朝涼

10:今日世界が滅亡しないから海に隕石を落とした

2025年5月31日
利「こんなにも辛くて悲しいものなら、あなたを好きにならなければ良かった」

 例えば、もっと早く生まれていれば。
 例えば、もっと早く出会っていれば。
 例えば、どちらかの性別が違ったら。

 無数の例えばを考えるよりも、奇跡に近い確率で再び出会えたことを素直に喜びたかった。そう願うほどに私は貴方が好きで、大切で、大事にしたい存在で。
 いっそ昔のように振る舞えたらと何度思ったことか。
 昔。一年十年という話ではなく、何百年単位の昔。荒唐無稽ともいえる前世の記憶が私には存在し、それを当然として生きてきた。現在では存在がファンタジーとも言える忍者として。
 もしかしたらそれはこの世界ではなく、似た別の世界なのかもしれない。学校で習う歴史と少しだけ違って、大部分は知っているそんな状態。それでも昔から室町時代後期から戦国時代、そして江戸時代初期だけは強かった。なにせ体験していることだからだ。そして人よりも少しだけ運動神経が良くて、目や耳が良かった。不思議なものだが、違う肉体だというのに姿もあの頃と同じように――少なくとも自分の視点では――見えた。
 それは自分だけでなく、周りにもちらほらと知っている顔があった。全員が私のように記憶を持っているわけでなく、初めましてと言われることもあった。それでも良かった。あの頃と今は違うのだから、親しくしたい人とはこれからまた関係を築いていけばいい、と。
 幼少期から死ぬ寸前まで全てではないものの印象深い出来事や人間関係は覚えているものの、出会う人々の顔も記憶の中では曖昧でも姿を見るとピタリとピースが当てはまるように鮮明になることもしばしばある。

 そうして出会った中に、たった一人だけ、思い焦がれていた人がいた。
 新たな関係を――と言っておきながら、けれどこの人との関係だけは、過去から変えたくはなかったから、出会ってすぐに気持ちを伝えた。その人も同じ気持ちだと笑って私を抱きしめてくれて。
 今世こそ幸せになれると、人生で一番幸せな瞬間を大切な人を抱きしめて思った。

