2024年4月5日
毎月末に発表される次月の予定表の前に群がる本丸の仲間たちの後ろを、そちらを見ないように前だけを見て足早に廊下を行く。夕飯前の本丸は様々な場所から気配がするが、それらが今の笹貫には少しだけ煩わしい。
身体の奥がざわついて、呼吸が浅い。大股で廊下を進めば床板がギシギシと鳴った。いつもならばしない動作ではあるが、今はそれに構ってなどいられない。
一直線に目指すのは自分の――自分達、の、部屋。
部屋の前に着く最後の一歩と同時にふすまを開けると、防音が効いているせいでこちらの気配が判らなかったのか部屋の中にいた同居人が驚いた顔でこちらを見た。
「捨てられても戻ってくるからね」
その顔を見ながら宣言すると、驚愕から困惑に変化する。口にしたら少しだけ落ち着いて、笹貫はふすまを閉めて中へと入った。
見かけはただのふすまなのに、きちんと防音処理がされていて、閉めている限り部屋の中と外は相互で音が届かない。百を超える大所帯で、自分の空間にすら他の気配がするというのは落ち着かないだろうと審神者が全部屋に施した処理。その結果、夜中まで酒盛りでどんちゃん騒ぎをする者たちが出てきて頭を抱えたこともあるらしいが、次の日に響かないのなら好きにしろ、と許容されたという過去があるとかないとか。二日酔いになろうと、出陣部隊に組み込まれていたら強制参加という名のペナルティだというのだから恐ろしい。
そんな防音の効いた部屋の中には、笹貫と同居人である稲葉江のみ。
確かに他の気配がないことにほっとしているのだから、主に感謝しながら稲葉江の隣に足を抱えて座った。
「如何された」
読んでいた本に栞を挟み、文机において笹貫と視線を合わせた上でそう問いかけてくる稲葉江の所作の丁寧さに、身体から力を抜く。殿様気質というのは、こんなちょっとしたところにも現れるものなんだな、と思いながら非番故に固めていない癖毛の向こう側にある灰銀の瞳と視線を合わせた。
「今日出陣終わった後に主の部屋にいったら、ちょうど来月の予定表が出ていてさ。里……だって、見て。二年経つしそろそろかもって思ったら色々溢れちゃって」
「それで先程の」
「……そうです」
呆れを含ませた声に足の間に顔を埋めることで小さくなる。
忌避感、強迫観念。自他問わず負の感情に敏感で、溜め込みやすい。
自分でも呆れる面倒くささだということは判っているけれど、そういう性質を持った刀のためどうしようもない。顕現した当初、勝者の傲慢かと琉球刀の影に言われたのはかなり堪えた。後日、そうではないのだと知ったらしく律儀に兄と共に謝罪に来たのには苦笑が漏れたけれど。彼らは、優しすぎる。その優しさに救われるのはそれこそ勝者の傲慢だとそれを禁じ、傷を抱え込んだ笹貫に気が付いたのが稲葉江だった。
それから紆余曲折あって今の関係に落ち着いた。
「貴殿が何を考えて先の台詞を吐いたのかは察したが、我を疑った事実は誠に遺憾」
どの本丸においても顕現する刀剣男士は、主の影響を受ける。それぞれベースの性格に加えて気性が荒い主の元に顕現する男士は荒くなるし、楽観的な主の元に顕現したらそれを身につけるのだ。この本丸の主は穏やかさと礼節を持っているため全体的にのんびりとした本丸となっている。笹貫はもちろんのこと、稲葉江も当然それに影響されており、自分より先に打たれた刀には敬語と、本来持ち合わせるぶっきらぼうなところが合わさり敬語とタメ口が混ぜ合わさった口調になっていた。本人曰く、意識しているわけではないから直らないらしい。
「疑ったわけじゃないけどお……」
「呪いを吐いておいて何の言い訳をされるか」
入室一言目のことを引き合いに出されると何も言えないと、足を抱え込んだ腕に力をいれる。そんな笹貫の、腕と足では隠すことが出来ないこめかみ付近に稲葉江の指が触れた。一房色の違う髪をゆるりと弄び、イヤーカフとピアスを繋ぐチェーンを揺らして涼やかな音を鳴らし、親指が肌を撫でていく。視界にちらりと映る黒と白。優しい感触にそろりと顔を上げると、緩んだ灰銀と視線が合った。
「何笑ってんの」
「悋気を起こされて喜ばぬはずがなかろう。相手が富田なんぞというのは気に入らんが」
「なんぞって……」
明らかに機嫌が良くなっている稲葉江を見ていると、自分の感情が馬鹿らしくなってくる。
この年下の恋刀は、主の性質に引きずられ、元から持っている弱い場所を増幅させてしまう性質になっている笹貫をいとも簡単に軽くする。
暴かれ、晒され、拒絶して。本気で斬り合って折れる寸前までいって、主に本気で怒られたこともあった。心の底から嫌いだと思ったし、笹貫を暴こうとする稲葉江が怖かった。
どれだけ躱そうとしても稲葉江も引かず、笹貫を暴きながら笹貫を知っていき、――知られたくないことまで知られて泣いた時に抱きしめられて安堵し、心が弛まることを刻みつけられた。
