2022年5月24日
復路の間にまたも降り出した雨のせいか冷える車内で、ぼんやりと熱を持つスマホを両手に持ち、ひたすら文章を打っていく。
一分でも早く終わらせたいのは間違いないので、今のうちに報告書の下書きをしていく。
カンニングしているようで少し後ろめたさはあるものの、エリート様製草稿はとても有難い。
それと、報告書とはこう書くのかと知見を得た。これ言ったら隣の元上司から説教が来そうなので、絶対に言わないが。
「あった事見たことをまず不可なく羅列、時系列を整えた上で細かいところを補足していけ。誤字脱字はそもそもそれ以前の問題、てにをはがなんでこうなるもう一度小学校に叩き込むぞ」
耳にタコが出来るくらいに言われた斉藤課長の声が蘇ってきた。言われたところで人には向き不向きというものがあり、矢島は後者だった。出来ないものは出来ないので毎回斉藤課長に赤訂正されていたのだけれど。
「お前、俺の赴任当初の頃は中島に教えて貰ったやり方してただろ」
「は?」
「三ヶ月過ぎた頃に池田に教えて貰った」
「何で……」
運転したまま斉藤が言うその言葉に固まる。その通りだったからだ。
こちらを見ることなく元上司は続けた。
「香川は山本に教えて貰っているよな」
「あいつは新人ん時、山さんに付いてたんで……」
なるほど、と呟いた斉藤は、矢島の顔を横目で見て軽く吹き出す。
「なんだその顔」
「……なんでそんな、細かく判るんスか」
報告書は交番勤務から行うことではあるが、刑事となると最終報告だけでなく途中経過も多く書くことになる。それを教えるのはペアで付く先輩だったり、面倒見の良い先輩だったり。その人の癖に似るのはよくあることではある。ただ、そこから自分の書き方や癖も出てくるので、そっくりそのままになることはほとんど無いはずだ。
「判りやすいんだよお前らは」
鼻で笑う元上司の言葉に何も返せない。頭の良すぎるエリートから見たら自分達など脳筋単細胞の塊だろう。
「何で来なかった」
「……何がですか」
「報告書の書き方教えてほしいと、俺のところに来たらいくらでも教えてやったのに」
まるで拗ねた子供のように言う斉藤に、スマホから顔を上げて横顔を凝視してしまう。バンパーとウィンカーの重ならない二つの音のうち、高い音が消えた後にようやっと矢島は口を開く。視線をスマホに戻して、意味もなくキーボードの上に指を滑らせた。
「誰がいくかよ……パワハラ課長のところに」
実際にそんなことしていたらからかわれて遊ばれて、それでもしっかりと教えて貰えたのだろうことは判るけれども、当時の矢島にその選択肢はないし、正直に言えば今でもない。そこまで完璧な報告書を作るつもりがそもそもないからだ。最低限を満たして上司の判子が貰えればそれでいい。
「久しぶりに課長って言われたな」
「っと、……すんません」
「構わん。お前はプライベートで俺に対して固有名詞を使わないから、公的立場だろうと呼ばれるのは貴重だしな」
「――」
バレてるか。そりゃそうか。
とくに言及されたことがないし、矢島から話を振るようなことでもないからと好きにしていたため、今ここで話題に出されて多少の動揺はある。
関係に名前が付いているのかいないのかも判断を保留にして、しかし流されているわけではなく自らの意思で留まっていると、自覚の上にいるという自分でもどうしたらいいのか判らない状況では斉藤をどのように呼べばいいのか判らず、呼び方すらも判断保留状態だ。
その状況を許されていたというのが判って、自分はこの男にどれだけ甘やかされているのかその一端に触れてまたも何も言えなくなる。
ずっとその繰り返しで、しかし斉藤はそれに対して急かさない。それすらも甘やかしだ。
「全く呼ばれないわけでもないしな」
斉藤の声ががらりと変わって、声に[[rb:喜 > き]]が交じったのを感じ取り。
その声と言われた意味に矢島は逆に腹の奥が冷える感覚が襲った。
「ど、ういう……?」
「ああそうか」
まるで今気付いたとでも言うように、斉藤がわざとらしく声を上げる。
「理性が飛んでいるから覚えていないか」
それは、つまり。
「――――っ、言ってねえ!」
