朝涼

リクエスト品

2022年3月17日

 帰れないほどに忙しいわけではないが、休日出勤をしなくてもいいほどに暇なわけではなく。
 それぞれが起きて寝て、お互いの寝顔を見ることが出来るだけというすれ違いの生活。会話は会社でしているけれど、それはあくまで次長としての会話のみ。
 顔色を見て、ああまたコンビニばかりでしかもまともに寝ていないのだろうなと判るものの、神谷とて似たような生活をしているため苦言も上げられない。

「梶さーん、俺、寝たい……」
「翻訳終わったら寝かせてやる」
「可愛いお姉ちゃんとお酒飲みたい……」
「この修羅場終わったら金出してやるから行って来い」
 会議室に行く途中、前方から歩いてきたM&Aチームの会話は絶対に脳みそ通していない会話だなというものだった。梶の金で解決する労りに、部下たちがやったーと喜んではいるものの、笑顔がなく余裕もなさそうだ。
「梶、四時からのE社の打ち合わせの前にちょっと確認したいことあるんだけど、時間あるか」
 梶がこちらの存在に気付いたところで手を上げて声をかけると、それぞれ足が止まる。一緒に居たこちらの部下は会議室を指差せば意図を察して先に部屋の中に入っていった。
 梶は、短くなった襟足をガリガリとひっかきながら、しばし思考する姿。
「お前このあと会議?」
「昼までな」
「こっちは昼から一度外出る。今やんぞ。……お前ら先戻ってろ」
 そう言うなり腕を掴まれ、神谷が入る予定の会議室の隣へと誘導される。しっかりと部下に戻るように伝えるのは、こういうイレギュラーや突発に慣れている管理者の無意識の行いだ。
 梶の部下とすれ違い、電気の付いていない部屋へと入る。ドアを閉められ、そのまま抱きしめられた。
「ちょ、おい」
「少しだけ」
 ドアの隣の壁に背中を押し付けられて、前方には梶がいて。久方ぶりの体温に抗うことなど出来なくて腕を伸ばして鍵を閉めると、梶も片手を伸ばしていくつか電気だけつけた。そうすれば、外からは打ち合わせをしているように、見える。姑息な偽装だ。
 そう思いながらも高い体温の背中に腕を回して先程梶が触れていた襟足に指を這わせる。梶の肌が粟立っっていくのを指先で感じながら口を開いた。
「E社の担当変わるって聞いたか」
「……お前なぁ」
「先に話して終わらせておけば、キス出来るだろ」
「――」
 お互いの肩に顔を埋めて喋ると熱がこもる。
 その熱さに攫われないようにしながら言えば、しばしの沈黙のあと、梶がため息をついた。
「で、担当がなんだ」
「新担当が送ってきた資料転送しておいたから見ておいてくれ。かなり癖強そうだから」
「どういう方向で」
「自分の希望が当然全部通ると思っている上から目線のお花畑」
 我ながら酷い言い方だとは思うが、実際そうとしか思えない資料だったのだ。
 読んでいて頭が痛くなるレベルのもので、同じものを読んでいたであろうE社担当の部下は頭を抱えていた。死んだ目で返信していたメールは、オブラートが強すぎて相手に伝わらなさそうだなと思っている。そんな相手と本日ご対面、というわけだ。
 そんなことを話せば、梶が明らかに嫌そうな顔をする。神谷としてもまったく同感ではあるが、これも仕事だ。なんとかしなければならない。
 男の背中をぽんぽんと叩いて同じ気持ちであることを伝える。
 部長が出るほどの案件ではないが、下に全部任せられるほど単純でもなかったこの案件に更に面倒がくっついてくるとなると、頭が痛い。
 それでもやらないという選択肢が存在しないところが、中間管理職の辛いところだろう。

 すり、と頬を合わせると、梶の無精髭がちくちくと神谷の肌を刺激する。その感触に目を細めると、梶に顎を掴まれ唇が合わさった。久方ぶりの直接的な熱に、一気に細胞がざわつく。
 お互いの掌がそれぞれ後頭部を掴んで、距離を近くする。
 舌を触れ合わせて吸い、唾液を混ぜ合う。脳の奥がじんと痺れて気持ちがいい。
 腰を梶の身体に擦りつけると微かな悦が生まれて、ああだめだ、止まらなくなってしまう。
「……は、」
 お互いに理性がここまで、と警報を上げて。
 それでも名残惜しくて離れていく唇を追ってしまうのを止められない。

 そんな神谷を見てどう思ったのか。梶が、神谷の襟ぐりを指で開き、顔をそこに埋める。
 じく、と強い痛みを首筋に感じて、何をされたのか察した。
「予約」
 顔を離した梶の言葉を、自分では見えない首筋に指を触れさせながら聞く。熱がそこに一点集中しているかのようで、濡れた感触が消えない。
「帰ってこれるのか」
「帰る」
 そう宣言して、梶の腕の中からそっと開放された。
 まだ仕事が残っている。というよりこれからが本番だ。午前中に受けるのは強すぎる刺激ではあるものの、それはお互い様だろうと、触れていて間の男の身体の熱さを思って深呼吸を落とした。
 明らかにやりすぎで、お互いに辛いこととなっている。最初に仕掛けたのは梶でも、煽ったのは神谷だ。自業自得でしかない。

「じゃあな、梶次長」
「……ああ」
 同じ部屋にいたら駄目だと思い、無理矢理仕事用の顔を作って鍵を開けて外に出る。
 会議まであと五分。ほんの数歩の距離を殊更ゆっくり歩きながら呼吸を整えた。

 首筋の熱を感じながらどれだけ仕事に集中出来るか、忍耐が試されそうだ。
 こちらからも付けてやればよかったと、本気でそう思った。