 ◆◇◆

「…………え?」
 掌に置かれた、大切な人の体温が仄かに残るそれは、数ヶ月前の私の誕生日に二人揃いで買ったもの。傷がまだ少なくて、けれど微かについているのは、毎日嵌めてくれていた証拠だと、傷ついていく銀色の輪っかを愛おしげに撫でたのはつい三日前。自分のものは左の薬指に嵌ったままで、これは今渡された彼の左薬指に嵌まっていたもの。
「……半助さん?」
 私の左手を取り、そこから同じように輪っかを抜いてしまう。そうして大きさの微かに違う揃ったものを互いの指で隠すようにぎゅうと握った。
「今日でお別れ」
「……? 何を」
 三日前、この部屋で抱き合った時、二日後の――つまり、昨日の半助さんの誕生日は平日で会えないからその分ずっと一緒にいて、想いや熱を確かめあった。その時に来年もまたこうやって過ごして、いつか共に暮らしたいと話したら楽しみだねと笑ってキスをくれたのに。お別れ? 何から? 何を? 指輪が気に入らなかった? それとも、……それとも、何?
「利吉くんの二十歳の誕生日じゃなくて私の誕生日まで待ったのは、恩情だって。君とあの日出会っていなかったら、私は生きていなかったから。けれど、もうこれ以上――遊んでいるなって」
「あそび……?」
 ぎゅうと、痛いくらいに指を握られて。心臓がバクバクと鳴って呼吸が浅くなっていく。湧き上がってくる恐怖が続きを聞くことを拒否するように緩く首を振るが、半助さんは視線を落としたまま続きを口にした。
「結婚して家庭を持って、孫を抱かせてほしいと」
 抑揚のない声は、けれど大好きで大切な人の声だから、するりと鼓膜から脳へと響いてきた。
 結婚、家庭。子供。私といる限り、望めないものフルコース。それを欲する彼の両親の姿が脳裏に浮かんでパチンと消えた。
 今世では、半助さんは両親の元で育ち、愛されている。前世の過去を全て聞いたのは今世のことで、少しだけ気恥しそうに共に歳を重ねられることを喜んでいたことを知っている。
「……親孝行をしなきゃって思ったんだ。前の人生では叶わなかったこと、それを望まれているのならばって」
「親孝行……」
「今世は大切に育ててもらって、今も両親は生きていて。あの時出来なかった親孝行をしなきゃ……いいや、したいと思った。……利吉くんだってそうだろう」
 問われ、脳裏に浮かぶ両親の姿。まだ二十歳の私は直接言われたことはないけれど、二人もそれを望んでいるのだろうか。判らない。けれど、前世では確かに孫を望まれて――私はそれに従わなかった。半助さんに出会ったから。この人と共に生きたかったから。
 あの時代は命が軽くて、そして長くも生きられない世の中だった。だから、両親に嫁や孫をと言われてもその気はないと突っぱねて、それでいて半助さんと添い遂げるとは言わずにいた。そうして早死した自分は親不孝者だろう。今の両親に過去の記憶はなく、だから過去に義理立てする必要などないと思いながらも、過去と同じ轍は踏まないとは決めている。せめて両親を見送るくらいには長生きするつもりだ。
 けれど、結婚はと問われたら、自分の中にその選択肢は無かった。
 だって、男同士では結婚出来ない。
 過去よりもさらに男同士というものがタブーになっていて、手を繋ぐことすら堂々と出来ない世界に生まれたと知った時の絶望感は半端なかった。次の生では、両親に言えなかった関係などではなく、彼と添い遂げると告げて堂々と隣を歩ける世になっているのだと、信じて逝ったというのに。
 かといって、彼以外の人と添い遂げる選択肢は私の中にはなくて、今回も孫の顔を見せられないことに対して罪悪感は持っていた。思うだけで、自分の気持ちを優先して半助さんを選んだのは自分の意思。どうしたってこの人の手を離すことなど出来ないのだ。
 半助さんの肩に顔を埋めて押し付けるように首を振る。
「いやです。嫌だ……絶対に嫌だ! だって、やっとこうして触れ合えるようになったのに」
「そうだな」
「一緒に、やりたいこと、たくさん」
「私も同じ気持ちだった」
「前のときに出来なかったことがたくさんあるのに!」
「うん、けど、もう」
「過去形にしないで」
 彼の指から力が抜けるのを感じとって、咄嗟にそれを捕まえる。カツリと指輪が床に落ちたけれどそれよりもこの人を捕まえておくのが先だと本能が叫んだ。この熱が離れてしまったら、もう二度と捕まえることは出来ない、と。
 片手はそうして掌を捕まえて、もう片手は背中に回して力の限り抱きしめた。
 いつもならばすぐに背中に回ってくる熱が、今日は感じられない。それがつらくて、なおさら背を抱く腕に力を込めた。
「利吉くん」
「い、いやです……。一緒にいたいだけなのに、それは叶えてくれないんですか。どうして、半助さんはそんなに、そんな……」
 いつもはよく回る舌が、今は全く動いてくれない。嫌だとどうしてばかりが頭の中を支配していて、説得の言葉も引き止める言葉も出てこなくて。その間、半助さんは逃げることはなかったけれど、撤回の言葉も慰めの言葉も何もかけてくれなかった。
「…………ぁ、……っ」
 ひく、と喉が引き攣り、ぼろりと零れ落ちる大粒の涙を皮切りに溢れ出ては半助さんの肩に吸い込まれていく。
 ただ、この人と共に生きたいだけなのに。
 おはようと笑って、キスをして、共にテレビを見て、手を繋いでデートをして、楽しいことを共有して、時折抱き合って眠りたい。そんな生活をしていきたいだけなのに、何故こうなるのだろう。
 好きですと口にして、好きだよ返されて。
「う、ぁ……ッ」
 それだけが欲しいのに。
 それだけで十分なのに。
 それ以上望まないのに。
「あ……――!」
 泣いて、泣いて、泣いて。
 それでも判っている。
 もう決めてしまったこの人の決意は変えることなど出来ないことを。明日にはもう自分達の間にある関係性は何も無くなっていることを。
 判っているから泣くしかなくて、しがみついて爪を立てて、傷が出来てしまえばいいし、これから一生、私のこの泣き声が張り付いて、剥がれなければいいとそう思いながら声の限り泣き続けた。

