2022年4月25日
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どこかに行きたいと、願った。
制服のまま夜遅くまで出歩くと、日本の警察は見逃してくれない。なるべく見つからないように移動しても、不規則に巡回されて運悪く遭遇してしまうこともある。勿論その場合、帰りますと素直に言えば、何事もなく開放されるのだけど。
掲示板を通じて人を選んで、一晩を共にする。
それが悪い事だと判っているけれど、どうしても耐えられない夜というものがある。
こういう時、たった一人の特定の相手がいたら楽なのにと考えるが、欲が向かう先が同性だと自覚した後も、しかし同性に対して恋愛感情を抱いたことがなかった。
告白されたことはあるし、そこから所謂お付き合いという関係を結んで、初めて男に抱かれて。ではその相手に恋愛感情を抱いていたかというと、否となる。触られて気持ちよかったし、好意を向けられることは嬉しかったが、相手と同じ気持ちではなかった。
セックス出来るということは嫌悪感はないということで。自分が気付いていないだけで、ちゃんと恋愛感情を持っているのかもしれないと思いながら何人かと関係を結んだが、身体の欲求は満たせても、頭は常に冷静だった。
五回やって感情が動かなかったら切る。
そんな自分ルールを課して、相手を取っかえ引っ変えした罰が下ったのか。
別れを告げた直後に暴行を受けた。
左頬に一発入れられて、衝撃と驚きで身体が固まったところに腹に蹴りを入れられて。服で隠れる場所を中心に殴られ蹴られ、最後には無理矢理犯されて。
失敗したなと思いながら、終わりを待っていた。
殺されるのは勘弁したいので、途中からはこちらから誘って油断させ。相手が寝たところで携帯からメールログを削除。時間稼ぎにしかならないが自分のメールアドレスを拒否リストに入れて、自分のいた痕跡を極力消してからホテルを出た。勿論自分からも相手を拒否リストに入れておく。電話番号は教えないという自衛をしていて本当に良かった。
全身が痛くて、惨めで。
もっと生きるのに辛くなくて、ごく普通にまるでドラマや漫画のように愛し愛される、そんな恋愛が出来る、夢のようなどこか別の場所へ行きたいと願いながら歩きながら携帯を弄っていたら、突然目の前が真っ暗闇になり、バツン、と何かが切り替わるような音が脳裏に響いた。
「……?」
何だと顔を上げて周りを見て、そして違和を感じ取った。
何かがおかしいのに、どこがおかしいか判らない。けれど、明確に違和感がある。
「っそ、いってぇ」
しかしその違和感を突き詰めるための集中力が続かない。
少し休もうと、人の流れの邪魔にならない場所へと移動するために足を動かして、気がついた。
「……何で」
自分はつい今しがたまで新宿にいたはずだ。
だというのに目の前にあるのは、数年前に重要文化財指定となった橋。真上を走る首都高速道路のせいで閉じた感覚を覚える場所。
新宿から日本橋まで歩いた? そんな訳はない。けれど現実は目の前にある。
そして不思議なことに、全体的に街が明るい。目がチカチカする。
……一度落ち着こう。
身体の痛みもあって、脳みそがぼんやりしている。まとまらない思考のまま動くのは危険と判断して、橋のふもとにある交番と元銀行の建物近くの階段に座り込んだ。ここなら、何かあれば交番に駆け込めるという安心感がある。
地面と接した尻が冷たさを身体の内側に伝えてくるが、それが今の自分には有り難い。
全身が熱を持っていて気持ち悪い。シャワーも浴びれなかったからベタベタするし、男の体液も残っている。最悪だ。
「風呂入りたい……」
呟いて鞄を抱え込む。
意味の判らない場所移動も、変に明るい夜の街も、この痛みも不快感も、全部夢ならばいいのに。
夢でないのなら、優しい誰かが助けてくれたらいいのに。ヒーローみたいに現れて、痛いことをひとつもしない、優しさだけで包み込んで癒やしてくれる、そんなヒーロー。
「そんなのいないけど」
小学生の頃ならまだしも、あと少しで高校を卒業するような年齢の自分が夢見るには幼すぎる願望に自分自身で苦笑する。自分でなんとかするしかないのだけれども、もう少しだけ休みたいと目を瞑った直後、
「神谷、――っ!?」
知らぬ声に顔を上げれば、見知らぬ人物が息を切らせてこちらを見下ろしていた。
○
探し人と間違えたと言いながらしゃがみこむ男は、呼吸を整えるように大きく息を吐いたあと、顔を上げた。
視線を合わせながら脳内を探っても、確実にこの男は初対面。実はウン年前にすれ違っていましたというレベルなら覚えていないが、一度でも対面していたり会話していたら覚えているはずだ。人の顔を覚えるのは得意な方だから。
記憶に引っかからないということは、そうではない。
