2025年6月9日
◆◇◆
「……あれぇ、りきちくん、どしたの? 忘れ物?」
「いいえ」
寝ていたところをチャイム連打で起こされて、まだぼんやりとする頭のまま、玄関の扉を開けて数時間前に分かれたばかりの恋人の前に立つ。眠気で視界が暗い気がして、指の甲で擦っていると、利吉くんが私の手を取った。
「少し寝た今ならちゃんと耳に届くかなと思って」
「何がぁ……? 利吉くん、手冷たいね。中入る?」
秋が近づいてきているとはいえまだ夏の盛りだ。寝苦しく蒸し暑い夜だというのに利吉くんの指が冷たくてそう問うが、彼は少しだけ横に首を振るだけだった。
「もう楽になりましょう」
「……? 何が?」
「いえ、この言い方は卑怯だな。私がもう楽になりたいんです」
利吉くんが何が言いたいのか判らなくて首を傾げる。ああ眠たい。もう一度眠りたい。早く用件を言ってくれないだろうかと欠伸を噛み殺した。
「眠いですよね。すみません、ちょっとした意趣返しでこんな時間に来ました」
「いしゅ……?」
脳みそにちゃんと言葉が届かず、首を傾げる私を見ながら、利吉くんは私の手の上に固いものを乗せながら口を開いた。
それを包み込むように、利吉くんの手が重なる。
「貴方も、私の機嫌取りは面倒でしょう」
優しい――とても優しい、声が鼓膜に届いた。
「夜に貴方の気まぐれで呼び出されて足にされて、機嫌取りでキスだけされて、そんな生活に疲れたんです」
「……? 利吉くん?」
「好きな時に好きなだけ好きなように男に抱かれる生活がお望みなのでしょう?」
「なにいってるの?」
「それに付き合うのはもう嫌なんです。これ以上、私の人生を壊されたくない」
「りきちくん……?」
こんなに沢山利吉くんが喋るのは久しぶりな気がするとふと思った。
ああそうだ、以前の彼はキラキラとした目を私に向けて、様々な話題を振ってくれていたのに、いつからかそれが無くなって私の言葉に相槌を打つばかりになっていたのだ、と。今になって気がついた。いつからこの表情ばかりになったのだろうかと、ぼんやりした頭の中に疑問が浮かんだが、答えが出るより先に利吉くんが口を開いた。
「これ以上あなたに振り回されるのはごめんです。もう二度と会いません。別れてそれぞれ別の人生を歩みましょう」
……別れる? 何と? あわない? 何が?
意味が判らなくて呆然としながら顔を上げると、そこにはいつも通り優しい顔をした利吉くんがいた。
「もう、私は、貴方のことが好きではなくなりました」
とても優しい声。私の我儘を聞いてくれる時と同じ、柔らかな表情と声そのもの。
「――――…………え?」
けれど、その内容が初めて聞くもので、脳みそが追いつかず口から小さく漏れたのはそんな疑問符だった。
そっと手が離され、私の手の中に残ったのは銀色の小さな鍵と、キーホルダー。
――好きな人に合鍵渡すの初めて。
――私も、好きな人に貰うの初めてです。
ふと蘇った、この鍵を彼に渡した日の会話。旅行に行った先で買ったキーホルダーを付けて、使うのが楽しみですと目を細めて笑った利吉くんのことを覚えている。
「……りきちくん?」
私から掌を離した彼は、そのまま玄関に備え付けられているシューズボックスに腕を伸ばした。
以前、鍵をその辺に放り投げて失くしかけたがために、利吉くんも巻き込んで家中をひっくり返して探す羽目になった。以降はどれだけ酔っていても疲れていても、必ずここに置くと心に決めた場所。そこから鍵の束を手に取り、ひとつの鍵を取り外した。
