2022年4月25日
営業部はちょうど大型案件が終わり、定時から一時間ほどの残業で上がったと神谷からメッセージが来ており、梶の方はいつも遅くまでいるのだから、たまには帰ってください今はそんなに忙しくないんだからと部下に追い出された。
時刻は十九時半で、いつもなら今のうちに夕飯を食べるかどうかを考え始めるところだ。ちなみに考えながら仕事をして結局いつもコンビニになるのだが。
太陽は落ちているものの、人通りは多い。会社帰り学校終わり。帰路についたり逆にこれから出勤の者もいるのだろう。そんな人波に乗りながら、神谷のスマホに電話をかけた。
五コールで繋がる電波の向こうも騒がしく、外にいることがすぐに判った。
「お疲れ。どうした?」
「そっちもお疲れ。下のやつらに追い出された」
「はは、何だそれ」
耳に届く柔らかい声に、肩の力を抜く。
仕事は相変わらずだが、殺風景の部屋に帰りたくなくて、わざと帰らないように詰め込んでいた仕事のやり方をやめて、時間を作るようになった。
勿論それは毎回上手くいっているわけではなく、嫌がらせかと言いたくなるほどに忙しかった時期もある。
その時期を越えて、帰る場所を共にして。少しずつお互いの生活のスペースを共有しあって。
喧嘩をして仲直りをして。生活を繰り返している。
「俺もまだ外だし、どこかで落ち合って外で食べてくか?」
神谷の言葉にそれもいいかと思案する。
今日はまだ週半ば。明日も仕事ではあるものの、このまま帰るのも少しだけ勿体ない。
「お前どこにいる?」
「日本橋」
マンションとは別方向に何故いるのかと眉を寄せると、その答えはすぐに電波に乗って返ってきた。
「ほぼ定時上がりで、すぐ帰るの勿体ないなと思ってブラブラしてた」
なるほど、だからの提案だったのかということと、同じ気持ちであったことに少し笑った。
「そっち向かうから詳しい場所送ってくれ」
「ん、わか」
「……神谷?」
ふつ、と。
言葉の途中で唐突に電波の向こう側が静かになる。咄嗟にスマホを見ると、しかしその画面は通話中のままだったのだが、耳に再び当てるより先に、終話となり、待受画面に戻った。
地下に入ったとて一昔前ならまだしも、現代ならば早々途切れないはずだ。
もう一度通話ボタンを押すが、しかし今度はコール音すら鳴らず、画面が強制的に待受画面に戻ってしまった。
時報ダイヤルにかけるときちんと繋がる。つまり、梶のスマホの故障ではない。では神谷側の故障かとも思うが、コール音すら鳴らないなんてことはあるのだろうか。
もう一度通話ボタンを押してもやはり待受画面に戻ってしまう。
「……ちっ」
舌打ちして、取り敢えず日本橋方向へと足を向けた。
●
日本橋と言ってもそれなりに広い。
まずはと日本橋駅の改札近くをざっと見て回ったが、見つかるはずもなく。
スマホは何度目かから待受画面に戻らないがコール音もしないという変な状況に変わった。声をかけても返答はなく、切れば何の問題もなく動作する。メッセージを送っても既読にならない。
どこにいるかも判らない一人の人間を探すにはさすがに広すぎるが、異常事態だということも判るため放置も出来ない。何か手がかりはないものかと足を動かしながら、神谷が見て回りそうな場所を脳内でピックアップする。
外にいるかどうかも判らない。しかし店を一軒ずつ見て回るのは物理的に不可能だ。
路上を虱潰しにして見つからないければ警察だろうか。しかし何と言って? 同僚が電話中唐突に連絡がとれなくなりました、でまともに対応してくれるものなのだろうか。
……先に探すか。
警察は最終手段として、橋を始点にして探そうと、日本橋駅からすぐの石橋へと足を向けた。
小走りよりも早くなり、人並みを縫うように駆けるのは、気が急いているからだ。一度でも連絡が付けばこうはならないのに、そう思いながら何度目か覚えてもない動作を繰り返し通話ボタンを押す。やはり沈黙を続ける機械の向こう側。舌打ちしたところで状況は何も変わらない。
周りを見渡し、橋の麓に意識が引っかかった。