では、何故自分に話しかけてきたのかが判らないのだが、知り合いという人にそんなに似ていたのだろうか。そして、人違いだとしたら何故すぐに去らないのか。意味が判らない。
新手のナンパだろうかと思いながら、数メートル先の交番までの距離を測る。
お互いに座っているから、思い切り突き飛ばしてから走れば追いつかれるより先に交番に辿り着くし、何ならここから大声を上げても届くだろ。
男も交番の存在に気付いているはずなので、そんなところで判りやすく未成年に何かするとは思えない。見掛けで言えばそこまで馬鹿そうではないので、突然豹変しない限りはこちらの安全度の方が高い。そう思えば落ち着ける。
しかし、男の真意が判らない故にどうしようかと思っていたら、唐突に頬を撫でられた。
汗で冷えたであろう表面と、その奥にある体温が混ざって、冷たいのに温かいという不思議な温度を伝えてきた。
殴られた頬を撫でられる。痛みを気遣うその指があまりにも優しくて避けることも拒むことも出来ない。
それと同時に、この人は同性の肌に触れることに慣れている、と気が付いた。ただ触れるというだけでなく、明確な意思を持って触れることに。
……試してみるか。
謝罪とともに離れた掌を捕まえ、もう一度自分の頬に付ける。すでに冷たさはなく、男本来の体温しか感じないけれども、それは温かくて心地好い。
「貴方の手、冷たくて気持ちよかったので大丈夫です」
言葉への反応は眉をしかめるもので、けれど掌は離れていかない。不快なら離れるだろう。そうでないのなら何故その表情になるのだろうか。
怒っているようにも見えるが、その怒りはこちらに向いていない。なんとも不思議。
しかし、上手く誘導すれば風呂に入れるかもしれない。
やられたらやられた時だが、草臥れた姿に見えるが嫌いなタイプではないし、やれないこともないだろうと結論付けて、男を誘うために唇を湿らせた。
吉と出るか凶と出るか。
二連続の凶は引きたくないなと思いながら、口を開いた。
●
そうして連れてこられた場所はホテルではなくて明らかにこの男の住まうマンション。しかもかなり高給取りであろうことが判る立地と部屋の広さ。自分の家も裕福な部類ではあるものの、自分のホームではない場所で高レベルの場所に来ると、さすがに気後れするというものだ。
名刺を渡してきて、家に連れ込んで。何というか、定石が通じていない感覚がある。
神谷もまだそこまで深く知っているわけではないものの、ゲイコミュニティにいると相手の素性を探らず、一夜限りのお相手というやり方が罷り通るのだ。
神谷への触れ方からして、男へ触れる事への嫌悪を感じなかったから誘ったのに、その後の反応や対応が予想外れすぎて戸惑っている。
気安さと子ども扱いが同時に存在していて、そこに性的な動きは見つからない。自分の誘いを理解していなかったのだろうかとも思ったが、デコピンされたときの言葉から判っていたはずだ。
連れてこられたマンションは明らかに一人暮らしではなかった。そして、それを隠そうともしていない。
神谷のことを明らかに知っているという態度。見える気遣いは居心地が良いものの、本意が見えなくて不気味でもある。
何なのだろうかと、一人残されたリビングで思考する時に目に入った新聞。その、日付。
自分の持つ携帯が表示する日付とまったく違う。流石に思考が真っ白になり暫く固まった。遠くに風呂に湯を溜める音が響いていて、それがシュールで。きちんと自分の身体は動いて呼吸も問題なくて、生きている実感がある。明晰夢とするには明らかに“現実”すぎるのだ。だというのに非現実感が強いという矛盾が気持ち悪い。
混乱している間に風呂場へと追いやられて、湯船に浸かると自然と緊張がとけてしまう自分の図太さに笑った。二次元のようなことが自分の身に起きているということ、意味が判らないままにそうなのだと受け入れてしまったほうがいっそ落ち着くというものだ。少なくとも、すぐに死ぬような状況ではなさそうだし。それこそ漫画のように異世界に飛ばされましたではないのだし。
そうして現状を受け入れると余裕が出てくるわけで。
身体を中まで洗ってさっぱりすると、それだけで更に楽になる。
湯船に浸かりながら風呂場を見渡すと、シャンプーやボディソープと一緒に置いてあるボディタオルが二枚だったり、脱衣所の洗面台には歯ブラシが二本。極めつけに髭剃り用のシェーピングクリームとカミソリが二種類。
「……変な人」
つまり梶と名乗った大人は男と一緒に暮らしているということで。
年齢が若いのならばルームシェアなんてこともあるかもしれないが、明らかに三十代、もしかしたら四十が近い状況でそれは考えにくい。一時の間借りという感じもしない。
しかしだとしたら定石が通じていないのは何故なのだろうか。噛み合わない感じが気持ち悪いなと思いながら着替えを身につける。
湯に入って自分の身体の酷さが目に入ったけれども、自業自得なところもあるので諦めた。