 ◆◇◆

「海行こうか」
 私の呼吸が落ち着いたタイミングで、半助さんがそんなことを言う。
「指輪一緒に捨てに行こう」
「……私が、持ってるのは、ダメですか」
「未練になっちゃうから駄目だろ」
「…………」
 腕を伸ばして落ちた指輪を拾った半助さんは、その二つを手の中で転がしながら私と視線を合わせた。
「私達、もっと自分勝手で傍若無人に振る舞えたら良かったのにな。親のことなんか関係ないって夜逃げして、どこか知らない土地に二人で引っ越して人生やり直して……」
「そうしたら、私と一緒に生きてくれましたか」
 私の問いかけに半助さんは少しだけ笑って、けれど答えはくれなかった。残酷なまでに優しい人。今はそれがつらい。
「運転は私がするよ」
 温かな指先が、目尻に溜まった涙を弾いた。
 泣き終わった後に残るのは心に空いた大きな穴。ぽかりと口を開けて見えない底が広がるそれは、一生埋まることはないだろう。明日以降、笑っても怒っても楽しんでも、穴はずっとここにあるのだと直感が言う。
 この穴と私はこれから生きていくのだ。これが、私と半助さんを繋ぐ唯一のものになるのだから。

 私が半助さんの手を離さないから、彼はそのまま財布と鍵を手に取って、立ち上がり玄関に向かう。狭いそこで靴を履いて外に出ると、冬の気配が微かにあり、風が冷たい。濡れて乾いた頬は敏感で、ぎゅうと一度目を閉じた。
「利吉くん」
 月極駐車場には、二人で買った中古車が置いてある。私がここに来ることの方が多いから、利吉くんちに近いところに置いておこうと半助さんが笑ったのは付き合ってすぐのこと。それからこの車で色々な場所に行った。
 そっと腕を揺らされ視線を上げると、困ったように半助さんが私を見ていた。微かに首を振ると彼の空気がさらに困惑するのが判った。
 けれどこの手を離してしまったら、この人はこのまま私の前からいなくなってしまうのかと思うと、離すことが出来ない。もう、私たちの間にはこの繋がりしかないのだ。だから離すのが怖くて、離したくなくてぎゅうと力を込めた。
「大丈夫だから離しなさい。突然いなくなったりしないから」
「……信じ、られません」
「じゃあ、これ」
 反対側の手で持っていたスマホと財布とキーケース。それを半助さんは私のズボンのポケットに押し込んだ。
「君が持ってて。それがないと帰れないから……これなら安心する?」
「…………」
 これ以上の強情はこの人を怒らせるだけかもしれないと思い、ゆっくりと指先から力を抜くと、ありがとうと小さな礼が耳に届いた。その後、助手席のドアが開けられる。
「乗って」
 素直に従い、助手席に身を沈めるとドアが閉められ、静かな空間に取り残される。
 このまま、半助さんがいなくなったらどうしよう。財布を預けていてもいざとなれば歩いてでも帰ることは出来るし、スマホだって買い換えればいい。身分証明書を先に抜いている可能性だってあるし、私を撒くための方便で預けられたフェイクの可能性を考えたら恐怖が身体を支配し、咄嗟に助手席のドアノブに手をかけた。
「こら、どこ行くつもりだ」
 ガチャリと反対側のドアが開き、そんな声と共に気配が隣に滑り込んでくる。殆ど反射的に身体を捻って腕を伸ばして抱きついた。
「い、いなくなっ……」
「――全部預けただろ」
「そん、なの、どうとでもなるでしょう……」
「信用して……って、出来ないよなあ」
 それを壊した張本人は自嘲するように笑い、私の肩をゆっくりと叩く。触れている体温は慣れ親しんでいるものなのに、空気はよそよそしくてそれがつらい。
 近くにいるのに遠くて、ほんと一時間前までと変わりすぎていて。
「本当に、勝手に……突然いなくなりませんか」
 納得していない私の気持ちを置いてけぼりにして、時間は進む。このままここにいたってなんの解決にもならないし、むしろ時間切れになって今以上につらくなるだけだと、冷静な頭の片隅が囁く。
 そっと身体を離すと、半助さんが腕を伸ばして私の顔にそっと触れた。
「約束する」
 応えに頷くと、温かな指先が目尻を撫でる。その感触に瞼を落とした。
「イケメンが台無しだなあ」
 こうして触れてもらえることがどれだけ幸いだったのか、改めて思う。ベッドの中で触れ合うのは気持ちよかったけれど、日常の中のふとした時の触れ合いの方が嬉しかったのだ。彼が水から触れて笑ってくれること、過去にはなかった行動が私の心を何度も満たしてくれていた。
 明日もあるのだと信じていた熱は、もうすぐ遠くなってしまうなんで、まだ信じたくなかった。