何故稲葉江だったのか今でも判らない。百の刀がいて、それは決して歴史の総数からしたら決して多くはないというのに。主の言葉を借りるのならば「偶然は最初に待ち、結果は最後に待っている」ということで、笹貫と稲葉江双方の最初にその偶然が待っていたということだ。だから数は関係ないのだと笑った主に絆された。なら、そういうものでいいか、と。
「江の双璧じゃん。絶対特別じゃん。オレ勝ち目ないじゃーん」
「幼子のような物言いをされるな」
身体を引き寄せられ稲葉江の足の間に導かれる。打刀だというのに太刀の笹貫よりでかい図体のおかげで、ちょうどよく収まってしまうのだが、刀故にそうされることが嫌いではない。短刀よりそうされたい気持ちは低いけれど、大事に抱え込まれるというのは安心を覚えるのだ。
「こげんこっさるっで、離れられんくなぁ……」
「それは重畳」
力が入っていないために柔らかな胸筋に後頭部を預けながら呟くと、真上から機嫌の良い声が落ちてきた。そんな稲葉江の気配は、波立つ笹貫の精神を落ち着かせるのだが、年下にあやされているようで、少々面白くない。ということを口にすると、別の時に我は貴殿に甘やかされているのだから、素直に受け取れとぶった斬られるのだけれども。
「富田くんが来るのは嬉しいでしょ」
「ああ。好敵手と認めるならば」
だが、と間髪入れずに稲葉江が続ける。
「我と富田はお互い、絶対に貴殿が思うような思慕は抱かぬ」
「どうして言い切れるの」
疑問に対する答えの代わりに、真っ白の指が笹貫の顎を掬い上げ交差するように唇が重なった。お互いに喉元しか見えない無理な体勢のため、軽く触れ合うだけですぐに離れていく。
それが惜しくて、身体を捻ってその唇を追いかけた。腕を伸ばし稲葉江の首に巻き付け引き寄せると、稲葉江は笹貫の腰を抱き寄せ唇が深く噛み合う。腕の強さと、絡み合う舌の熱さ。児戯のような触れ合いも嫌いではないけれど、吐息を同じにして熱を攫い合う激しさも好ましい。触れては離れ、離れた分だけ詰め寄って。深くなっていくと共に体内に反響する水音が強くなっていく。
匂いも味も二人一緒になった頃、とろりと稲葉江の咥内から流れてくる唾液を舌の上で受け止めると、稲葉江の舌がそれをかき混ぜる。じわりと自分の唾液が溢れてくるのを感じれば、咥内で好きに動く舌がこちらの上顎をぞろりと舐めた。
「……んぅ、ぇ゛、う!」
そのまま喉奥に舌を差し込まれ身体の反射がそれを拒絶しようとするが、溜まった唾液がそれより先に喉を通ってきてえずきながらそれを飲み込むこととなった。長い腕が笹貫の身体を抑え込むせいで逃げることが出来ず、稲葉江の腕の中でびくびくと身体を震わせた。
「は……」
やっとのことで唇を離された時には体力が削られており、ぐったりと稲葉江に凭れ掛かることとなった。それを嬉しげに抱きしめ直す男の鎖骨に拳を一つ叩き込み。
「優しくしろよ」
「激しいのがお好きだろう」
「せからしか」
笹貫の汚れた口元をキレイに拭っていく指に絆されずに視線を向けると、それに気づいた灰銀は親指で笹貫の唇を撫でながら口を開いた。
「例え話は好まぬが――……我より先に奴が顕現していたら、今ここにいたのは富田だったろう」
「なにそれ。オレが君じゃなくて富田くんを選ぶだろうってこと?」
「我と富田は双璧、性質は真逆であるが故に同一。我にあり得ることは奴にもあり得る、と。そういうことだ」
笹貫としては、主の言うお互いの最初の偶然説を支持しているため、顕現順は関係ないと反論したいけれど富田江のことを知らないため絶対とも言い切れない。心情的には絶対に、と言えるのだけれども。
「たとえ富田くんが先にいたとしても、オレの偶然は稲葉くんに働くってオレは信じる」
笹貫の弱さを見抜き、強引に暴き立て。帰る場所として腕を広げ、笹貫を収めてくれる存在は、今ここにいる稲葉江だけなのだと。
その思いをずらしたくはないという気持ちからの宣言に、稲葉江は笹貫の頬を指の腹で撫で、白い[[rb:顔>かんばせ]]の一部を仄かに朱に染め、
「嬉しや」
と、小さく……とても小さく、笹貫にだけ聞こえる声で囁いた。
「偶然も含め、笹貫どのの隣に坐せることを嬉しく思う」
稲葉江の指を捕まえ、黒に染まる指先に受け取った思いの返歌代わりに口付けをひとつ。
「富田が貴殿を気に入ろうとも、この場は我だけのもの。奪おうとすることなど決して許さぬ」
欲を滲ませるその台詞こそ、笹貫をこの場に留めるなによりの証拠。それを嬉しく思う笹貫の重さと面倒くささを自覚しながらも、稲葉江とてそれが判って笹貫を腕に収めるのだから自分達にとってこれが正解なのだろう。
戯れのようにお互いの肌に触れ合って、熱を分かち合う。
血を流して、涙を流して、抱きしめる腕の強さを知って、居場所が出来た。
それは相手が稲葉江だったからであって、富田江で同じようになるとは到底思えないけれど、悋気が気付けば笹貫から稲葉江に移っているのはそのあり得ない事実を稲葉江が想像したがためだろう。
「富田くんと斬り合いしないようにね。主と初期刀どのに怒られるよ」
「……富田次第だ」
眉間に深い渓谷を作る年下の恋刀が可愛くなって、笹貫は思わずその身体を押し倒して唇を奪った。