2025年2月18日
小さなぬくもりを抱いて眠った夜は、今も胸の一番大切な場所に置いてある喜びの証。
この記憶がある限り、自分は未来永劫幸せだろう。
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あまりにも穏やかで平和な日々に、これは現実だろうかとふと思考が陰る瞬間がある。
野遊山をぶち壊して厄介事を持ち込んだ私を、山田家は何も聞かず探らず療養させてくれいる。最初は動けるようになったらすぐにでも出るつもりだった。あの時退けた忍者はとある城に仕える草で、今来ないのは単純に体制を整えているだけであろう。このままここにいたら、この優しくも温かいごく普通の家庭が壊れてしまう。――また、私のせいで。とっくの昔に多くの家や家族を、一族を屠ってきたというのに少し優しくされただけでここを壊したくないと思ってしまう。
利用するだけ利用し傷を癒やして、見つかったら逃げればいいと、そう思えなくなっている自分に嗤うことすら出来やしない。
誰かを殺すたび、心が死んでいく。
恐怖に染まる目は何度見ても慣れず。怒りに満ちた視線のほうがいっそ楽だと感じた。自分の状況を理解していない無垢な瞳に見上げられる度、これは慈悲でもあるのだと言い聞かせなければ振り上げた刀を落とせなかった。……いや、それすら言い訳だ。結局自分は躊躇いを心に沈めて、多くの命を理不尽に奪ってきた。それが、いつか太平の世につながるのだと信じて。
そんなことはないと、判っていたのに。
矛盾を抱えた行動は精神を蝕み、結果殺すはずの子供が発した「お父さん」という呟きに過去を揺さぶられ、逃げ出してしまった。
もう嫌だ、と。
追われて死んでもよかったはずなのに足は逃げ続け、戦場から随分と離れたこんなところまで来てしまった。
逃げて逃げて逃げて、追われ続けることは嫌になったけれども殺されるのはもっと嫌だと思った。
崖から落ちたのだって、殺されるよりは自分で落ちて死んだほうが幾分かマシだと咄嗟に思ったからだった。結局あまり高さがなかった上に、落ちた先には自分たちよりも強い忍びがいるという状況で今も生きているのだけれど。
「おはようございます……また、布団で寝てない」
忍者見習いとも言える年齢の子供は、両手で湯気の出る桶を支え、腕には替えの包帯や軟膏を入れた風呂敷を持ちながら障子を開けてそう言った。
この一家の夫婦は忍びのようで、基本的に気配が薄く足音がしない。それに習っているのか一人息子も年齢に対して気配と足音が薄い。もちろん完璧に消せているわけではないから歩いていればすぐに気がつくし、今回も開けられる前からいることには気付いていた。
顰め面をしながら入室した少年を見ながら、意識を懐に忍ばせている苦無から少年へと移していく。例え誰がいると判っても、どうしても無意識に武器の所蔵を確認してしまう。ただの反射で、癖だ。
「きちんと布団で身体を休めないと、治りませんよ」
「十分休んだし、こっちのほうが落ち着くから」
横になり眠るというのは無防備を晒すということ。床に耳をつければ振動は感じられるけれど、咄嗟の時に動き辛い。それならば、壁を背にして座っていたほうが心理的には楽なのだ。それらを説明せずに端的に返すと、少年はむすりと唇を結んだまま近付いてきた。
桶と風呂敷を床に置いてからきちんと正座をする。
「触りますね。……ほら、冷えてる。夏に近付いているとはいえ、まだこの氷ノ山の夜は凍てつくんです。せめて布団を端に寄せて包まっていてください」
子供特有の体温が私の右足指を包み込み、小言が繰り出される。
少年に看病されるようになった初日の夜、声掛けなく触られ咄嗟に少年の手を弾き飛ばしてしまったからか、以降彼は必ず私に触れる前に宣言をするようになった。こんな小さな子に気遣われているという事実と、そこまでしてくれなくてもいいから放っておいてほしいという気持ちが綯い交ぜになり、言葉が出てこない。
