朝涼

カトマツペーパー

カトマツペーパー

2024年3月17日 春コミ

 川原に殴られた頬が痛く、話すのが面倒で加藤を無視して自宅へと急ぐ。
 通勤ラッシュが終わった後で空いている車内。いつも立っているからと、癖でドアの横に立つとすぐ横に加藤も立った。気配の近さに顔を顰めるが、電車内で話すのも目立つと口を引き結んだ。
 最寄り駅で降りて、マンションに向かって歩いて。先程は売り言葉に買い言葉で飲むことを了承したようなものだが、歩いていると面倒になってきていっそこいつ巻けないだろうかと思うのだが、自宅を知られているのだから、走ったところで意味が無い。
 頬が痛くてイラつきが収まらない。いつもより少しだけ乱暴に階段を降り、早足で自宅を目指していた松田の腕を、黙って後ろに付いてきていた男が軽く引っ張った。
「松田、家に冷やすのや湿布ある?」
 あるわけないと睨みつけると、加藤は掴んだ松田の腕を引いて最寄りのドラッグストアに続く道へと歩みを進めた。
 やっぱり反論するのが面倒で、黙って付いていく。先程までとは逆になった位置。加藤の背中を見ながら歩く。
 松田が殴られたのを見て、人生で初めてカッとなって使徒を殴ったという男。少し視線を下ろすと、殴った右手の関節が少しだけ赤くなっていた。
 殴りなれていなくて、きっと関節を痛めている。親指しまい忘れていて爪が割れているかもしれない。そこまでいかずとも、痛みはきっとある。
 ……ばーか。
 人生初が松田のためって、どう考えても馬鹿だ。男なら殴り合いのひとつやふたつ体験してるものだろうに。それをしてないなんて、どんだけお坊ちゃまなのか。いや、実際お坊ちゃまなんだけど。
 ドラッグストアは開店五分前で、まだ開いていなかった。開店準備をしている店員の邪魔にならない場所に立っていたら、パートらしい女性がもう少々お待ちくださいねえと間延びした声で二人に声をかけてきた。それに会釈を返す加藤を横目で見てから口を開いた。
「お前に高いワイン飲ませるのはもったいないから、ここで安いの買ってけ。お前の奢りな」
「松田と飲めるのならなんでもいいよ」
「……」
 加藤の軽口に、鼻を鳴らして顔を逸らす。すぐに女が聞いたら喜びそうなことを松田に言うが、それで簡単に喜べるほど松田は単純ではないし、言うのが加藤なのだから苛立ちすらある。けれど、反論や制止するには、今のメンタルでは面倒くさくて、無視が一番ローカロリー。加藤の相手は疲れる。
 沈黙のままの数分後、開店と同時に中に入り、カゴを持った加藤はそのまま医療品コーナーへと向かった。その後を付いていく。先程までとは逆になっているなと思ってから、別に加藤を待っている必要などどこにもないのだと気が付いた。
 このまま帰って加藤を締め出したところで、何の問題もない。けれど、売り言葉に買い言葉とはいえ、一度は了解したことを反故にするのは加藤に負けたようなもので、気に入らない。そう自分に言い訳をして、軽快な音楽が流れる店内を歩いた。
 湿布をカゴに入れた後はアルコールコーナーへ。ビールやチューハイという気分ではないし、日本酒や焼酎は明日に残りやすい。それならワインの方が良いと、一番安い赤と白を掴んでカゴに入れた。レジに向かう途中にあったセールシールが貼ってあるどこのメーカーかも判らない菓子もついでに放り込んだ。加藤に出すつまみとしては、それで十分。
 開店直後にスーツ二人が購入するのが湿布とワインなんて、パートで働く店員に話のネタを提供するようなものだろう。まあ滅多にこないからどうでもいいのだけど。
 会計を終わらせビニール袋をガサガサ言わせながら残りの道を歩き、見慣れぬ平日昼間のマンションへたどり着いた。
 昨日は日付変更間際で、今日は六時に出社。いつもより少しだけ荒れた部屋は、午前中の空気で少しだけよそよそしい。その空気を払うように、開けるのを忘れていたカーテンを左右に広げて、太陽の光を入れた。
「飲むぞ。てめえを潰してやるからな」
「お手柔らかに」
 目を細めて笑う加藤に苛立ちながら、買ってきたワインをひったくった。

     ●

 水も飲まないとという加藤を無視して、どちらかのグラスが空く度に酒を注いで。安いワインはそれなりに飲めるけれども、やはりいつものがいいと結局松田の部屋にある瓶も開けて、机の上には四本のワイン瓶。つまみの菓子は不味くて、まったく手をつけぬまま。
 買った湿布をしたら飲みにくいと拒否したせいで、湿布は箱ごと冷蔵庫の中に仕舞われた。使う時はとても冷たいことだろう。

「俺があいつ殴りたかったのに」
「ごめんって」
「格好つけやがって」
「松田の前だもん」
「ばーか」
「松田の前でだといくらでもバカになる」

 絡み酒だと判っていても、松田の止まらぬ口に加藤は毎回律儀に反応を返す。それがまた癪に触るのに、けれど加藤に無視されるとそれはそれでムカつくのだ。
 杯を重ねる松田に同じだけ付き合う加藤は、顔色一つ変えやしない。それがまたムカついて、自分とは違う余裕を感じさせてイラつくのに、存在ごと無視出来ない。
 他の男ならさっさと視界からも記憶からも消してどうでもよくなるのに。
 加藤にだけ適用されないそれに、何よりイラついているのは自分自身。
 眉を顰めて、机に顔を伏せて。目を閉じても隣の存在を感じる。
 無視出来ない。とうでもいいと切り離せない。
 ……くそ、加藤のくせに。
 悪態は喉の奥で消えて、代わりにため息となった。
「松田、寝るならベッド行った方がいいぞ」
 そんな松田の耳に、素面としか思えないほどいつも通りの加藤の声が届いて、身体を強ばらせてうるせえと言葉で拒絶した。
 こんな奴嫌いでしかないのに。
 嫌いだと言い切れるのに。
 どうしていつも通り出来ないのだろうか。
 松田の傍に勝手にいて、勝手に視界に入ってきて、鬱陶しい。
 それなのに、酔いに任せて口にする言葉は、思考がいつもより溶けていても紛れもない本音。
 嫌いで、けれど無視出来ない。考えてしまう。それがまたイラつくのに、加藤がもし松田に構わなくなったらそれもきっとムカつくのだ。加藤のくせに、無視すんなと。
 矛盾を抱えながらの言葉に、加藤はいつもよりも真剣に、願いのように全部好きになってと口にして。それに対して松田は全部嫌いだと本音で口にしたのに、加藤はそれに嬉しそうに笑って顔を寄せてきて。
 避けるのも面倒くさくて、アルコールの味のするクチビルを静かに受け入れた。