2025年6月9日
◆◇◆
ベッドの上に正座させられ、こんこんと説教されること十分。利吉くんが喋りすぎて咳き込んだことをきっかけに説教タイムは終わった。もうずっと……記憶にあるかぎり一年以上前から利吉くんは私の前で、ずっと穏やかに優しい笑みを浮かべるだけだったから、こうして感情を出してくれるようになったのが嬉しくて、説教されている最中に笑ってしまって更に利吉くんを怒らせてしまったのだけれど。
「あ、えと、何か飲む?」
「私が用意しますので、貴方は座っててください。足痛いでしょ」
たった今まで怒っていたのに、優しい彼はそうやって私を気遣ってくれる。
正座を崩して足を投げ出してベッドに座り、動く利吉くんを目で追った。冷凍庫からケーキ屋でもらう小さな保冷剤をいくつか取り出しビニル袋に入れ、洗面所から持ってきたフェイスタオルに包んで私に手渡してくれた。泣きすぎて目と頭が痛くなっていたから有り難くもらいこめかみや目に押し当てると気持ちよくて、ほっと息を吐いた。
冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを取り出し、マグカップに注いでそれも持ってきてくれる。
そうして私の世話を焼いてから、利吉くんは冷凍庫を再び開けて保冷剤を取り出してタオルにくるんで、台所で立ったまま目元に当て始めた。こっちに戻ってきてくれないのかと思いながらマグカップを傾け――視界の中に、それがないことに気が付いた。
私が住むこの部屋は、キッチンが廊下にある。そのため炊飯器やレンジをキッチン台に置いてしまうと作業スペースがなくなるからと、部屋の中でキッチンに一番近い壁際に収納棚兼キッチン用具置き場を作っている。なお、それを手配したのも利吉くんだ。私は自炊をほとんどしないけれど、炊飯器で米を炊くくらいはする。とりあえず米を食べておけば死なないと思っているし、米さえあれば惣菜を外で買ってきたら外食よりは安く済むし。
そんな稼働率の高い炊飯器とレンジと同じ棚に入っている食器類。
その一番右端に、あるべきはずのものがない。
「……利吉くん」
「はい?」
マグカップを床に置き、タオルも放りだして立ち上がる。足裏が腫れていて床が柔らかく感じるけれど歩けることを確かめながら、棚に近付いた。
「マグカップは?」
「…………」
ここには、揃いのマグカップが収まっていた。
私のものは外側が黒で内側が白。利吉くんのものは逆になっている、大きめのマグカップ。二人でなみなみと淹れたカフェオレをよく飲んだ思い出のあるもの。一緒に選んで、一緒に使った片割れ。昨日まではここにあった。どれだけズボラであろうと、マグカップはちゃんと毎回ここに仕舞っていたのだから間違いない。
では、いつ無くなったのかなんて、答えはひとつしかない。
「っ、半助さん」
廊下に立っていた利吉くんを押しのけて靴を履く。鍵を開けてチェーンに阻まれて舌打ちした。さっきまで利吉くんを閉じ込めるための役割を持っていたそれが今は私の邪魔をする。
「いいですから」
「良くない!」
玄関でまごつく私の背中にそう声をかけてくる利吉くんに怒鳴り返して、チェーンを外して外へ飛び出す。
いつもは音がしないように歩く外階段を、そんな余裕なく音を立てながら駆け下りた。
可燃ゴミの回収は月曜日と金曜日。今日は、金曜日。いつも仕事に出ているから、回収が何時なのか判らない。もしかしたらもう無いかもしれないという恐怖と戦いながらゴミ捨て場に走り寄ると、そこにはまだゴミ袋が積まれたままだった。ほっとして一つずつ見ていく。中身に覚えのあるゴミ袋の数々。その中の一つ。他のゴミ袋から隠すように置かれていたものを引っ張り出した。
持ち上げると他よりも軽くて、中身が少ない。
私の部屋に置いてあったはずの、利吉くんの私服。袋の閉じ口を解放し、中を覗くとそこには、昨日まで私の部屋の中にあった物が入っていた。
利吉くんが泊まったときに使うコップや歯ブラシ、カミソリ、シャンプーやボディーソープ。服だけじゃなくて下着も。