顔に血が集まるのを自覚しながら否定を叫ぶ。そんな矢島に対して斉藤はにやにやと笑うばかりだ。ぶん殴りてえ。
「千載一遇のチャンスだったのに残念だったな矢島」
「何がだよ」
胸ポケットにいれていたスマホをわざとらしく揺らした後、矢島から遠ざけるようにスラックスの右側ポケットに入れ直しながら斉藤は続けた。
「確認しておけば、消せたのに」
先程渡された斉藤の個人端末。その中にあったというもの、[[rb:脂下 > やにさ]]がったとしか言いようのない声と今の話の流れ。そして、脳裏に浮かぶいつかの――、
「渡せ!」
何が入っていたのかなんて思いつかないほど矢島は馬鹿ではなく、咄嗟に叫んだ。
「認めたな」
「あ゛?」
上機嫌となった斉藤は軽やかにハンドルを捌きながら口を開く。
「証拠があると認めるということは、覚えているということだろ?」
赤信号で停まった後、斉藤がサイドブレーキを引いて矢島を引き寄せ耳元で囁いた。
「あの可愛らしい姿を」
その声は矢島の身体の奥を揺さぶる声で。
いつも聞くのは理性が切れる寸前、熱に浮かされているその時の、声。ぞわ、と身体中の毛穴が開く感覚が襲った。
顔だけでなく声もとんでもなく極上の男は、それを武器にして矢島を追い詰めることに対して遠慮しない。
「……っ、」
耳朶を食まれ、歯が軽く立てられる。吐き出される呼気と唾液の温度、それが冷えていく感触。敏感になった肌はそれらを全てダイレクトに矢島に伝えてくるのだからたちが悪い。
しかし時間制限のある信号停止時間。斉藤は矢島の反応を判った上でそれ以上をすることなく、運転に戻る。その余裕の姿に苛立ち、斉藤の左腕に拳をぶつけた。
「言ってねえよ」
「言っていないという証拠を出せるということか? 刑事さん」
覚えているいないではなく言っていないのだと言葉を返すが、斉藤はそんな悪魔の証明を促してくる。
「あんたが持っている証拠とやらが、俺の思うものと同じかどうかの確認含めてまずは見せろ」
「撮られたことは否定しないか」
「てめぇの変態行為に付き合ったことは覚えてるっつの」
もう報告書の下書きどころではないと画面を暗くして、座席により掛かる。思い出してしまったその時のことを頭から追い出すようにため息をひとつ。
ノーマル嗜好の矢島からしたら斉藤の嗜好はアブノーマルに分類されるのだが、これくらいはノーマルだろと一蹴されるようなことも多々されている。縛られたり目隠しされたり剃毛だったり窓際だったり鏡だったり撮られたり。外がないのとコスプレがないのは唯一の救いか。他にも体位や行為様々。
――いやいや、思い出すな。
記憶の蓋が開きそうになり、それを必死に押し留めた。思い出してなるものか。
そんな変態行為を斉藤は喜々として仕掛けてくるし、矢島は拒絶しきれずに流されている。それを同意と取られるのも癪だが本気を出して拒否しているわけでもないわけで。
「お前が覚えているものも残っているだろうな」
「……“も”?」
いつもの待ち合わせ場所のパーキングに車を停めた斉藤は、エンジンを切ってからぽつりとそう呟く。不穏すぎる接続詞に、先程のように腹の奥が冷える感覚が蘇ってきた。
「三十分で戻ってこられるな?」
しかし斉藤はそれに答えず、笑って丸ノ内署を指さした。
「ちょ、おい」
「いい加減腹も減ったしな。ホテルでルームサービス入れて貰うからさっさと行ってこい」
それとも、と男が唇を曲げた。
「一緒に行って隣で手助けしてやろうか。十分で終わらせてやるぞ?」
「いらねーよ!」
本当にやりかねないのでそこはきっぱりと拒絶し、車外に出た。
外の冷たい空気に触れると頭が冷静になる。今しがたの話題について、追及したい気持ちと深掘りしたら薮蛇になる予感とか同時にあり、どうしたものかと頭の中で天秤にかけた。
雨の中、傘も差さずに玄関に向かいつつ転がす思考。
追及したら動画は消せるだろうが、口ぶりから知りたくない事実を現実にされそうだ。それならばこのまま話題を闇に葬ったほうが、矢島の精神的には良いのではなかろうか。
「……」
冷たい空気の中ひとつ頷き決意してから、頭の中を仕事モードへと切り替えた。
●