「足を温めてから包帯を替えますね」
手を離し、湯気の出る桶に浸った手ぬぐいを取り出し絞る。随分と熱いのか、小さな手はすぐに赤くなっていた。
「左足もこちらに」
立てていた膝を解いて、両足を揃えて前に投げ出す。この少年は見かけによらず頑固で、意地っ張りだとこの数十日で十分判っている。父から与えられた、怪我人の世話をするという任務を忠実にこなそうとするため、拒否したところでそれを打ち返されるのだ。
「貴方が嫌だと言っても包帯を替えるまで私はここを動きません」
治療が一通り済み、怪我から出ていた発熱が落ち着いたのは拾われてから半月も後のこと。その間の記憶は酷く曖昧で、よくぞ売られたり殺されなかったものだと思う。苦無を握りしめる私に何も言わず、それを取り上げることもせず、二人の忍びは毎日世話をしてくれた。
そんな集中治療が終わり、発熱で動けないうちは世話になるしかなかったが、熱が下がった今出ていくことを考えていたのを見透かしたかのように、治療が少年の親から少年に変わった。子供を無下に出来ないことを把握されているのは、出会った時のやり取りのせいだろう。
その二日目、治療を拒否した私に向かってそう宣言した少年は、言葉通り朝餉も昼餉も取らず、じっと座る私の隣で同じように座り続けた。夕餉の時間が過ぎても状況は変わらず、日が落ちて忍者の時間となっても少年はずっと視線を逸らさずに座し続けていたのだ。眠ることなく。
根負けしたのは、三日目の朝。つまり丸一日経って部屋に明かりが差してからのことだった。
明るい中でみた少年は全身を細かく震わせ、足は冷たさでだろう青くなっていた。それでも睨むようにずっとこちらを見続けていた。呼吸は浅くなっているし、顔色だって悪い。上半身が少年の意図せず右に傾いている。あと数刻もしないうちに意識を失うだろうことは判った。足を投げ出し壁に背を付けているこちらとは違って、対面にいる少年は正座を崩すことなく座り続けているからだ。元より体力の差もあるのだから当然の差だろう。
「どうしてそこまで」
思わず呟けば、びくりと身体を震わせた少年は一度息を吸ってから口を開いた。
「これ、は、ぁ……ち、うえか、ら……、与え、ら、れた、っ、わたしの、し仕事、です」
呂律の回らない舌を必死に動かす少年は、か細く呼吸を繰り返す。
「あなた、だっ、……忍者、な、ら、なんでも、りよ、してしまえ、ば、いい」
「――」
こうして座っているだけでも確かに身体は癒えるけれど。治療を受け入れさっさと治してしまったほうが結果早く動けるようになるだろうと、少年が言う。あるものならば人の心にだって付け入り利用するのが忍びだろうと、何歳も年下の少年に説かれてしまった。
「確かに、ね……」
「……」
壁から背を離し、少年の目の前へと膝をついて細く小さな背中に手を添えた。
「一理あるから、君を利用することにするよ」
……そんなこと、出来やしないから拒否していたのに。
少年の両親である忍びは、子の性格をきちんと把握しているからこんな得体の知れない抜け忍にぶつけてきたのだろう。そして私も試されていた。こんな少年、無視して出ていくことも出来たし、きっとそうしたら彼らは追ってこなかったはずだ。――この、少年を除いて。丸一日動かなかった強情さを見るに、自分を追いかけて来ることは想像に難くない。
それをせずに張り合ってしまった時点で私の負けだったのだろう。
負けを認めてしまえば心が軽くなっている私は、どれだけ醜い獣なのだろうか。自己嫌悪に身を焦がしながら、それを表に出さないくらいに身も心も忍びとしての動きが染み付いている。
全身が冷え切っている少年は、私の言葉が脳みそに届くのに暫く時間がかかるのか呆然と見上げてくるばかりで。そんな少年の身体を、恐怖を押し殺して抱き上げた。
「ぅ、ゎ、」
まずは厠と、風呂だろう。少年の身体は大人の体温よりも低くなっている。それに思わず安堵してしまう自分にまた嫌悪しながらも、同時に温めなければならないとも思った。
