2025年5月27日
「君が与えてくれたものを、もう何一つ手放したくはないんだ」
「…………何ですって?」
部屋から出ていこうとする彼を引き止め口にした私の一言に対して、怪訝を全面に出した表情と声を出す利吉くんに申し訳なさが浮かぶものの、すでに一度口に出したことは消すことが出来ない。いっそ開き直った気持ちのまま、出席簿の角で自分の肩を叩きながら同じ言葉を口にした。
「利吉くんが私を諦めることを認めない、と、そう――」
「――――!」
「おお、良い殺気だ」
無手の拳が空気を割る音をさせて向かってくる。それを出席簿で弾くと、その向こう側には怒りで表情を無くした青年が立っていた。精神が波立った時ほど冷静になれ、を有言実行しているプロ忍者に笑みを浮かべる。怒りをその場で発露しているところはまだまだ青いのだが、怒る理由も判るため今回そこには言及しない。
「胃痛が頭に回りましたか」
「酷いこと言うなあ」
「どっちが」
「あ、ちょっと」
舌打ちと共に吐き捨て、去っていこうとする利吉くんに近付こうと一歩踏み出すと、殺気を乗せた視線が向けられた。ここまで直情的に彼から殺気を向けられることは初めてのため、少しだけ楽しくなってしまうが、それは表情に出さずに足を動かした。
「近寄らないでください」
「……そんなに怒らなくていいだろ」
怒らせている自覚はあるものの、そこまで怒ることでもないだろうという気持ちだって同時に持っている。繊細な子だよなあと何度も思ったことを、今また考える。私はどちらかと言えば大雑把で、それは細かく考えていたら発狂しかねない過去があるからで、そうならないための防衛反応だろうと自己分析している。すでに遠い昔の幼少期、やってもらうことが当然の生活をしていたから自分で自分の生活を整えるという意識が抜けているだけの可能性もあるし、そもそも生まれつき怠惰で大雑把という可能性も捨てきれないが。……そっちの可能性のほうが高いけれど、そこは横に置いといて。
「怒らせている張本人が言うことではないでしょう。ご自分が何を言っているのか判っていないのならばたちが悪いし、判ってやっているのならば性格が悪い」
「そこまで言わんでも」
「あんたが言わせてんだろうがッ!」
距離を詰められ、襟元を取られて怒鳴られる。
その流れはあまりにも自然で、反応がしばし遅れたのは事実。強くなったなと兄目線になってしまうのは仕方がないだろう。私にとって利吉くんは救いで、大切な弟。彼の明るさや無邪気さに心を乱されることはあるけれど、それは彼に対してだけ起きるものではないのだとすでに学んでいるし、利吉くんとてこちらに思うことが多々あることだって気がついている。
それでも。
それでも、なおと付け足したくなるくらいに、私は彼に執着を持っている。
――それは、彼の執着と違うものだろうけれど。
◆◇◆
好きだと言われた側の反応として反応は人それぞれだが、大きく分けては二つしかない、受け入れる場合と断る場合。利吉くんは前者を望み、私が下した選択は後者だった。
利吉くんの瞳に、言葉の端々に、触れた指先に。熱が籠もっていることは判っていて私は気付かないふりをしたし、彼は気付かれていないふりをし続けた。家族という繋がりはすでに出来ていたのだし、それ以上を望むことは私にとって罪深いことであり、恐怖でもあったから詰めてこない彼にそこは感謝していた。
だというのに、三ヶ月前その均衡を彼は唐突に崩してきた。
心地良い距離感、場所をぐちゃぐちゃにして、新たな関係を構築しようとした。長い時間をかけて築いてきた心地よい場所を、彼の欲のために。それに対して私は全力で拒否した結果が、彼の気持ちを振るという行為だった。
それ自体は後悔していない。
「君だってあんまりにも自分勝手じゃないか」
「それは……」
「こちらには是しか言わせようとせず、それもあの場ですぐに決断しろと迫った君は、性格が悪くないと?」
言葉を返せず、唇を噛む青年を見下ろす。
判ってやっているのならば性格が悪い――それは彼に返っていく言葉だ。因果応報、自業自得で自縄自縛 。更に悪因悪果 も付けておこうか。
けれどそうやって自分勝手に振る舞ってもそれが許されると思っているし、実際許してしまう。互いの言動に苛立って怒りを持って、それでもなお関係を切ろうと思わないくらいに情を持っている相手。利吉くんからだけでなく、私だってそうだ。
追い詰めるように私に迫り、答えを急かした彼を拒絶してから三ヶ月。