一緒に行った旅行先で買った土産物、彼だけが行った先での土産物。ガチャガチャで取ったフィギュアやゲームセンターで取ったぬいぐるみ。
それらより更に下。一番下。
外側が白で内側が黒のマグカップ。昨日までは綺麗だったのに今は飲み口のところから割れて斜めになって、無惨な姿となっている、それ。
「――……」
昨日の私の行いが、最後の一押しだったのだ。
私が部屋を出た後、利吉くんはどんな気持ちでこれらをゴミ袋に詰めて、捨てたのだろう。
家主のいない部屋の中で。
思い出を、ひとつずつ彼の手で捨てさせてしまった。
他のゴミから見えないように、隠されるように捨てられていた袋から、利吉くんの悲鳴が聞こえてくるようで、一度は収まったはずの涙がまたぼろりと零れ落ち、割れたマグカップの表面で弾かれた。
「半助さん……」
背後から利吉くんが躊躇いがちに声をかけてきたことをきっかけに、その袋をしっかりと握って立ち上がる。そうして逆の手で利吉くんの腕を握って一緒に部屋に戻った。
「あの、それはもういらないので」
「……」
この子は確かに、私への気持ちを一度捨ててしまったのだと、やっと理解した。
信用という名の愛情を。
信頼という名の恋心を。
さっき好きだとキスしてくれたことを嘘だとは思わないけれど、今、利吉くんの中に私を信じるという気持ちはひとつもなくて、それが当然だからいらないというのだろう。だって、これは利吉くんの捨てた感情そのものだから。
袋を部屋の中において、土産物を一つずつ元の場所へと戻していく。ベッドヘッドに並べるぬいぐるみ。テレビ台に並べるフィギュア。名前を知らない動物の置物。利吉くんの服は洗濯機の中へ入れて洗剤と柔軟剤を入れてスイッチオン。歯ブラシはカミソリは新しいものを出すとして、コップは洗って自分のものの隣へ戻す。お茶碗や箸も捨てられていたからそれはシンクの中で洗って布巾で拭き上げて棚の中に戻した。
ひとつずつ戻していく私を、利吉くんは部屋の隅で戸惑いながら見ていた。いらないとしたものをもう一度戻されるのは、もしかしたら利吉くんにとってつらいことなのかもしれないけれど、私はもう、彼の全部を捨てるつもりはない。全部、全部私のものにしておきたい。
最後に割れたマグカップを取り出す。割れた破片も全て。
保冷剤を包んでいたタオルを手に取り、それで表面を全部拭いてから全部ひとまとめにして定位置へと戻した。
「利吉くんが捨てるしかなかったものも、これから全部拾っていくから」
私から戻るはずの信用を全て捨てて、マグカップが割れたことで利吉くんは楽になれたはずだ。
私へ渡してくれていた信頼を全て受け止めなかったのに、それでも利吉くんは私を好きだと言ってくれた。
長い時間をかけて私は彼に様々なものを捨てさせていた。
それがどれだけあるのか、今の私には判らないけれど、見つけたら都度拾っていくつもりでそう言う。
「……いいんですよ、そんなことしなくて」
「良くない。何でもやるって言っただろ」
「また泣いてる。……目、溶けちゃいますよ」
困惑したまま、それでも利吉くんは私の目元をゆっくりと拭ってくれた。私のことを信じる気持ちを無くしてしまった今の利吉くんには、私の言葉に頷き許容することが出来ないのだろう。だから目に見える場所にしか優しさを向けられない。
昨日まで私がやってきたことと同じもの。利吉くんは優しいから、私のような酷いことは出来なくて私を甘やかすようなそんな言葉になってしまう。その事実にまた涙が溢れた。
これは私への罰なのだと心に刻む。
「好きだよ、利吉くん」
「……はい」
利吉くんの首に両腕を回して密着すると、躊躇いがちに利吉くんも私を抱きしめてくれる。頬をくっつけてすりすりと擦り付けると、利吉くんから唇にキスをしてくれて。
それが嬉しくて何度も薄い唇に齧りついた。
視界の隅には割れたマグカップ。私の罪の形。
今日のことを決して忘れないためにも、利吉くんの悲鳴の形を持ち続けるのだ。