エリート様の草稿のお陰で三十分掛からずに出来上がったが、それをそのまま持っていったら嫌疑をかけられかねないし、次の報告書が地獄になるため報告書に手間取っているフリをパソコンの前でして時間を潰すこと一時間。
誤魔化しようのないタイムスタンプをそうして捏造した上で印刷する。その頃には交代した説教予定の二人組も戻ってきて、情報共有を兼ねた雑談をした上で上役に報告書を投げて合格を貰い――人生初の一発合格の瞬間である――、外に出た。
まだ降っている雨。待ち合わせ場所に向かえば一本だけ咲く傘。
傘を差してまで煙草を吸う男は、強く一吸いした後携帯灰皿に吸殻を入れてから助手席のドアを開けた。
早かったなという嫌味はスルーし、車の行き先に身を任せ。到着した先は何度か泊まったことのあるシックな外装のホテルだった。ここのルームサービス美味かったよなぁと外観を見上げて思い出す。実際そんな会話をした記憶もあるため、斉藤もそれを覚えていてこのホテルにしたのかもしれない。
チェックインしている間がいつも一番落ち着かない。男二人、手ぶらで。サラリーマンが出張では使わないであろう一泊で万を超えるホテルに自分が身を置いていることの違和感が拭えないからだ。
矢島としては、そこらにあるラブホでも良いくらいなのだが、斉藤は逆にそれが落ち着かないということは、何度か入ってみて理解している。好き嫌いというよりも単純に水が合わない、そんな印象。
それならば斉藤が落ち着く場を選んだ方が良いだろうと、場所決めは任せている。
結果、斉藤の住まうマンションとホテル各所が九割、残り一割の殆どが矢島のマンションで小数点以下でその他という塩梅に落ち着いた。
チェックイン手続きを終えて鍵を受け取った男の後ろについていく。
入ってしまえばさすが高級ホテル。落ち着くのは事実で、教育が行き届いているのか自分達に気になる視線が向けられたことはなく、いつもにこやかに優しく対応されている。自分達が何をしていてどんな関係なのか、確実に知られているだろうに。それが判るからこそ居た堪れない。
中に入って机の上に食事が整っているのを見つけた。寿司とサラダ、味噌汁は湯気が出ていて、恐らくフロントで手続きしている間に用意されたのだろうことが知れた。
「刺身はなかったからそれになったが、許せ」
「別に刺身に拘ってたわけじゃねーよ」
手を洗って靴を脱ぎ捨て、ソファの上に胡座をかいて寿司に手を伸ばした。
最初にマグロの赤身を食べたくなるのは何故だろうか。宝石のようにキラキラと輝く赤身は、スーパーで売っているパック寿司とは値段は雲泥の差であるこの赤身は、筋もなく口の中ですっと溶けていく。美味い。
カンパチ、鯛、鰯。ひょいひょいと口の中に入れて腹を満たしていく。
「ん」
ソファの背後から矢島の背中に乗りかかるように体重をかけながら、こちらのポケットをさぐって矢島のネクタイを引っ張り出した斉藤の口の中に穴子を放り込む。指についたタレをなめてから同じく穴子を食べた。甘辛いタレと柔らかな穴子、少しだけ鼻に抜ける海苔の香り。一貫でも満足が高い。
背後から腕を伸ばして矢島が着ているシャツのボタンを外していく斉藤に身を任せつつ、斉藤が口の中を空にしたタイミングで矢島は寿司を放り込んでいく。
ごくたまに、斉藤はこうして矢島の世話を焼きたがる時がある。
最初は事後、動けない矢島の世話を焼くだけだったのだが、気付けばそれとは無関係の時にも手を出されるようになった。大抵がこちらが動くのを面倒くさがっている時で、確実にそれを見計らって手を出しているようなので好きにさせている。本人は楽しそうだし。
「腕抜くぞ。指を舐めるな」
「へいへい」
両腕を抜かれたシャツが身体から離れたあと、小言を発する口の中にタコを詰め、自分は玉子を食べる。
タコを詰め込まれた美形は顔を顰めながらも咀嚼を始め、矢島のネクタイとシャツをハンガーにかけた。ぽつりと、美味いなと呟いているのが聞こえて楽しくなった。
「なあ、あんたん家って卵焼きしょっぱい派と甘い派どっちだった?」
ソファの前、矢島の近くの床に跪き、靴下を抜き去る男に問えば、しばし思考の間。