それでも利吉くんは学園に足を運んで、お父上の洗濯物を交換しお母上の手紙や小言を届けにきていた。その隙間で私の方を見ないように不自然にならないように自然と、視線をずらしていたことにも気付いていた。話を振れば会話はあるし、利吉くんから会話を促してくるときだってある。……第三者がいる前で、という前提があるものの。だから、違いに気付いているのは当事者の私だけで、他は例えお父上であっても気付いてはいないだろう。そこはさすがと言うべきか、周りに悟らせるほど子供ではないけれど、私に気付かれるくらいに未熟であったと言うべきか。
この三ヶ月、利吉くんは私へ向かう熱を向けなかった。
自分を制御し、ただ家族のように。それが私の望みなのだろうと、……突きつけるように。
……全く、性格が悪いのはどっちだか。
「だから、私は反省し、貴方を諦めました。それがこの数ヶ月の態度として相応しくないというのならば、貴方は私に何を望むんですか」
視線をそらし、唾棄するように言葉を落とす利吉くんの頬を両手で挟む。それでも視線を外そうとする青年の顔を、力を込めて視線を合わせた。
痛みを堪える表情は、しかしすぐに無へと変わる。心を刃の下に押し込める、忍びの基本。何も感じない、何ものにも心を動かさない、喜怒哀楽を消さなければならない場面が多くあるからだ。
そうして自分の心を守る彼に話しかける。
「三ヶ月前のあの日、君は自分勝手だった。だから、今日は私が自分勝手にする」
「謝罪をしたらいいということですか」
「話を飛ばすんじゃない。黙って聞いてろ」
私の言葉に口を噤む利吉くんを見ながら、思うのは三ヶ月前のこと。
「君が私に性愛を感じるという告白をされてから、私は私なりに考えたよ」
何故、居心地のいい関係をわざわざ変えたがったのか、彼は語らなかった。ただ好きだと、私と口付けをして交合うことをしたいのだと距離を詰めてきた。利吉くんに近寄られることはいつものことで、なおかつ殺気がないから反応も遅れて、気が付いた時には唇同士がくっついていた。温かくて柔らかくて、少しだけ震える唇を覚えている。
私は、この子に対してそんな欲を抱いたことなど一度もない。
青天の霹靂というやつで、驚いて待って欲しいと言ったのに、この子は待てないと、むしろ時間を置いたら貴方は私を振るかないものとするでしょうと、押し倒そうとしてきた。
そんなこと許せるはずもなくて、背中が床に着くと同時に足を蹴りあげながら青年の身体を引き寄せ反転。腕を捻りあげて征服した。見下ろした先には絶望と悲しみで傷付いている姿があったけれど、あの時の私にはそれを許してあげる余裕などなかった。
「君は私が考えないって言ったけど、考えたよ。途中で面倒くさくなったし、今までの前提ぶっ壊してきた利吉くんに怒りたくもなったけどさ」
「……別に、もういいでしょう。面倒なら放置したら良かったんだ」
頬を潰して利吉くんの言葉を奪う。黙っていろと視線で制すると、利吉くんは少しだけ唇の隙間から呼気を吐き出し顎から力を抜いた。
「山田先生とここで忍たまたちを育てて、時折君がここに現れて近況報告して、長期休みには三人で氷ノ山に帰って、そこでまたくだらない……数日後には忘れてしまうようなくだらない話で笑いあって、意味もなく力比べして、薪割りどっちが早いか勝負して、風呂の順番で揉めて、お母上に怒られて」
男手が沢山あるうちに色々と済ませてしまいましょうかと、女傑に逆らうことなど出来ない男三人は朝から晩まで働いて。代わりに美味しい彼女の手料理を食べて、酒なんかも呑んで。
「夜は離れで二人布団並べて、月明かりで夜更けまでくだらない話で盛り上がって……そんな思い出、利吉くんだって好んでただろう」
嘘だなどとは言わせない。
「君が言ったんだ。……普段は月明かりなど無くなってしまえばいいと思っているけれど、この時ばかりは……」
――先生の顔が、良く見えますから今だけは感謝してもいいですね。
月相手に上から目線が面白くて、二人でけらけら笑った記憶。
「あの時間を教えてくれたのは君だったのに」
早く寝なさいよと言われたことも忘れて、仕事のことも頭から追い出して。
警戒する必要のない場所で穏やかに過ごす時間の尊さを、最初に教えてくれたのは利吉くんなのに。
何故それを私から奪おうとするのか、と。
「それが嫌だったんだ」
「情を交わしても……それは変わらないでしょ」
「君が言ったんだろ」
言葉を遮り、利吉くんの小袖の襟元を握りしめる。
「家族とは、切っても切れない縁だから……私と君は、もうずっと縁 が繋がれたままだって」
「――――」
「情欲をもった関係はいつか切れるものだから、途切れさせないために人は家族になるんだって……君が、言ったんだ」
幼かった彼が私に教えてくれたことを、今も覚えている。