固まってしまっている少年の足をゆっくりと伸ばしながら、立ち上がり障子を開けた。朝日が眩しい。太陽は苦手だけれど、今ばかりは少しだけ有り難いと思った。
「ちゃんと治療してくれよ」
「……はい」
こちらの言葉を理解した少年が綻ぶように笑う姿は、太陽の下にこそ相応しい。
そんな根負けから毎日きっちり二回、少年は私の包帯を替え手足を温める。夜には布団で寝るように言いつけ、朝には守らないことに対して苦言を唱える。その繰り返し。
「母上に湯たんぽを用意してもらいます。せめてそれを抱いていてください」
「……必要ない」
「何故です? 温かいですよ」
氷ノ山の標高の高い場所に建つこの家は、冬は雪に覆われ極寒になると言う。春の息吹が感じられる現在とて風が冷たいのだから、体験していなくとも察することは出来よう。だからこの家には人数分の湯たんぽがあり、冬はそれを抱えて寝るのだと少年が説明する。
それを聞いても、やはり首を振って拒絶した。
「温かいから、いらない……」
両手に覚えてしまった、忘れられぬ命が失われる重さ。
自ら奪った命に縋ることも、許しを請うことも出来ずその重さと体温だけがこびり付いている。
「冷たいのが好きというわけではないんですよね? 包帯外しますね」
脇にある結び目を解きながらの少年からの疑問には無言を返す。こちらが答えないことに慣れてきている少年は、気にすること無く質問を続けた。ここからは意地の張り合いで、連日繰り返されることだ。答えを返すまで延々質問し続ける少年と、答えなかったりはぐらかす私と。
「贅沢に慣れたくないとか。軟膏塗ります」
「……」
「湯が嫌いではないですよね。身体を拭うのは拒絶されませんし。包帯巻きます」
洗ったばかりの清潔な布を傷口にそっと当て、小さな身体全身を使って包帯を巻いていく。触れる体温は三日目の朝に触れた冷たさはなく、子供特有の温かさがあった。覚悟を持って一度しっかりと触れたからなのか、この少年の気配や体温には慣れてきていた。恐らく突然触れられても拒絶することはないだろう。
「あとはなんだろ……」
悩みながらも包帯を巻く手は緩まない。毎日行っているからか、随分と手慣れてきたなと思う。吸収が早いのは頭が良いからだろう。縁側から少年が修行をしている姿を眺めたこともあるが、随分と筋がいいなと考えたこともある。彼の両親の才能を受け継いでいるのだということが見ていて判った。
「あ、そうだ。傷口随分と塞がったので、今日の夜風呂に入っても大丈夫か後ほど母上に伺っておきますね」
「……判った」
「風呂は嫌がらないんですね。てことはやっぱり熱いのが嫌とかそういうことじゃないのか……」
「嫌がっても入るまでうるさくなるだけだろう」
「風呂に入ってすっきりしたほうがいいでしょ!」
自分の考えが間違っているなど思っていない高慢な思考に笑えば、きょとりと大きな瞳を揺らせる。それを気にせず服を直して立ち上がった。
「……朝餉だろ」
「あ、はい……。あの、私は何か間違えましたか?」
桶と風呂敷を持って隣に並んだ少年は、短い廊下を惜しむように早口で問うてくる。その小さな身体を見下ろし、卑屈になりそうな言葉を飲み込んで柔らかな髪の毛を撫でつけた。
「間違っているわけじゃないさ」
ただ、知らないだけで。とは心の裡に収めて呟く。そしてそれはきっと幸せなことだから、知らないままでいてほしいとも、思った。
●
少年が昼間獲ってきた兎肉を夕餉に囲炉裏を共にし、少年からの詰問を躱して部屋に戻るとほっとした。
だが、昼間の間に使っていない布団を丁寧に天日干しにされ、また同じ場所に置かれていることに気がつくと罪悪感を覚える。そんなことしなくてもいいと奥方に伝えても、微笑まれるばかりで聞き入れられない。こうして身を置かせてもらっているだけで十分すぎるというのにと考えていると、襖が叩かれ奥方が顔を覗かせた。