「……だし巻き卵だな。甘いのは寿司の玉子で初めて食った記憶がある」
「うちはかーちゃんと俺が甘い派で、とーちゃんと弟がしょっぱい派なんだよ」
「それは家庭内戦争になるんじゃないか」
両方素足になり、ひやりとした空気に晒されて気持ちがいい。ホタテをそれぞれの口の中に入れ、しばし無言の時間。
「弁当ん時には一日置きで甘いのしょっぱいのってなってて、それ以外で食いたい時には自分で作るシステム」
「上手い戦争回避方法だな」
肩を震わせて笑いながらスラックスを矢島から剥ぎ取った男は、それぞれ吊るしたりまとめたりしたあとに手を洗ってから自分の服を寛げながら戻ってきた。隣に座った斉藤の口の中に玉子を入れ、自分は味噌汁を飲む。赤出汁は普段あまり口にしないが、たまに飲むと美味いとは思う。量はいらないけど。
途切れた会話は何となく続かず、無言のまま机の上の食事を片付けていった。
腹がくちくなれば次はとばかりに睡魔が襲ってくる。しかし風呂にも入りたい。
思考するだけで身体は動かず、ソファに背中を預けうとうとし始めると斉藤が近寄り矢島の首筋を舐めた。
「汚えって」
「味見させろ」
伸し掛かってくる重たい身体と変態台詞にげんなりする。さっさと風呂に行っておけば良かった。後悔しても後の祭り。ソファの上に横たわるように押し倒され、身動きが取れない。それでも抵抗をやめずに奥襟を掴んで引っ張った。
「風呂はいった後でもいいだろ」
「もったいない」
何がだよ、と聞いたら今以上に変態台詞が飛び出しそうで聞けやしない。
「わけわかんねぇ……」
シャツの中に入り込んできた指の感触に肌が粟立つ。首筋から耳の後ろ、頬を舐められていく。顔をそむけたところで斉藤の舌からは逃れられない。
「……ん」
掌が肌の上を滑り、腹筋を擽る感触に背中を丸めた。出来た隙間を利用するように両腕が矢島の背中に回り、ぎゅうと強く抱きしめられた。
不埒な雰囲気がない、腕の中に宝物を隠すような雰囲気で。
それが意味するところを矢島は知ったこっちゃないが、邪険にするほどでもないので大人しく腕の中に収まっておく。
会話をすることよりもセックスをすることの方が多かった最初の頃よりは落ち着いた関係になってきたものの、世間一般的な恋人同士という関係よりは触れ合っている時間は長いと思っている。
矢島は元々、歴代彼女相手にでもベタベタとくっ付くような性格でもなかったし、相手もそんな性格の女ばかりだった。
だから斉藤が、触れたいとだけ言いこうしてただ矢島を抱きしめてきた最初は動揺した。
熱に浮かされた斉藤の強引さに流されて訳が判らなくなるそんな時間ではなく、秒針の動く音、エアコンの駆動音、外を走る車の音。斉藤の呼吸音や自分自身の心音――そんな普段は気にしない音たちに意識が向いてしまう静かで穏やかな時間なんて、今迄なかったのだから。
――お前に触れていると安心する。
それは、こうなる前後に言われることだ。こんなごつくて男で美形でもなければ可愛げもない、子供を怖がらせることならば長けているような男のどこに安心を感じるのか、何度言われてもさっぱり判らない。
それでも頼られたり甘えられたりすることに対して、あまり拒絶感はないのも事実で。
そして自分よりもぶ厚いと感じる身体に腕を回すことに慣れてしまったのも、事実で。
この状況を流されていると言い訳して、斉藤に責任を押し付けるほど矢島は薄情ではない。関係性に名前を付けず、けれど拒絶しきってもおらず、受け入れている場所はあれど全てを受け渡しているわけでもない。
考えなければならないことはきっと沢山あって、それらは自分達の周りに積み重なっている。
二人してそこから目を逸らしている事実に、お互い気付いていて言わない。
まだ、もう少しだけ、このままで。
「風呂」
少しの隙間を埋めるように、男の身体を引き寄せて芯から力を抜く。
「行くのめんどくせえから、連れてけ」
煙草の匂いと斉藤自身の体臭。一日働いた男の匂い。風呂に入っていない男のそれなど、本来ならば耐えられないはずなのに、ひとつも嫌でなくて。
それの意味する答えを放り投げて言えば、斉藤は矢島に体重を掛けながら、ワガママだなと笑った。