朝涼

2023年2月14日
ずぶ濡れ神谷次長を構う梶次長が書きたかっただけ

 その人がフロアに入ってきた時ザワついたのだが、当の本人はそれどころではないようで、周りを気にすることなくデスクに直行し、その途中で指示を飛ばし始めた。
「松田、MI建設の第四版の提案書データ出せるか」
「えっ、あ、すぐ送ります」
 あまりの姿を目で追っていた松田は、そう言われて慌ててパソコンに向かう。
「お世話になっております、東都第一本店の神谷と申します。小池様はお手隙でしょうか」
 椅子に座ることなく、外に出ている間に増えた、デスクに置いてあるメモを選別しながら電話をかけ始める次長の髪からは、ぼたぼたと水滴が流れ落ちている。
 髪だけでなく、カッターシャツもスラックスも、つまりは全身がずぶ濡れでどうみてもまともに仕事が出来る状態ではないのに、本人は気にすることなく電話に向かって喋り続けていた。
 窓の外は滝のような雨がほんの数分前から突然降ってきていたため、確実にそれにやられたのだろうことは予想がつく。が、気にならないのだろうか。
「神谷次長、送りました」
 松田が声を張れば、神谷はそれを腕を上げて応える。
「今席に戻りました。……ええ、はい」
 ざわざわと、神谷に視線を送る周りは、しかし同時に誰がタオルを差し入れるか女性陣の静かな攻防が始まっている気配も感じる。
 イケメンは敵だとは思うものの、この上席を敵に回したくないというのと、浮いた話を全く聞かない上司のため、プライベートの想像がつかないというのが混ざり合い、いまいちどうしたらいいのかが判らないところがある。
 軽口を許さない空気を常に出しているし、部下に優しい言葉をかけてコミュニケーションを取るタイプでもない。
 彼女がいるのかどうか、どんな女が趣味なのか……今度、元上司で、神谷の同期である梶に聞いてみようと思いつつ、松田は周りで始まっている攻防戦の空気をなんとなく読み始めると、フロアにその元上司が現れた。
 近付いてくる姿が、明らかに濡れていて、そういえば一緒に外訪していたかと、スケジュールを思い出す。
「梶次長お疲れ様です」
「ああ」
 川原の声に梶が短く応える。
 神谷ほどではないが濡れているのがわかるが、恐らくこちらはタオルで拭いたあとだからだろう。首にかかったタオルとは別にもう一枚新しいものを持っている。梶はそのまま神谷の背後に立ち、頭にタオルを被せた。
 きやあ、と女性陣の黄色い声が聞こえる。今どこにキャーポイントがあったのか松田にはさっぱりだが、どうやら女性陣的にはツボにハマるらしい。
 電話口で会話を続ける神谷を邪魔しないように、視界をタオルで塞ぐことなく布を被せた梶は、そのまま前髪から後頭部まで神谷の頭をタオルで包んだ後、ぎゅう、と握力で潰す。酷い髪の水分の取り方があったもんだ。
 痛かったのか、神谷が背後の梶を睨みつけるが、梶がそんな視線を気にすることも無くタオルを取れば、いつもとは違う、オールバックの神谷次長が出来上がっており、また黄色い声が上がった。
 争うつもりはないものの、こうも女性陣から黄色い声が上がっているのをみると、イラッとするのは当然だろう。ムカつく。
 梶は、タオルを神谷の肩にかけて立ち去ろうとし、何故か二歩目に入る前にガクッと身体が揺れた。
 ……蹴られたな。
 梶は無言で神谷を睨みつけるが、神谷は既に梶を見ていない。
 ため息をついて立ち去っていく梶と、電話を続ける神谷。
 なんというか。
「同期って感じでしたね」
 隣の席の川原の言葉には同意。
 松田が自分の同期とああいったことをするかと言えばこれっぽっちもする気は無いしさせる気もないが、同期だからこその気安さが見て取れた。
 それを、羨ましいとは思わないけれど。