「この後、お風呂に入られるでしょう。着替え持ってきましたので使ってくださいね」
「……今お借りしているこの一枚で十分です」
「そちらも洗濯せねばなりませんからね。気にせずお着替えされて」
少年の強情で頑固なところは、確実に奥方の血だと思っている。少年相手ならば物理的に逃げられるが、奥方相手だとそれも敵わない。そもそも出入り口を押さえられているため、どこに逃げるのかという問題もあるのだが。
「怪我も随分と良くなりましたし、明日にはお暇いたします。最後のわがままと風呂は有り難く頂きますが着替えは必要ありませんので」
今朝、少年から風呂の話が出た時点で、ここを去ることは考えていた。少年の目から見てそこまで治っているのならば、誰も反対はせぬだろうと。
胡座をかき、両の拳を床につけて頭を下げると、しかし奥方はふふと上品に笑いながら、白くたおやかな指を一本、自身の口元に立てた。
「ひとつ、お教えしておきましょう。きっとこの先貴方と利吉の縁が続く限り役立つでしょうから」
縁が続くなんて、そんな未来はありえないと口を開くことが出来なかったのは、自分より上位の忍びの空気に気圧されたからだ。ただ座って笑んでいるだけだというのに目を離すことが出来ない。これが一流のくのいちなのだと、実感が身体を支配する。
「こんな場所で育っているからでしょうね。あの子はとぉっても目と耳が良いんですよ」
少しだけ潜められた声とその内容に目を瞠る。
忍びは訓練によってそれを養うが、後天的だからどうしてもムラがあるし、慣れで補うことのほうが多いけれど少年は天性のものだと母が笑う。
「この音量も聞こうと思っていればあの子に届きましょう。……今は、夫の風呂の世話で気が背いているから届きませんけれど」
だから、今のうちにとここにきたのだと笑う奥方だが、言われたことは信じられない。が、思わず同じように声を潜めてしまう。
「嘘でしょう?」
「嘘だと思われるのならば試してごらんなさい。そうですね、鬼事は如何ですか。きっと良い勝負になりますよ」
揺らぐことのない、子への信用。十二の子への期待としては大きすぎる気もするが、一流の忍びの言葉は確信を伴うものに見えた。これが虚言だとするならば大したものだ。
「大した自信ですね」
「親が子を信じなくてどうするのですか」
「……」
それは、私が取りこぼしたものだから知らない、と言うには記憶に残りすぎていて何も言えなくなる。
だって、きちんと覚えているのだ。愛されたことを。期待され、成長を喜ばれた記憶が確かにあるのだ。……だからこそ苦しくて仕方がない。
何も言葉を返せないでいると、奥方はふと首を傾げて話題を変えた。
「さきほどのことは利吉に伝えてくださいな。今の貴方の処遇は全てあの子に一任しておりますので」
「……は、いや、それは」
「あの子が駄目と言った上で出ていかれるのならば、旦那も私もあの子の指示に従い貴方を全力で連れ戻しますわ」
「……」
それは全力で拒否したい。勝てるわけがない。身のこなし方から、この奥方も相当な腕を持つくのいちだということは判るし、主人も当然それを上回る実力者。更にここはこの一家に地形の利がある場所だ。治ってきているとはいえ、怪我人が相手をして逃げ切れる可能性は少ない。……と、忍びとしての実力差から冷静に判断してしまう。否、言葉通り死に物狂いならば逃げられるかもしれないが、その場合本当に死ぬだろう。
――それもいいか、と甘美な誘いが頭をもたげた瞬間を狙ったかのように正面から声がかかった。
「うちの子を説得出来るとは考えないのですね」
「……あの子の頑固さは、もう知っておりますから」
「あらあら、ご自身のことは見えていないのですか。それとも棚に上げていらっしゃる?」
「――……」
何も言葉を返せずに絶句していると、ころころと鈴を転がすように上品に奥方が笑うが、それに対しても何も反応出来ない。
「ああ、時間切れですね」