 ◆◇◆

 平日夜中の高速はトラックや夜行バスが多い。その隙間に入り込んで飛ばす車内に会話はなかった。地面とタイヤが擦れる音、エンジンの動く音、トラックが隣を追い越していく風圧。ラジオの音が無ければ驚く程に静かだ。
 助手席の窓に頭を付けると、ひやりとした夜気が隙間から流れてきて気持ちよかった。
 泣いたためか頭がぼんやりとしていて、視界が狭い。考えなければならないことがあるはずなのに、静かな空間で何もせずに座っていると考えることが億劫になっていく気がして、ただ流れるネオンを見続けていた。
 半助さんも、いつもならば何かと話し掛けてくるのだが今日は無言でハンドルを握っていた。運転席で、助手席で何度も走った高速だから、どこに向かっているかすぐに判ったけれど、それを止める術はないのだからと目を閉じて振動に身を任せる。
 今すぐ、隕石が落ちて世界が終わればいいのに。
 そうしたら、私たちは恋人のままで同時に死ぬ事が出来る。両親たちも同時に死んでしまえば親不孝者にはならないだろうと、そんなことを考えることしか出来ない。
 当然そんな奇跡起きるはずもなく、車は高速を降りて大橋を渡った先にある海辺の公園の駐車場へと入り、停まった。
 昼間ならば多くの観光客で賑わう場所も、この時間は停まっている車は少ない。それぞれの車にドラマがあるのだろうけれど、隕石が落ちるのを願っているのは私くらいなものだろう。