「――結局一度も使われませんでしたね」
指で挟んで、ぽつりと彼が呟く。
それは交換でもらった、利吉くんの住むマンションの鍵。
「だっ……て、君がここに来てくれる、から」
「毎回私を呼び出すだけで、貴方が私の部屋に自主的に来るということが無かったから」
「…………」
その通りだったから反論が続かず、唇を噛む。いつもの彼なら、こんな意地悪いこと言わないのに。優しい言葉で今度は私の家に来てくださいねって、何度も……そうだ、何度も言われていたのに、私は結局一度も使っていない。だって、利吉くんは必ず私のところに来てくれた。誘いだって強いものじゃなくて、また今度ねって言えば引いてくれた。私に、強制しなかった。
脳内にぐるぐると回る言い訳の中からどれを言えばいいのか判らない私の掌の上に、利吉くんはもう一つ鍵をおいた。
「グローブボックスの中に必要書類を入れておきましたので、名義変更したあとは乗るなり売るなり好きにしてください」
「待って、」
「私の私物はここにはもうないはずですが、もしあったら捨ててください」
「ねえ利吉くん待って」
引き留めようと咄嗟に腕を掴もうとすると、バシリとそれが強く払われた。
そんな行為、利吉くんからされたことがなくて驚き目を見開く。いつでも利吉くんは優しくて、拒絶など一度たりともなく受け入れてくれていたのに。
利吉くんはいつもと変わらぬ優しい笑みを浮かべたままだった。……まるで、貼り付いた仮面のように。ここ数ヶ月、彼はこの表情しかしていなかった。いつも見ていた見慣れたものは、逆に考えればそれしか表情を知らぬかのようなものとも言えるのだと、今気が付いたところでどうしようもない。
――けれど。
呆然と私が彼を見ていると、その笑みの端からぼろりと雫が零れ落ちた。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
笑ったまま泣く青年は、それでもそのうつくしい造形が崩れることはなくて、そんな場合ではないのに見惚れてしまう。だって私は彼の姿形がそもそも好みなのだ。ずっと見ていられるくらいに、好きなのだ。
止めどなく両目から流れ落ち、頬を濡らしていくそれに気づいていないかのように、利吉くんは笑ったまま言った。
「土井半助さん。私は貴方と、人生を賭けて共にいたいと、そう思っていました。
――――さようなら……大好きでした」
◆◇◆
開かれたままの玄関扉からは、朝早い時間だというのにすでに熱いと思うほどの熱気と、セミの鳴き声。お盆だからか、どこかから子供の笑い声や叫び声も届く。
その中に混ざる、カンカンと一定のリズムで鳴るのは、外階段を降りる音。
利吉くんが、私を、好きじゃない。
言われたその言葉がぐるぐると脳内を回る。どうして、だって昨日までそんなことなかったのに。私のことが大好きで、大好きだから傷ついて。
――大好きでした。
その言葉が、酷く久しぶりに聞いた言葉だと気が付いた。
数年前……最初の頃は、会う度に言ってくれていた大好き愛してると言う言葉。もうずっと聞いていないということに私は全く気付いていなかった。
好きだよと、私が言えば嬉しそうな顔をして、けれど同じ言葉は返してくれなかった。そんなことにも気付いていなかった。
利吉くんは、私のことがもう好きじゃなかった? じゃああの傷ついた顔はなんだったのか。傷ついて、けれど私のことを大切にしてくれていた時間は? あれは全て嘘だったというのか?