ふと、小さな気配がこちらに足早に近付いていることに気が付き顔を上げる。奥方が立ち上がるのと少年が姿を見せるのは同時だった。
「母上、何をされているのですか」
「まあ母を厄介者のように言うのね」
「違います! 気になっただけです」
顔が煤で汚れているのは、釜を焚いていたからだろう。ごしごしと頬を擦りながら奥方に弁解する少年は年相応に見える。
「この方の着替えを持ってきただけですよ。お風呂に案内差し上げてね」
奥方と入れ替わって部屋の中に入ってきた少年は、床に置かれた着替えを手にとってからこちらに近寄ってきた。座っているとさすがに身長差が逆転するため、大きな眼で見下されると少々気不味い。
じいとこちらの顔を覗き込み、何かを探ろうとしている。だが、探られるようなことは特にないはずだ。……先程の会話を、彼が聞いていなければ。
「ええと、風呂に案内してもらっても?」
居心地の悪さからそう促すと、少年はなんとも言い難い顔をしてから頷いた。
●
「……何だって?」
「折角風呂で温まったのに床に入らなければ風邪をひきますよ。どうせ今日も布団を使わないおつもりでしょう。それでは風呂に入った意味がないので、今晩から私が一緒の布団に入って監視します」
聞き返したこちらに対して、同じ言葉を繰り返す少年はどこまでも真面目だ。隅に折りたたまれた布団を引きずってきて部屋の中央に敷き、形を整えていく。最後に自分の枕を並べてからこちらに振り返った。
「他人の気配があったら眠れないのが忍者なんだけど」
「無理に眠らなくとも、布団のなかで横になって目を瞑っているだけでもいいです。それでも休息になると父上に習いました」
「今日はちゃんと寝るから」
「信じません」
きっぱりと言い切り、さあどうぞと布団に促される。寝るにはまだ夜が浅いというのに、だ。
「まだ寝るには早いから本を読みたい、かな」
「どれがいいですか? 持ってきますので布団の中に入っていてください」
「君は読みたいものないの?」
「お気遣いなく」
「昼間使っていた忍具の手入れ」
「終わっています」
「こんな得体のしれないのと寝ること、お父上とお母上は許可したの?」
「そんな風に言わないでください。もちろん良いと言われてます」
駄目だこれは。このまま布団に入らなければ二日目のやり直しになるだろう。あの時と違うのは、二人の間に会話があるかないかだけだ。
強情な子供だと考えた途端、自分のことを棚に上げて、と風呂に入る前に奥方に掛けられた声が鼓膜を揺らした気がして思わず耳を押さえる。ここに留まり毎日この一家と触れ合うたびに自分の中の何かが解けていくようで酷く尻の座りが悪い。だというのに居心地は悪くないのだからいっそたちが悪いとも思っている。
「どうしました? 頭痛いですか?」
こちらの仕草を体調の悪さと見たのか、少年が顔を覗き込んでくる。何でもないと首を振ってため息を付いた。
実際の所身体が温まったためか、今までは感じなかったずしりとした疲労があるのは確かなため、言い合うのも面倒となり大人しく上掛けを捲って足を突っ込む。その姿を見た少年は満足気に息を吐いた。
「本は読まれますか?」
「いや、いいよ……。なんか今日は疲れた」
「風呂は体力を奪いますからね」
灯りが行灯から灯明皿に移されると、部屋が暗くなる。その心許なく、同時に柔らかな灯りを頬に反射させながら、少年はこちらの枕元に座った。
「失礼します」
どうぞ、という前に勝手に入り込んでくる。ここまで来たら追い返すこともなく、上掛けを広げてやるとするりとこちらの懐に小さな身体が嵌った。こんな場所に生きた人間を受け入れるのは“あの時”以来で、判りやすく動揺した私をどう見たのか、少年はにこりと笑みを浮かべた。
「これで逃げられませんね」
「…………」
変なところで子供っぽくない少年の、年相応に子供のような言い方にどう返事していいのか判らずに黙ったままでいると、少年は薄い灯りの中、じいとこちらの顔を見続ける。
