていた。足のつきにくい現金だけ抜いて財布を捨てたということだろうか。そんなことを思いながら、交番よりも丸ノ内署のほうが近いなと思い、そちらに足を向けた。
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丸ノ内署に財布を届け、書類を書いて権利を放棄し、ありがとうございましたと笑顔で警察官にお礼を言われたら、悪い気はしない。やれやれと息を吐いたところで、あれ、と後ろから声がかかった。
振り向けば、見知った強面と見知らぬ青年が一緒に立っていた。
「先輩、お知り合いですか?」
「ん、ああ」
どうも、と言いながら近づいてくる姿に会釈を返す。
「お二人共お昼ですか?」
カウンターの中から制服を着た女性が近づいてきた二人に声をかける。
「そー。天気良いし、こんな時に外出ないと何押し付けられるかわかんないし」
「電話番のOLみたいなこと言わないでくださいよ」
「下っ端は男女問わずつらいものなんだって」
青年とカウンターの中にいる女性の会話を聞きつつ、しかしカウンターの前にいると他の利用者に邪魔ではないかとソワソワする長谷川に気づいたのか、片桐の幼馴染である男が、視線と身体でソファへと誘導してくれた。それにほっとして付いていく。
「何かあったんですか」
「駅前で財布を拾ったので、届けに」
「ご協力ありがとうございます」
手でソファを示され、断るのも失礼かと腰掛ける。長谷川の前に立つ男を座ったまま見上げると上背があるせいでやはり威圧感があるのと、最初が最初なせいでどうしても緊張感が走る。あの怒鳴り声が長谷川に向けられたことは一度もないのだが。
「そちらの方、財布届けてくれたそうで。ありがとうございます」
カウンターで会話をしていた青年が、長谷川達のほうへ寄ってきて同じく礼をくれる。そんなに何度も言われるようなことでもないため、恥ずかしくなるのは仕方がない。
「いえ、そんな。大したことじゃないので」
いたたまれなくて手を振って固辞すると、おおよそ刑事には見えない柔らかい雰囲気の青年は、長谷川と片桐の幼馴染を見比べて首を傾げた。
「どういうお知り合いですか? 先輩の交友関係のカテゴリ外みたいな人ですが」
前言撤回、結構物言いが酷い。
「知り合い……とも言いたくないやつの、会社の上司で、」
と、そこまで言った幼馴染はしばし沈黙のあとに長谷川を見下ろし、記憶を探るように沈黙する。なんだ、と思うこちらと青年が首を傾げると、幼馴染が再び口を開いた。
「そういえば名乗ってないすね」
「ああ」
そういえばそうだ。片桐を介してしか交流がなく、お互いに名前を呼ぶほど会話をしたこともない。別段それで困ってもいなかったから、すっかり頭から抜けていた。
「あのバカって、ちゃんと働いてんすか?」
「仕事ぶりは完璧ですよ」
判る人間にだけ判る言い方をすれば、幼馴染は当然思い当たって肩を落とす。片桐の外面の良さというべきか身の変わり方はジキルとハイドだ。
「えーっと、二人の間に第三の男がいる三角関係?」
そうして話すこちらの会話を割るように、青年が訳のわからない解釈で口を挟み、幼馴染がスパンと頭をぶっ叩く。その早さにおおうとびっくりするが、日常的なのか殴られたほうもまったく気にしていない様子なのがいっそすごい。
そうしながらも、それぞれポケットを探って紐で繋がれた手帳を取り出し、長谷川に向けた。
「丸ノ内署生活安全課の矢島です」
「同じく香川です」
顔写真と名前と英数字が書かれたもの。本物初めてみたなぁと思いながら立ち上がり、内ポケットから名刺入れを取り出した。
「長谷川と申します」
社会人になってから数え切れないほどに行ってきた動作で名刺を差し出せば、受け取ることになれていないであろう二人はそれぞれ不器用に小さな紙を引き寄せた。
「警察手帳、人生で初めてみました」
「普通に生きてたら見ないですもんね。俺は名刺を人生初めて貰いました」
香川と名乗った青年が物珍しそうに長谷川の名刺を見ながら笑う。長谷川の役職とフルネーム、会社名と住所、電話FAX番号。裏面には支部の情報。何の代わり映えもない、ごく一般的な名刺だが、高校や大学を出てそのまま警察学校に入り、警察官として勤務を始めた青年には珍しいものとして映るのか、楽しげに弄り回している。
「お二人がお昼なら、ご一緒しませんか。俺もこれから昼なので」
社会人の社交辞令として昼に誘えば、名刺を胸ポケットに仕舞った二人はそれぞれ頷きを返してきた。
「おごりはなしで」
「え、と?」
「総本山お膝元だからこのあたり警察官うじゃうじゃいるんですけど、だからこそ外部の人間におごってもらうとうるさいのがいるんですよー」
「賄賂とかそういう」
「風に悪く取るのがいるっていう」
面倒ですよねぇと笑うが、警察内部というのが一般人には想像が出来ない魑魅魍魎らしいということが判った。一般社会で生きている長谷川には縁のない苦労をするものなのだろう。
「下っ端である俺達へのそういうのは、単なる嫌がらせですけどね」
「香川、黙っとけ」
「はーい」
先輩という敬称を付けているということは、そんな関係なのだろう。無表情にも見える矢島に香川はなついているようにも見えて微笑ましい。それに、と脳裏に浮かんだよく見る情景を思い出してふふ、と笑った。
「今の言い方、片桐とそっくりでしたよ」
三浦や他の後輩に言っている言い方とそっくりで、後輩たちの返事も同じ感じで。どこも変わらないのだなぁという気持ちからの言葉だったのだが、言われた本人はこの世の嫌悪をすべて集めたかのような顔をした。大変申し訳ありません。