「こんなにも」
 エンジンが切られた車内は静寂で、まろび出た声は掠れていても隣に届く。
降りようとしない私に付き合っているのか、何か別の人理由があるのか。運転席から動かない半助さんを見ずに、フロントガラスに反射する姿だけを視界に入れた。
「辛くて悲しいものなら、あなたを好きにならなければ良かった」
 痛む頭から意識を逸らすように、ぽつりと喉を震わせるそれは、今の私の心からの本音。
 前世で気持ちが切れていれば。記憶など引き継いでいなければ。出会わなければ。
 昔も今も、好きにならなければ。
 泰平の世を生きる一人に沈めたのに。
 どうして出会ってしまうのか、どうして惹かれてしまうのか。
 理屈が判ったら回避も出来るのだろうか。
「……て」
「……半助さん?」
 独り言に小さな声が重なった。視線を動かす先にあるフロントガラスに映る姿は、ハンドルに顔を埋めるもの。
「どうして、そんなこと言うんだよ……」
「……だって貴方を好きにならなければ、傷つかない。こんな……こんな思い、しなくてすむ」
「言うなよそんなことっ!」
 叫んだ声は裏返っていて。
 上げた顔、そこには。
「なんで、泣いて」
「利吉くんが私のこと好きじゃないなんて嫌だ。――なんで、そんなこと言うんだ。今回は無理だったけど、次こそは添い遂げるくらい、言えよぉ……ッ」
 身体を引き寄せられて、強く強く抱きしめられて。その熱に、枯れたはずの涙がまた溢れた。
 今日ずっとあった壁がなく、今ここにいるのは私が知る、私の半助さんだと心が言う。だから同じ強さで抱き締め返した。
 肩に染みる雫は熱く、縋り付く指先は皮膚を抉る。けれど、それが嬉しい。ここにいる彼は、私だけの、大切な人。
「ずっと私のこと、好きでいて……わ、私は、ずっと利吉くんが好きなのに、君だけ私を好きじゃなくなるなんて、嫌だ」
 子供のような我儘で執着を見せるこの人に、心が満たされていく私は、酷い人間だ。仮面を被るように物分りのいい姿で接していたのに、私のたった一言で崩れて本音を口にして。
 ――ああ、なんて酷い人間なのか。きっと罰が下されるだろう。
 けれどそれでもいい。今だけでなく、未来永劫、この人は私のものだ。私だけのものだ。
「次は性別など関係なく、……好きな人と添い遂げられる世界を望み、そして隣に貴方がいることを望んでも、いいのですか」
「利吉くんの隣は、私だけだろ」
 首筋に当たる爪が私の皮膚を強く抉り、痛みが走る。離さないとでも言うように。
「次は、……同性同士で子が成せる世界になっているといいですね」
 同じように彼の皮膚に爪を立てながらそんな夢物語を口にすると、半助さんが泣きながら笑った。
「そんなファンタジー難しいよ」
「忍者だってこの世界ではファンタジーでしょう。だから、同性で子を成すことが出来る世界だってありますよ」
「……そうか。うん、そうだね。それなら親孝行も出来るなあ」
 彼との子供ならば何人いてもいい。そのために金が必要だというのならば、いくらでも稼ごう。
 命が軽くなくて、手を繋ぐことを隠す必要もなくて、親孝行も出来るそんな理想的な世界。望むことは自由だ。隕石が落ちることを望むよりもよほど健全だろう。
「……明日以降、私は心からの感情を出すことは無くなるでしょう。その一部は貴方に預けてしまっているから」
 腕を動かして、彼の胸に触れる。泣いたためなのか、汗をかいていて体温の高さが感じられるそこ。
「好きにならなければ良かったなんて、――無理だ。私の全てが貴方を求めるのに」
 世界は今日滅びない。
 沈んだ太陽はまた昇ってくる。
 世界は平等で、残酷だ。
「利吉くん。……利吉。私も君が、好きだよ」
 私の心臓を背中側から撫でて、彼が言う。ここには、彼の心が収まっている。一生返さない、そして戻ってこない心の欠片。
 明日になれば仕事が待っている。大人だから泣いてばかりなどいられない。死んでしまうことは簡単だけれど、無責任は自分が許せない。それに一人で先に逝ったところで意味などない。
 だから、この預けられた欠片を胸に明日以降を生きていくのだ。
「……ちゃんと君も結婚して、ご両親に孫を抱かせてあげるんだよ」
 私の首筋に顔を埋めたまま、半助さんがそう囁く。
 私も、この人も。心が欠けたまま、一番ではない女と添い遂げ生きていく。
 それなりに楽しくやれるだろう。
 けれど、満足することはないだろう。
 そうして、泰平の世を生きる一人になる。
「ちゃんと今世で、親孝行ミッションはクリアしておきます。そうしたら、次の世が今と変わらなくとも、今度は二人で生きる選択肢が取れるでしょう」
「ばぁか」
 身体を離してクスクスと笑って。そうしてから二人同時に外に出た。
 海風は冷たくて、火照った身体に心地よい。最後なのだからと手を繋いで柵に近付くと、その先は真っ黒な海が広がっている。大橋と夜景のスポットは、この時間だと少しだけ物悲しい。
 半助さんがポケットから二つの指輪を取り出す。二人で選んで、刻印も入れてもらった。日付は今世で出会った日。前は春だったけれど、今回は夏の終わりだった。
 指を絡めて握りしめて、柵の向こう側に腕を伸ばす。そうして、もう片腕で大切な人を抱きしめた。

 少しだけ高い位置にある濡れた瞳。もう二度と交わることがなくなるであろう、その熱に引き寄せられるように唇を重ねて、ゆっくりと繋いだ掌を解いていった。

 ――二人分の心を殺した水音は、終ぞ、届かなかった。