一度は通り過ぎた視線をゆっくりと戻していく。
交番の前に立つ警察官、ヒール音を響かせ歩くOL、雑談しながら歩くリーマン、その、後ろ。
後頭部と少しの耳だけが見えるだけだが、座る姿は探していた人物で。見つけた、と走りより、
「神谷、――っ!?」
と、声をかけると同時に強烈な違和感。
それは、梶の声に反応して顔を上げた人物の顔を見て、違和感は確定され、自分の顔が引き攣るのが判った。
●
顔立ち、雰囲気は梶のよく知る神谷恵一だ。間違いない。
ただ、こちらを見るその表情は怪訝という色をしているのと、何より、服がスーツではなく、
「学ラン……?」
記憶にある神谷よりも幼さを感じる姿。コスプレなどではなく、確実に三十八より若いという姿の神谷がいる。
いや何でだ。意味が判らないのだが、目の前にいる人間はどう見ても現実で頭が混乱する。頭の浮かぶのは荒唐無稽な考え。そんなわけがあるわけない。
現実的に考えると、この人物は梶の探し人ではないということだ。
「あの、……俺に何かご用ですか?」
その声は、梶の知る声で、だからこそ梶の混乱は強まった。
「神谷……?」
「……? すみません、どこかでお会いしたことが?」
神谷であることを否定しない学ランの青年の言葉に、力が抜けて隣に座り込む。若干不審者を見る目で引かれているが、梶としてもどうしたらいいのか判らない。
判らないが、交番に駆け込まれてはたまったものではない。銀行員は信用ひとつで商売している、という神谷の台詞を思い出して口を開いた。
「悪ぃ、……知り合い、だと思って」
「そ、そう、ですか……」
しかし神谷(38)が居らず、代わりに神谷(仮)を見つけるというのは、何なのだろうか。この顔が東京にいくつもあるとか? 実は年の離れた弟がいるとか、……聞いたことがない。
無関係には思えないけれども、かといって現実をそのまま受け入れるには梶は歳をとりすぎている。荒唐無稽すぎて浮かんでいる考えを肯定できないのだ。
戸惑ってはいるものの、逃げる気配がない青年に少しだけ冷静さを取り戻し、改めてその姿を見て無意識に指を伸ばしていた。
「どうした、これ」
「え、」
何があったのかは不明だが、何かがあったという証拠に眉根が寄る。
指の背から手の甲へと動かして触れると微かに熱を持っていて、これが付いてからまださほど時間が経っていないことを物語っていた。
この青年が自分の知る神谷と関係のある青年だとしたら、喧嘩をするような性格ではなさそうなのに。何故こんな怪我を拵えているのだろうか。
思考しながら半ば無意識に頬を撫で続けていたことに気が付いて、慌てて手を離した。いつも何だかんだと触れているせいで、触れていることに何の違和感もなかった。
「悪かった」
嫌がることなく触れられ続けていた青年は、離れた掌を指を絡めてきた。そして、ふわりと笑う。
「貴方の手、冷たくて気持ちよかったので大丈夫です」
そうして、自ら梶の手の甲に頬を触れさせてくるその手管に、苛立ちを感じてしまうのは仕方がないことだろう。
青年の言から彼は梶を知らないわけで。知らない男を誘うことに慣れている、雰囲気。それをこの顔にされるということ。
昔からこういうことをやっていたのだろうと想像させられて、過去はどうしようもないと判ってはいても身体の奥がしんと冷える感覚を覚えてしまう。
そんな梶の葛藤に気付かないのか、青年は梶の手を頬に当てたまま、口を開いた。
「不躾なんですけれど、僕を助けてくれませんか?」
●
「いてっ」
苛立ちのまま、少し強めに指先で青年の額を叩く。驚きに目を見開く姿は自分のよく知る男と同じで、認めたくない現実を脇に置きつつため息をついた。
「そういうことすんな」
「――……」
自暴自棄を感じる空気。
何故そうなっているのかは判らないが、そんなものに支配されるよりは子供らしい今の表情のほうが断然マシだ。
そんなことを思いつつ上着の内ポケットを探り、名刺入れを出してカードを一枚引き出し青年に渡す。万が一でもこのまま警察に行かれては目も当てられない。
「社会的に俺が死ぬようなことしないでくれると助かる」