風呂に入る前にも同じことをされていたことを思い出し思わず自分の顔を擦るが、今しがた風呂でさっぱりしたばかりだ。汚れが付いているとは思えない。ならば何だろうか。
「私の顔に何かある?」
問えば少年は少しだけ笑い、しかしそれも一瞬のことですぐに顔を引き締めた後に布団の中から腕を出した。
「お顔に触れますね」
律儀に言葉にしてから、左腕を伸ばした少年の指先が頬に触れる。
指先は冷たいのに掌は熱い。子供の体温であっても外気に触れる場所はどうしたって冷えるのだろう。
「先ほど、母上に何か言われましたか?」
考えもしなかった言葉に一瞬質問が理解出来ず、すぐに返答が出来なかった。そんな失態に内心舌打ちをしながらも口を開く。
「……何故そう思うんだ?」
「ええと、その……」
言い淀んだ少年に、視線で促せば顎を引きながら頬に触れたままの指を動かす。
「迷子のように、不安そうです」
「――――」
「泣いてるように見えて……」
実際のところ、目も頬も乾いていて涙なんて流れていない。けれど少年は、そこが濡れているかのように幾度も指を滑らせる。触れている場所からお互いの体温が混ざり合い、違和感を無くしていく。それに慣れなくて身動ぎをするが、少年は体温を遠ざけない。
触れられたまま、時がすぎる。
振り払うことも、何でもないと言い訳をすることもしないままの私をどう見たのか、少年が小さな声で問いかけてきた。
「こわいですか?」
誰がとも何がとも言わない短い問いかけは、だからこそすとんと素直に心の裡に落ちてくる。
ずっと自分自身を支配する恐怖。
戦乱の中にあれば考える余裕がなくなるからその恐怖をみなくて済んだ。命を奪うことに心を凍らせ、けれど傷ついて。考える時間があるのが怖くてずっと争いの中に身を置いていたから、今この穏やかな時間が苦痛でもあった。
起きていれば考えてしまうし、寝ると夢を見る。
幼い頃の親に愛されていた記憶。その親の命を、自らの手で奪う夢。自分の罪を突きつける夢を見たくなくて眠りは尚更に浅い。かといって起きていれば自分の罪が、今までの行いが脳裏を駆け巡るのだ。
答えない私に対して、少年は右手も伸ばして頬に触れてきた。
「……大丈夫」
根拠など何も無い甘言。
けれど、だからこそじわりと心に染みをつけた。
「おまじないです」
ゆっくりと顔を近づけていた少年の唇が、目尻に触れる。
その感触に何故だか泣きたくなって、瞬きを繰り返す。涙なんて、とっくの昔に枯れ果てたと思っていたのに。
「あったかいのが嫌なんですか?」
小さいけれどしっかりとした腕が、私の身体を抱きしめるように巻き付く。あの朝とは違ってしっかりと温かく柔らかな身体。生を感じることが出来る身体。
「……違う」
温かいものは恐怖だけれど、嫌ではない。子供の身体に触れるのが怖いというのは自分が今までしてきたことを思えば、ただの欺瞞でしかない。それでも感じる恐怖をどうすることも出来ないから、触れる前には覚悟がいる。
「温かいものが冷えていくのが嫌だ」
あまりにも自然に問いかけられたせいか、ふと口から言葉が零れ落ちた。
温かければ生きていると判る。
冷たければ死体と変わりない。
温かいものが冷えていく過程が恐ろしいのだ。
命をたくさん奪った。
同業の忍者。誇り高き武士。戦争に駆り出されただけの農民の男たち。拠点で炊事を預かる女たち。村に住む老人、子供、赤ん坊。
抵抗があれば言い訳が出来た。
命乞いがあれば上の責任に出来た。
それらがない子供や赤ん坊が一番私の心を殺していった。物理的に相手の命を奪い同時に自分の精神を殺していく。
何回も何十回も何百回も繰り返せば摩耗する。けれどそれを理由にすることは許されなかった、のに。
「あの子たちは、……」
妹を背に担ぐ兄だった。
その瞳に恐怖はなく、怒りもなかった。無垢な瞳のまま一人の忍びを見上げて言った。
――妹は小さいから一人残さないで。
この子供はもう親が死んでいることを知っていた。だから、まだ一人立つことも出来ない妹をこの世に残しておきたくないのだと言うのだ。