そんなわけないと思う自分と、それはそうだろうと納得する自分が同時に存在した。
人は、傷ついたら心が摩耗するものだ。
傷ついた心を守るために防衛するものだ。
傷ついながら利吉はそれでも私の傍にいてくれたのは、私のことが好きだからだ。
けれど、傷つき疲れてしまえば――。
「――――」
ぞっ、と身体の奥から力が抜けた。
ふらりと足を踏み出し、部屋の前の手すりに縋り付く。地上へ降りた利吉くんは、こちらを振り向くことなく歩いていく。いつもなら、私が部屋に入るまで見送ってくれて、手を振ってくれて。
好きではなくなった、という言葉が脳内に響く。好きではないから振り返らないし、私に手を振ることも、笑いかけてくれることも、ない。当たり前だ。私が多くの男をブロックひとつで切ったように、彼にだってその権利がある。
「……ぁ、…………あ……」
その可能性を一切考えていなかった。
彼の気持ちを確かめるためにあえて傷つけて、そうして安心していた私を、利吉くんはずっとどんな、気持ちで。
「――……ゃ、」
私を好きでいてくれたから、私の行いを傷つきながらも傍にいてくれた。
好きじゃなくなれば傍にいる意味もなく、もう彼は私に傷つけられない。当たり前のその図式。
馬鹿だ。当たり前だ。人は傷ついたらつらくて悲しくてその原因から離れたくなるものなのだ。
それなのに彼はもうずっと……何年もそれでも傍にいてくれた。私のことが、好きだから。
あんな風に確かめなくても、利吉くんはずっと私のことを好きでいてくれたのに。
綺麗な景色、美味しい食べ物、楽しい話題、甘い言葉、優しい視線、私の好みに合わせた様々な行い。私の見かけや身体だけの男たちよりも、私という存在を大切にしてくれたのは利吉くんだったのに。
大切にしなければならなかったのがどちらかなど、明白なのに。
「…………ま」
私は、もうずっと、利吉くんを蔑ろにし続けていた。
怒る気力も無くなっていたのだろうか。
泣く意味を失って久しいのだろうか。
変わることを待っていてくれたのだろうか。
希望を持っていてくれたのだろうか。
判らない。ここにいたっても私は利吉くんに夢を見ていて、そうだといいなという願望で物を考えている。
そんな自分が醜悪で、最悪で、最低で。
ここにいたってもまだ彼の優しさに甘えている。
けれど、
「まっ、て」
一歩踏み出すと同時に視界がぼやけたけれど、そんなものどうでもよかった。
踏みしめた階段は熱を持っていたけれど、そんなものどうでもよかった。
砂利やアスファルトが足の裏を傷つけたけれど、そんなものどうでもよかった。
遠くなりかけていたその背中を必死に追いかけて、腕を伸ばして振り返らない背中に思い切り抱きついた。
「もうぜんぶやめる!」
前へと行こうとする身体を引き止めて、悲鳴のように叫んだ。
「利吉くん以外全部いらない……だから私のこと捨てないで! 一生、私のこと大好きでいて……」
「……っ」
逃げようとする身体をただ押しとどめる。腕を外そうとする力に抵抗する。だって、これが外れてしまったらもう二度目はない。もう二度と利吉くんを捕まえることが出来ない。身体も、……心も。
自分の目から流れ落ちる涙が、彼のシャツに吸い込まれていく。顔を肩口に押し付けて自分の手首を握って腕の中に拘束した。
「お願い……利吉くん、お願いだから」
肘を張り逃げようとする身体は、しかし敵わないと思ったのか抵抗が少しだけ緩まり、代わりに舌打ちが耳に届いた。
「そうやってアナタの思わせぶりに何十、何百回とひっかかってきた! 絶対に振り向いてもらえないどころか、自分以外の男とは簡単に寝る事を判らせられる地獄があるのに!」
何年も耐えて、耐えて、それでも最後まで利吉くんは優しかった。優しい言葉で私にさよならを言ったのに。その奥でこんなに傷ついていたのだとやっと気が付いてまた涙が溢れた。