じっと名刺を見る青年にそう伝えると、視線だけを梶に向けて小さく頷いた。
「俺が言い出したことですし、そんなことしないです」
悪意の有無を問わず、青年にならそれが出来ることをわざわざ指摘しても仕方がないので、その言葉には答えず立ち上がると、名刺を持ったまま青年も立ち上がった。
「梶、さん」
「……」
違和感がものすごい。だが呼び捨てでいいとも言えないので梶が耐えるしかないのだろう。
「俺は、」
「神谷だろ」
「……俺思い出せないんですが、どこかでお会いしてますか」
会ってはいる。ただし、もう少し先の神谷と、だが。
気配や仕草、声もふとした表情も。否定要素はどこにもなく、むしろピースが嵌るようにしっくりとくる目の前にある非現実な存在。
――この非現実受け入れてる俺も大概か。
ため息をついて立ち上がる。
「行くぞ」
言って歩き出せば、慌てた気配が隣に並ぶ。
自分の知る目線より少しだけ低いのは、まだあと少しこの時期に伸びるということなのだろう。
本来ならば決して交わることのない時間が隣にいる不思議。いくら現実は小説より奇なりなんてことわざがあっても、これは非現実すぎるだろうに。ファンタジーの世界だと思いながらも、この非現実の存在を無視することが出来ないのも、梶にとって現実なのだ。
●
歩いても帰れる距離ではあるが、青年の姿からあまり歩かせるのも何かと思い流しのタクシーを拾う。
隣に座る青年は名刺を持ったままぎゅうと鞄を抱いている。それは無意識の防衛反応なのだろう。自分でついていくと決めたとしても、青年にとって梶は初対面の人間だ。怪我がどのようになされたのかは判らないが、負ったばかりなのならば人と接することに過敏になっている可能性もある。
さてどうしようかと思いながら、ワンメーターの距離でタクシーが止まる。金にならない客で申し訳ないと思いつつ料金に上乗せして札を置いていくと、車内から通る礼の声が高くなった。文字通り現金な反応なにより。
キーケースを取り出しエントランスのオートロックを解除する。この鍵の契約者について、居場所は[[rb:杳 > よう]]として知れない。
ただこの非現実を思うに、この神谷と入れ替わるように青年が現れたのだから逆もあり得るだろうと考えている。楽観的かもしれないが、なにせ初めてのことでファンタジーすぎて誰にも相談出来ないし、楽観視していないと立ち止まってしまうのだ。
部屋の中は暗く、明かりを付けても当然誰もいない。朝出てきたままだ。
ため息を飲み込み、所在なさげに入り口に立っている青年を手招きでソファに誘導する。
示した場所に遠慮がちに腰掛ける姿は警戒心が強い猫のようだ。自分で決めたついてきたと言いながらこうした姿を、青年視点で初めての男にそんな姿を晒すというのは、相手が悪い男だったら嗜虐心が刺激されるのではなかろうか。
誘い慣れている姿と付いてきた後の姿のギャップ。本人は普通にしているつもりなのかもしれないが、緊張が外に出ている。
上着を脱いだ後、そんな姿の青年の柔らかな髪をくしゃりとかき混ぜポンとひとつ叩いた。
「……?」
「待ってろ」
寝室のウォークインクローゼットの中から新品の神谷の下着を取り出し、ついでに部屋着の上下手に取る。視線の違和感とプラマイ数センチだ、さほど大きくもないだろう。それを持って途中の脱衣所にそれを置いて風呂の湯を溜めた。
ついでに洗濯機をスタート直前まで準備しておくのは何時ものルーティンだ。
洗面台に寄り掛かり、スマホを取り出す。神谷にかけてもやはりコール音すら鳴らない。暫くそのまま待つが状況は変わらず、諦めて終話。メッセージも相変わらず既読が付いていない。
もしもこのまま、二度と自分の知る神谷が戻ってこなかったら、なんて。想像でも考えたくなくて思考を追い出すように頭を振った。
――大丈夫だと思わないと、身体の奥がシンと冷えて動けなくなる。
青年は、いくら顔や……存在として、どれだけ同じであったとしても、梶と情を交わす本人ではない。代わりになど、なり得ないのだ。