なにかの受け売りだったのかもしれないけれど、人との縁に薄く、絶望すらも通り過ぎ何も感じずに生きていた私に、彼がくれた確かな繋がり。気持ちひとつだけのことかもしれないけれど、あの頃の私にとっては嬉しいものだったのだ。
それが失くなることが嫌だったのだと気がついたのは、最近のことだ。
最初は私の方も向き合えていなかったから気付かなかったけれど。利吉くんが私を見なくなり、見ても今まであった親したはなく、瞳の奥にあった熱がどこにも見つからない。縁が壊れるというのはこういうことなのだと、実感して浮かんだ気持ちはひとつだった。
「利吉くんが私を思ってくれている熱があった上での、あの時間が失くなるのは、――嫌だ。だから、君が私を諦めることは認められない」
「そんなの」
利吉くんが声を震わせて私の肩を掴む。
合わさった視線には、久しぶりに見る熱が浮かんでいると気が付いた。
「そんなの、私のこと好きじゃないですか」
「嫌いだなんて、今まで一度も言ったことないだろ」
「そうではなくて、……ああくそ、落ち着け」
痛いほどに掴まれている肩は、執着の強さなのだろう。
不変を望み、そこに在ることを望む私だって、大概なものだ。
「つまり、先生は私と共に生きることは嫌ではないんですね?」
「今まであった関係を変えるのは嫌だって話しているのであって、そんなこと一言も言ってない」
「言ってると同義でしょ。私が、先生への思いを持ったままずっと傍にいろってことでしょ。けど、私が抱く欲は必要ないと」
「……そうまとめられたら、そうとも言えるか」
言葉の捕らえ方なのだろうが、どちらも一緒かと投げやりになるのはここ三ヶ月頭の片隅でずっとこのことを考えていて、いい加減疲れたというのと、それぞれ自分勝手に好きに解釈したところで互いに納得がなければ結局は同じことだからだ。
「もうそれでいいよ」
「先生のほうが酷いことを言っているのに、投げやりにならないでくださいよ」
苦笑した利吉くんは、一度瞬きをしたあとに私の肩を掴む指先から力を抜いた。
「ねえ先生。お互いに少しだけ妥協しませんか」
腕を下ろして私の手を握って、外へと誘う。障子を開けた先にある濡れ縁側に腰を下ろし私を見上げる姿は、まるで氷ノ山の彼の実家のようで。距離も、利吉くんの態度もよく知ったものだったから、素直に隣に腰掛けた。
見える風景はあの冬が厳しい山ではなく、学園の敷地。防犯のために植えられた高さの違う木々や塀。その先にあるのは、どこから見ても同じ姿を見せる月。
春と夏の間の過ごしやすい気候の時期。曲者もいない穏やかな夜。それでも、この場所では気を緩めるということは出来ないし、身についている警戒だ。それは隣にいる利吉くんも同じことだろう。氷ノ山と同じようで違う。すぐに動けるように意識の一部は冷静なまま。
それでも、隣に利吉くんがいるからこうしていられるというのも事実。
「先生を思う気持ちを持ったまま、今まで通りでいます。言葉には出さない、関係を変えようとは言いません。家族を望むのならば一生をそうします」
だから、と繋いだままの手を揺らす利吉くんは真剣な声で言う。
「毎回、一度ずつでいいから口付けをさせてください」
「…………」
「父と母は、御存知の通り父が学園に戻るときに必ず口付けしていますから。あれと同じことを。それならば家族の範囲でしょう?」
屁理屈にしか聞こえない要求だ。山田家のご両親は夫婦という関係があるからこその行動だというのに。だが、それだって家族という括りの中なのだから、とも言えるし、確かに妥協なのだろうと納得もしてしまった。
関係を変えたい利吉くんと、変えたくない私と。
関係を変えない代わりに、口付けをひとつだけ。
「……憎たらしいほどに交渉上手になったなあ」
「売れっ子ですから」
しれっと言う利吉くんに思わず笑ってしまって、ああ私はやっぱりこうしてこの子と笑って話していたいんだと思った。表面上の当たり障りない会話のようなものだけをするよりも。苛立って喧嘩をするときもあるだろうし、無視したくなるときだってあるだろうけれど。なんの感触もない会話よりもよほどこちらのほうがいい。
それならば口付けのひとつくらい、まあいいかと思える塩梅で。そう考えてしまった時点で勝敗は決まっているというものだ。
「私は、君が与えてくれたものを、もう何一つ手放したくはないんだ」
利吉くんの瞳から消えた情と熱。それに合わせて消えた会話。壊れたと思った関係。私が自ら手放したのではなく、利吉くんが勝手に壊していったものだけれど。
「だから、それで利吉くんが今まで通りでいてくれるのなら……いいよ」
互いに少しだけ妥協して、関係を続けられるのならば。それがいいと頷いた。