「でももうひっかかりません。……好きでいるのをやめましたから」
聞きたくない、心を冷やす言葉を再び言われて抱きしめる腕に力を込めた。嫌だ、利吉くんにそんなことを言われるのが嫌だ。
好きなのに。本当に好きで、好きだから怖くて手を伸ばすことを躊躇っていただけなのに。その方法がどれほど利吉くんを傷つけていたのか全く気が付いていない大馬鹿者だったけれど。
簡単に切り捨てられる過去を体験したから、切り捨てることで自分を守っていたなんて、言い訳でしかないのだけれど。
「やだっ! けどっ、それでもいい……! 利吉くんが私のこと好きじゃなくなってもいい!」
「……ああ、キープしておく男が欲しいんですか。それともいつでも呼び出せる足が欲しい?」
「違う!!」
軽蔑するように、冷たい声が届く。
顔を上げて否定すると同時に、振りかぶった利吉くんの肘が思い切り脇腹に激突し、腕から力が抜けてしまう。私の腕の中から抜けた利吉くんは、こちらを振り返って身体を曲げる私を見下ろした。
「信じられるものか」
「信じなくていいから……次は私が利吉くんためにどこにだって行くしなんだってやるから……だから、私の事捨てないで……!」
その瞳はまだ濡れていて、男二人泣きながらの愁嘆場を演じている。けれど、そんなことどうでもよかった。必死に掴んだ腕だけは離さないと、指に力を入れた。
「嘘だったらどうしますか」
腕を振っても離れない私の指にか、それとも私の言動にか。苛立ったように舌打ちをもう一度繰り返した利吉くんが、そう吐き捨てる。
その言葉は、私にとって一筋の希望の光だ。拒絶から半歩だろうと次を望まれた言葉。痛みなど無視して、利吉くんの身体を引き寄せ抱きしめた。
「嘘じゃないっ! 嘘だったら死んでもいい!」
男二人のそんな愁嘆場。朝早いためか犬の散歩をしていたり、どこかに出かけようとする若いカップルがヒソヒソとこちらを見て喧嘩かそれともドラマの撮影か、警察を呼ぶべきかと話しているのが聞こえた。
私はそれどころではないから気にせず利吉くんだけを見ていたけれど、利吉くんはそうではなかったようで、周りを見渡し、私の格好を見てぎょっとしたように身体を揺らした。
「とりあえず、部屋に戻りましょう」
ポンポンと背中を叩かれ、それがあまりにも優しかったから鼻を啜りながら頷き、踵を返す。抱きかかえられるように足早に歩かれると、さすがに足の裏が痛いのだけれど、利吉くんが私に優しいことが嬉しくて文句など出るはずもなかった。
「靴履いてないじゃないですか!」
「だって、必死で……そんなものより追いかけなきゃって」
「馬鹿ですかあんたはっ」
足の裏は歩くと痛みはあるものの、もう熱さは感じない。血が出ている感じもしないから気にすることもなかったのだが、利吉くんに心配してもらえたのが嬉しくて笑みを浮かべると、何を笑っているのかと嫌そうな顔をされた。
最近、ずっと同じ笑みしか見ていなかったからこうして感情を出してくれることが嬉しくて、同時にそれだけ私は利吉くんを傷つけていたのだと突きつけられて、またじわりと涙が浮かび、頬を伝った。
◆◇◆
運がいいことに、部屋の中は特に荒らされることもなくそのままだった。治安のいい日本で良かったと言わざるを得ない。
狭い玄関に入って、扉を閉めて。鍵だけでなく普段はしないチェーンまでかけたのは、例え利吉くんが逃げようとしても、時間が稼げるのではないかと思ったからだ。
利吉くんは、そんな私の行動を見ながらも靴を脱いだ。
「タオル用意するのでそこで待っていてください」
出入口は私の背後。窓はあるけれどここは二階で素足で飛び降りるには少々勇気がいる。だからここから利吉くんが逃亡することは低いと判断して、大人しく玄関に座り込んで息を吐いた。足の裏が冷たいコンクリートに触れて熱を持っていることを自覚する。