スマホを祈るように額に当ててゆっくりと詰めていた息を吐いた。
祈りの言葉は、見つからない。
●
青年を風呂へと追いやった後にキッチンへと立つ。元々、外で食べようもあの時唐突に決めたことで、食材がないわけではない。
白米は冷凍保存してあるものを解凍、豚の薄切り肉とピーマン、水煮の筍で簡単に青椒肉絲を作り、あとはサラダ。味噌汁は卵と玉ねぎ。簡単で洒落っ気などない。梶の作るものはいつもこんなだ。神谷は横文字付いてそうなものを作るのだが。
食えりゃ何でもいいだろ。そう言って箸を運び笑う神谷は、それでも必ず、美味しい、ご馳走様と伝えてくれる。
食べられないほど不味くはないが、特別に美味いわけでもない梶の料理を、梶自身以外で一番食べているのは間違いなく神谷だ。そんな彼の言葉は簡素だからこそ本音だと判って、美味しいと言われることが幸いなことなのだと知った。
早々に作り終わってしまい手持ち無沙汰になると、結果は同じだと判っていてもつい神谷の番号を呼び出してしまう。……結果は、同じなのだけど。
「神谷、」
通じているのかいないのか。それすらも判らない先に声は、届いているのか判らないけれど。名を呼び、けれどその次に言いたい言葉は思いつかない。祈りか、願いか、はたまた[[rb:希 > のぞ]]みなのか。
沈黙を続ける電波の向こう側に溜息を送り、終話した所で、青年がリビングに戻ってきた。
湯を浴び、先程よりは戻った血色に安堵し、手招きをした後にソファを指し示せば、素直に近寄ってくる。
二人分の夕食をローテーブルに並べた後に、薄く青紫色になりかけている頬を見た。
「他の怪我は」
「ないです」
「じゃあ服めくっても問題ないな」
「……」
ぐうと黙る青年に、梶の知る男ほど嘘をつきなれていない青さを感じ取る。
「腹庇ってんのは見てりゃ判る」
「……一番痛いのは頬で、他は、さほど」
しどろもどろで視線をうろつかせる青年を横目にキッチンに戻り、冷蔵庫から湿布を取り出した。大きな一枚を鋏で半分にした後、冷たいそれを青年の頬に貼り付けた。
「……!」
「続きは飯食った後」
冷たさに毛を逆立てるような反応をする青年にそう告げて箸を取ると、同じように箸を取る。気にせず食べ始めると、正面から小さく、いただきます、と声が聞こえた。
箸と食器がぶつかる高い音や衣擦れ音ばかりで沈黙が続く部屋。テレビを付けておけば良かっただろうかとも思ったが、音が上滑りしそうな雰囲気しかないので、付けなくて正解だろう。
元々口数の多い方ではない梶と、風呂に入って少し気配が緩んだとは緊張を残す青年の間に会話はなく、夕飯は沈黙のままに終わった。
片付けを願い出る青年をその場に押し留め洗い物をこなしてからリビングに戻る。
梶の一挙手一投足を目線で追う青年の前、床に座り込むと、上から視線が落ちてきた。
「見せられるか」
「……、見ても、気分のいいものでは」
服の裾を握る青年は小さく首を振った後に理由を続ける。その声を聞きながら腕をのばし服の裾を握る白い指に触れた。
少しだけこちら側に布を引くと、大人しく指から力が抜ける。怖がらせぬようにその指を優しく叩いてからそっと布を捲り肌を露出させたが、視界に入ったその肌の状態に眉根が寄った。
打撲傷だけでなく、噛み跡や爪で強く抉られ赤く腫れてまだ戻っていない場所もある。
「……吐き気はねえか」
「えっ、……大丈夫です」
何、をされたのかはこれを見たら判るというもので。
しかし、どこにどんな感情を置けばいいのか判らなくて、無言のまま明らかな傷に消毒液を染み込ませた脱脂綿を当てていくことで思考を横に置く。
「痛かったろ」
「……」
身体の前面、脇腹。身体を返して背中まで。青年の身体を誘導しながら見ていく。服に隠れるところにだけ付いているのが憎らしい。唯一見えるのは頬への一発のみだ。
指で触れると熱を持っている。鈍痛があるはずなのに、さほど痛くないと先程青年は虚勢を張っていた。助けてと言い、助けられたのだから遠慮などしなければ良いと言うのに。
「ぅ……あ、の」