脱衣所から廊下を歩きリビングへと戻ると、神谷が入りやすくためにか微かに開けられた扉がある。そっと顔を覗かせると、キッチンにいた梶の呟く声をきく。
――神谷、と。
それが自分を呼んだわけではないのだと、気が付かないわけがない。
最初から梶は、神谷が知り合いに似ていたと言っていた。助けてと言った自分を警察に預けずにここまで連れてきた理由。この部屋にあるもう一つの存在の気配。思いつく一番簡単にたどり着く答えは単純だ。
息を呑む。顔が赤くなっている気がして、少し落ち着こうと脱衣所に戻ったが、先程まではただ納得で見ていた並んだ歯ブラシが急に生々しく感じて、そこにも居られなくて取って返すように結局リビングに入った。
●
仔細は語らずに必要な場所だけを語りながら、神谷は横目で隣の存在を見る。
目の下にくまがあって、眉間に皺が寄っていて怖い雰囲気があるのに神谷に触れる指は優しくて怖くない。年齢差がどれだけあるのかは判らないけれども、大人になった自分の隣にこの人が、恋人として隣りにいる。
その事実に泣きたくなる。羨ましくて、同時に嬉しくて。
「どうした」
黙ってしまった神谷を心配するように、梶によって前髪を掻き上げるように梳かれ、顔を覗かれて唇を噛む。
願ったこと、羨望した存在が目の前にあって、けれどこの人にとって神谷は恋人ではないのだ。
「羨ま、しくて……」
手は出さないと言われてたから、梶は神谷をそういう意図でここに連れてきたわけではなく、未来の自分の代わりに今の自分がここにいるわけではないようで。
「貴方の隣にいる、……俺が、羨ましい」
「――」
触れても許されるだろうか。
許してほしいと勝手に願いながら、腕を伸ばして男の身体に抱きつく。
筋肉質でがっしりとしていて、温かい。この体温を手に入れることが出来るのは、何時になるのだろう。
「欲しいと思って、けど見つからないのはまだ会ってないからですか」
抱きしめ返されることのない背中が寒い。
人を好きになることが出来ないのかもしれないという恐怖と諦め。欲だけ満たされても心は満たされない虚しさ。自覚してからたった数年で達観して、諦めかけていた。
雑に見つけた相手に暴行を受けて、どこかに行きたいと願って。
正義のヒーローみたいに助けてくれる、優しい人の存在を願って。
「そうだな。いつか、な」
耳に触れる吐息を擽ったく思いながら、抱きつく腕に力を込める。いつなのかと具体的に教えてくれないことに不満はあるけれど、その不満を理由に今抱きつくことが出来るのだと思おう。
「しかし、よくこんな非現実なこと受け入れたな」
「意味は判らないけど死ぬわけじゃなさそうだからいいかと」
「……若さか」
何がだ、とは突っ込まなかった。神谷に抱きつかれたまま梶が身体から力を抜く。それに合わせて更に[[rb:躙 > にじ]]り寄って太腿の上に乗った。
「おい」
眉間に寄る皺を見下ろす。今の自分なら選ばない系統の男ではあるものの、有りか無しかで言えば有りだろう。未来の自分は、この人のどこが好きになったのだろうか聞いてみたい。この短期間で神谷が感じた想いと同じことを、思ったのだろうか。
「羨ましい」
もう一度今度は正面から抱きつく。
馴染む体温にとろりと眠気が湧き上がってくるのは、この人に心を許している証拠なのだろう。いつもは他人とベッドを共にしてもなかなか眠気が訪れなくて、例え寝付いても相手の[[rb:身動 > みじろ]]ぎひとつで起きてしまうのに。
神谷にとって初めて会った人間。けれど、未来での恋人。
……羨ましいという感情がずっと消えない。今の自分が持っていないものを持っている未来の自分。いつかではなく今欲しいと思ってしまう子供のような我儘な感情。
「もし、このまま、」
このままだったら、梶は自分を恋人としてくれるだろうか。
そう問いかけようとして、それはあんまりな言葉なのだと気がついて唇を噛んだ。いくらなんでも言ってはいけないことだ。
神谷が飲み込んだ言葉は梶に通じてしまったようで、腕の中にある気配が強くなる。
「キスしていい?」
梶からの否定を聞きたくなくて、気配が動くより先にそう口にして、身体を離して唇を触れさせた。
驚く瞳を眼前に三秒。
未来よりも先に、一度だけ。
羨ましいという気持ちも、いつかへの希望も、その三秒に閉じ込めた。
ゆっくりと離すと、それでも梶は怒っているようには見えなくてそれにほっとしながら目を細めて笑った。
「お守りってことで、許してください」
「……何に対してだ」
拒否されないのを良いことに抱きつくのは卑怯かもしれないけれど、ここまでは少なくとも許されている。
瞼を閉ざして眠気に身を任せる。
「……俺が、梶さんに会うまでの間の」
そう呟いて、意識を遠ざけていった。
起きた時どこにいるか判らないけれど、きっともうどこかへ行きたいとは思わないだろうとそう確信しながら。