身をかがめて足の裏を見ると、皮膚が真っ赤になっていて小石がいくつか刺さっていた。手で払って小石やゴミを払う。
洗面台のほうで水音、その後すぐに利吉くんが濡れたタオルを手に戻ってきた。
「足出してください」
「…………ひ、っ」
視線は合わないまま、それでも利吉くんは優しく私の足を拭っていく。ず、と鼻を啜るが涙はまだ止まらない。しゃっくりまで出てきたが、どうあっても止まってくれないのだ。利吉くんはもう泣き止んでいるのに、七つも歳上の私はこんな状態で、けれど取り繕うことが出来ない。
冷たいタオルに足を包まれて、足の裏の熱を自覚する。
痛くならないように、加減された掌の力で包まれるのが気持ちいい。は、と息を吐く私をちらりと見た利吉くんは、立てた自身の膝の上にタオルを広げ、その上で私の足の裏をじっくりと観察した。
「裂傷は出来てないようですね」
「ひっ、く……う、ん」
「火傷になっているかもしれませんね」
「少し腫れぼったい感じは、っく、するけ、ど。だいじょぶ」
「ここよりも中の方が落ち着けるでしょう。……立てますか」
もう私のこと好きではなくなったと言ったその口で、私のことを心配してくれる優しい利吉くん。手を取って立たせてくれて、短い廊下を誘導してベッドに座らせてくれた。
「え、うわっ!?」
けれど、その後離れようとする利吉くんの腕を咄嗟に掴んで思い切り引っ張った。ボスンと隣に沈み込む身体の、左側にのしかかってぎゅうと腕を抱きしめた。
「いっ、かないで。帰っちゃいやだ」
「あの、とりあえず落ち着いてください。落ち着くまで暫くここにいますから」
身動きが取れないように拘束して、玄関扉はしっかりチェーンまで施錠して。これは一種の監禁というやつだろうかと頭を過ぎったが、それ以上に利吉くんを離すことが出来ずにこの腕から力を抜くことが出来ない。
それに、利吉くんの言葉は私が落ち着いたら帰ってしまうということだ。そんなこと、もっと嫌だ。
「私が本気で利吉くんのこと好きだって信じてもらえるまで離さない」
足に大きな怪我はないけれどダメージは確実にあって、走って逃げられたら追いつけないことくらいは判っている。そうして見失ってしまったら、もう二度と運に任せるしか利吉くんに出会うことが出来なくなる。
利吉くんが引っ越した当初、彼の住むマンションに案内してもらったことがある。けれどその時は、利吉くんに連れてきてもらえばいいやと場所を覚えなかったし――流石に最寄り駅は覚えているものの、詳細な場所は記憶の彼方だ――、送ってもらった住所だって保存していないからメールの発掘は難しい。今、住所を聞いたところで教えてなど貰えないだろうし。
だから、この瞬間にしかチャンスがないのだ。
ひぐ、と横隔膜が引き攣り喉から音が鳴る。
すぐに信じて欲しいとは言えないけれど、信じるという希望が欲しい。簡単に元に戻れるなどとは思っていないけれど、約束がないと怖い。
「本気って……本当に本気なんですか?」
「本気! もう利吉くんに地獄みたいな思い絶対させない。本当に大好きだから信じて……」
自分の吐く息が熱い。外にいた利吉くんの肌は汗をかいていて、素肌同士がくっつくとペタリと張り付く感覚。それがひとつも不快ではない。私だけでなく、利吉くんもそう思っているといいなとそう思うけれど、確かめるのは怖かった。
「十九に告白して、もう四年。その間、数えるのも馬鹿らしくなるほど裏切り続けられて、涙ひとつでそれを信じろなんて」
「もう二度と、利吉くんのこと裏切らないから。もしそうなったら死んでもいい」
「簡単に死ぬとか言うな!」
本気を判ってほしくて言った言葉に、利吉くんが吠える。びくりと顔を上げると、利吉くんの目にもまた涙が浮かんでいた。
「……りきちくん」
目尻から耳の方へと流れる雫を指で辿ると、嫌がるように顔が背けられる。
「くそ、ふざけるな……」
「利吉くん、ごめん……ごめんね」