生きなさいと言われた。――だから死ねなくなった。
復讐を考えるなと言われた。――だから代わりの罰を求めた。
その先に辿り着いたのが、こんな小さな命を奪うことだったと、そう思ったことが溢れそうだった器を壊す最後の一滴だった。
小さな命をふたつ腕に抱え、その場を逃げ出した。
けれど、戦場になっている村でそんなことをして見つからぬはずもなく、すぐに囲まれた。
この子供たちだけでも逃がしたかったのに、神も仏もないこの世は、どこまでも無慈悲だった。
周りを囲んだ忍びが放った矢と棒手裏剣は正確に小さな命を抱いた忍びを捉えた。忍びは、奪うことは慣れていても守ることは慣れていなかった。棒手裏剣は弾き落とすことが出来た。けれど避けたと思った矢は小さな命二つに突き刺さった。
血が流れ、温かだった体温が冷たくなっていく。忍びの腕の中で。
情けなどかけるな。頭が言う。今を生き延びたところでこんな幼子すぐに死ぬのだから、今殺してやったほうが良いと。このことは不問にするから、すぐに忍務に戻れ、と。
皮肉なことに、兄の望む通り兄妹同時に命が散ることとなった。頭の言葉が脳みそを素通りする中で、そんなことを考えた。
重くて軽い身体が両腕に負荷をかける。
温かな体温が冷たくなっていく。
脳みそに、肉体に、その冷たさと重さが刻みつけられた結果。
忍びは二つのいのちだったものを抱えて、その村を飛び出した。
「大丈夫」
瞳に過去を映す思考を切るように、少年の柔らかな声が届く。
ぎゅうとまだこちらの身体を一巻には出来ない腕に力が籠もった。
「ここは温かいから」
薄い布団の中で、二人分の体温。こちらに体重をかけるように少年はぺたりとくっついている。
「朝まで、ううん、これからずーっと、このまんまです」
「……そんなもの」
命はいつか失われるものだ。これからずっとなどと夢物語、あるはずがない。あと数年で元服を迎える少年がそれを知らぬはずもないのに、無邪気にそんなことを言うのが信じられなかった。
「信じられませんか? なら貴方が信じられるまで何度でも、何十回でもこうして同じ布団に入って同じことを言います。貴方が望まぬとも、貴方が天寿を全うするその瞬間まで」
「…………」
「嘘だと思うのならば、ずっと信じなくてもかまいません。私が勝手に証明していきますから」
これから、ずっと。
「貴方の一番近くで」
あまりにも気の長く自分勝手な言い分に絶句するこちらに対して、少年はふふと笑う。
「大丈夫。ここは、怖くないですよ」
少年の腕がこちらの腕を手に取り少年の背へと回す。抱き合う形になると更に密着度が増した。
――温かい。
その小さな身体は足先まで温かく、ずっと重たい。ゆるゆると腕に力をこめていくと少年が微笑んだ。
「おやすみなさい」
甘やかな言葉と共に瞼に柔らかな感触。
この家の人々は、他人を甘やかすのに長けてすぎている。偽言の術だとしたら大したもので、これが術なのだとしたら、もうそれでいいかとも思ってしまう。
元より、先がない人生だ。
この人達に騙され情報を売られたのならば、それが私の人生ということだろう、と。そう思ってしまうほどにもう疲れているのも事実。
死にたくないと思って逃げ続けていたというのに、もういいかと思うほどこの場所は甘やかだ。一度それを知ってしまえば、抜け出せない。
腕の中にある熱が、故郷を追われてからずっと止まっていた時間を動かす音がする。
それはあまりにも甘美で、あまりにも幸せで、あまりにも残酷で。けれど同時に安堵も確かに存在した。
だからもういいか。
今いるこの場所は故郷を追われてから初めて得た幸運の場所なのだと、気を緩めてもいいか、と息を吐く。
認めてしまえばそれに伴う苦痛もあろうが、もうそれもいいか、と。
身体から力が抜け、脳に霞がかかっていくのを止めずに受け入れる。
――その日、故郷を追われてから初めて、夢も見ないほど深く眠ることが出来た。