小さく震える声に顔を上げると、目元を染めた青年がいて。何故そんな反応をされるのか判らないが、痛くないのならば良いだろう。
そう結論付けながらスウェットのズボンに指をかけると、青年が抵抗を強くした。
「そっちは大丈夫なので!」
「今更隠してどうすんだ」
「本当に大丈夫ですから!」
今までにない抵抗に、そこまで嫌がるのを暴いても仕方がないと梶が引く。そうするとほっと青年が息を吐いた。
そこまで嫌がることだろうか。思春期だからか、と遠い過去を思い浮かべようとするが、何分遠すぎて思い出せない。ついでにあまり思い出したくもないので考えることをやめ、空気を変えるために口を開いた。
「もうないか」
「大丈夫です……」
空気が重い、というか固い。時折、薄氷を踏むような空気になるのは確実に梶のせいだ。
口下手もここまで来ると不器用というレベルで片付けていいものではないだろう。
仕事ならば折衷を上手く取ったり調整を重ねられるというのに、そうでない場所ではその勘がどうにも働かない。
「……[[rb:悪 > わり]]ぃな」
「……え? うわっ」
ぐしゃぐしゃとまだ水分の残る髪の毛を混ぜる。その手触りはよく知ったもので、ああ、触れたいなと思った。
梶も神谷も、例えばある日突然どちらかの命が失われても、一人で生きていけるくらいには大人だ。心の一箇所は喪失するかもしれないけれど、物語のように後を追うなんてことはしない。責任ある地位にいて、それを投げ出すような無責任は出来ない。
朝起きて仕事をして帰ってきて寝て。癒されない喪失を抱えて、恋人を新たに作るかどうかは判らないけれど、自分の命が無くなるその時までを一日ずつ生きるだろう。
だからこそ、生きている間に――共に並ぶ今のうちに触れ合うのだ。
その日常を理不尽に奪われることへの恐怖と怒りは、宙ぶらりんのままだ。神谷は生きているのか死んでいるのは判らなくて、代わりとばかりに梶の目の前には青年がいる。
青年に触れられるからこそ、思うのだ。
この彼は、梶の想い人ではないのだ、と。欲を覚えるような、熱に浮かされるような、心動かされる存在ではないのだと。
未確定の存在として据えられている青年としては色々と理不尽だろうから、あまり気負わずに過ごしてほしいのだが、中々に上手くいかない。故の謝罪。
「あの、梶さん」
青年の髪を掻き混ぜるだけ混ぜて恥ずかしさからか顔を赤くしている青年から離れ、怪我をしているし、コーヒーより紅茶のほうがいいかと、アイスティーを入れて戻ってきた梶に声がかかる。
「何だ」
「……恋人がいるのに、俺を連れ込んでいいんですか」
「あ?」
隣に座った梶の方を見て、青年が口を開く。
「俺はそういうつもりで言って、梶さんもそれに了承したのだと思っていたのに、連れてこられた場所は明らかに自宅だし、どう見てももう一人分の気配があるので」
「……」
最初から行き違いが起きているが、折角開いた口を閉ざさせることはないと先を促すと、青年はきょろ、と部屋の中を見て、風呂場の方へと視線を固定させた。
「恋人、……男ですよね」
「ああ」
お前と同じ面の皮してるな。とは、流石に言わない。
青年は、梶の言葉に目線を逸したまま早口で続けた。
「ノンケじゃないだろうなと思って誘ったらこんな状況だし、飯は美味しかったし風呂は有難かったけど、実際手を出されないのに怪我見るために脱がされそうになるし……」
最後は殆ど独り言のように吐き出された言葉に、さてどうしようかと思う。
「お前に手は出さねえよ。そんなつもりで助けたわけじゃねえ」
「……」
じっとこちらを探る表情を出す青年に何と返したものだろうか。
不可思議で非現実的な存在である青年にどこまで言ってもいいものなのか。
既に“この場所と時間”に存在しているのだから、気にする事はないのかもしれないが、何となく言ったら駄目な気もする。……これは、世に存在する物語の知識に引っ張られているだけだろうか。
「どこまで勘付いてる」
梶が一人で考えたところで答えなど見えないので、ボーダーラインを探るために当事者本人へとそう問いかけた。