瞬きの度に溢れる雫は熱くて、利吉くんの身体の中の熱さを伝えてくる。
自分を蔑ろにしないで、と。何度も言われていた。それすら、私は聞いていたのに届いていなかった。それは今の言葉もそうだし、アプリで知り合う男にだけ身体を許す私に対する彼の悲鳴でもあったのだろう。
謝ることしか出来ない私の身体の下で、利吉くんが目を閉じた。そっと流れる雫を指先で受け止める。
「もう、好きじゃない」
血を吐くような、掠れた声が小さく零れ落ちる。
指先を濡らす雫が熱くて、利吉くんの気持ちが溢れているようで、取りこぼしたくなくて何度も受け止めて。最初は嫌がっていたのに今は抵抗がないのは諦められたのか――それも、願望だろうか。判らない。
昨日までは利吉くんのことが判っていた、つもりだったのに、今はもう何も判らない。
何も見ていなかったのだと突きつけられて、何もかもが間違っていると曝け出されて。
それでも、私は、この子のことが好きで。離れたくないし離したくないのだ。
「――それを本当に出来たら、どんなに楽になれるか……っ」
突然、身体に圧がかかった。利吉くんの片腕によって抱き締められていると理解するのに数秒。その間も、その圧は離れることなく、彼の体温もそこにあり、また涙が零れ落ちた。
「利吉くんだけだって信じて」
掴んでいた利吉くんの腕から手を離して、彼の背中に両腕を回すと、利吉くんも同じように解放された腕を私の背中へと回した。お互いの肩口に顔を埋めて、くぐもった声で言葉を交わす。
「すぐには全てを信じられない。だって、一度も私の思いは貴方に届かなかった」
「うん……」
「楽になりたいのも本当です。貴方といるのが苦しくてつらい」
「もう二度とそんな思いさせない。利吉くんだけ、利吉くんしかいらない。絶対に裏切らない」
「けれど、……もう一度信じる努力を、します」
「うん」
優しい君は、自分の心よりも他人である私を優先して。
その弱さに付け込む私の卑怯さを判っているだろうに。
それでも解放してあげられないくらいに私は君が好きなんだ。
ごめんと言いかけて、ぐ、と息を飲む。
「ありがとう、利吉くん」
言葉を変えると、肩に乱れた吐息と、濡れた感触。きっと利吉くんも肩に同じものを感じていることだろう。
「言い訳はあるけれど、それを言うのは卑怯だから言わない。代わりに、同じだけの時間をかけて利吉くんだけだと証明してみせるから、一緒にいて」
「…………はい」
ふと、利吉くんが顔をずらして私と視線を合わせようとしてくるのに気付き、顔を上げた。
泣き腫らして目元の赤くなった顔は、それでもやっぱり綺麗で。ずっと見ていられるもの。
「貴方のこと、信じられてないけれど……好きですよ、半助さん」
そうして、いつぶりか判らないくらいに利吉くんからキスをされて、たまらなくなってまた涙が流れた。
何度も触れては離れて、離れた後にまた触れて。塩っぱいキスは仲直り……まではいかなくとも、少なくとも今すぐに利吉くんを失わずにすんだ証拠。
「ほんと? 私たち両思いだよ」
「…………」
それには淋しげに笑うだけで頷いてくれないのは仕方がない。たった今、時間をかけて証明すると誓ったばかりなのだから。
けれど利吉くんを失わずにすんだという結果が嬉しくて、テンションが上がった私は足を利吉くんの下半身に絡めて今まで言わなかったことを口にした。
「両思いだし今からしちゃう?」
「え!?」
「あ! でも性感染症検査してからのほうがいいか!」
そこは気を付けていたとはいえ、絶対ではないし、万が一にも利吉くんに病気を移したらそれこそ死んでも死にきれないと思いながらの提案。
本気でそう言った私のすぐ下で、利吉くんは半目になりながら背中から腕を外す。
「だから、そう、いう、ところ~~~~!!」
目尻から涙を零しながら、両手で私の頬を思い切り左右に引っ張った。