朝涼

2022年4月19日

 三月の年度末から四月の年度始めはどうあっても忙しい。それでも残業を減らせだの定時で帰れだのと言われるのだから、たまったものではない。
 連日の残業とならぬように若手を順番に定時で帰らせたり残業を頼んだりと調整をしながらも、長谷川自身は毎日針がてっぺんを簡単に回る仕事量。
 それに付き合うことになるのは、新人から二皮三皮剥けた若手の中では勤続年数を重ねている三十代前半の社員達だ。付き合わせて悪いなと長谷川が言えば、皆笑顔で何ともないと言ってくれるのだから有難い。彼らも早目に帰してやりたいという申し訳ない気持ちはあるのだが、仕事量がそれを許してくれない。

「とはいえ、すれ違う新入社員達との差が辛くなるよな」
 それぞれ手を動かしながらの雑談は、夜で人が少なく、電話のコール音もしないから出来ることだ。
「キラキラしてますよねー、新入社員」
「その目が段々と死んでいくのも毎年のこと」
「盆明け何人跳ぶかな」
「不吉な会話はやめなさい」
 それぞれ仕事をしながら背中合わせで行われる会話に、思わずツッコミを入れる。
 残業時間はどうしても気が緩むものではあるが、だからと言って何でも言っていいわけではない。
 ごめんなさーいと謝る若手たちの軽さにため息をつくが、こうした口が聞けるくらいにはストレスが溜まっていないという証拠でもある。
「ゴールデンウィーク明けたら毎年恒例の時期ですね」
 片桐の言葉に、ああ、とメンバーが顔を上げる。
「懐かしいだろ」
「今でもやってるんで仕事内容自体に懐かしさはないですよ」
 OJTを四月いっぱい行い、ゴールデンウィーク明けからの実践的研修として、営業は一つの取引を一人で完結させることになっている。
 毎月定期的に行われる、利益は低いがルーティンのようになっている取引を新人と監督する管理者のチームを作って最初から最後までを行う。
 チームとはいっても、一人一人持っている案件が違うからそっくりそのまま真似は出来ず、自分で考える必要がどこかで出てくる。けれど、協力しあえば判らないところを補える、そんな案件への協力は、長年の付き合いで協力してくれる企業がいくつかあり、そこに依頼している。
 新人研修の一つではあるものの、生きた取引だ。きちんと完遂させなければならない、というプレッシャーと新人が初めて向き合う場所だ。
「あーけど、緊張したのは覚えてるなぁ」
「俺の時、長谷川さんがアシスタントで入ってませんでした?」
「ああ、そういえばそうか」
 今年で六年目の片桐と同期の男である樋口にそう問われ、そういえばそうだったなぁと思い出した。
 二チームに分かれての研修だったのだが、その年に無駄に顔の良い、のちに王子と呼ばれる片桐がいたことも覚えている。
「となると、長谷川さんが三十一の頃? 片桐、そろそろ俺らもアシスタント呼ばれるかもな」
「まだ早いだろ」
 同期の言葉にパソコンから視線を逸らすことなく言い切る片桐は、その直後に、あ、と声を上げた。
「長谷川さん、M&Aから訂正資料届きましたよ」
「ん、サンキュ。片桐からお礼のメール送っておいてくれ」
「はい」
 メーラーの送受信ボタンを押せば確かにメールが一通届く。ファイルをダウンロードしながら、ぐうと伸びた。
「あっちも残業中か」
「こっちもP担も毎日定時出来るほど暇じゃないですもんね」
 残業を減らせと言うのは簡単、実行は難しい。かといって何もしなければそれもそれで上から言われるだけ。面倒なことこの上ない。
「それでも一時間でも早く終わる努力をするか。目標二十二時」
「はーい」
 緩く、けれどしっかりと返事をする三十代メンバーに長谷川は頬を弛めて、有言実行のためにパソコンに再度向き合った。

     ●

 そんな会話をした一週間後。
 何故打ち合わせが午前零時に入っているのだろうかと思いながら、ノートパソコン片手に会議室へと向かう。
 シニアマネージャーである上野と、長谷川の同期で現在は二部のマネージャーをしている森、三人のみの打ち合わせというのはなかなか珍しい。面倒なことにならないといいけれど、そう思いながら会議室の扉をノックして開ける。まだ中には誰も居なかったが、そのタイミングで少し離れた廊下から長谷川を呼ぶ声がした。
「お疲れ」
「森もお疲れ」
 くたびれた様子の同期をお互いに労りつつ、会議室へと入った。この時間の打ち合わせは珍しいが無いわけでもなく、慣れてはいるものの疲れているのも事実。上席が来る前の二人の脳内は全く同じだろうことは、その顔を見れば判る。面倒じゃありませんように。
 何度も思うのは、この時間の打ち合わせで良いことなど今まで一度もなかったからだ。
 全く同じことを森も考えていることが判る表情。お互いに顔を合わせて緩く息を吐いた。

「遅くなって悪い悪い」
 それから五分も経たずに上野が入ってきた。
 長谷川と森の前に座り、
「はい、お前らじゃーんけーんぽん」
「へっ?」
 唐突に上野が掛け声とともにリズミカルに拳を振るものだから、反射的に指を出した。上野がぐー、長谷川がぱー、森がちょき。
「うん、よし」
「え?」
 全く意味が判らないし、じゃんけんとしてはあいこのはずなのだが、上野はそれ以上続けずに資料を机の上に滑らせる。何なのか判らないまま長谷川と森は渡された資料に目を落として、それぞれ息を呑んだ。
 それはちょうど一週間前に話した新入社員の研修の一環である初取引のチーム分けとそれに付随するスケジュールだった。
「今年はお前らにそれぞれPMをやってもらう。両チームのまとめとしては俺がいるけど、基本はお前らがそれぞれ完結させること」
 ロジックツリーの一番上に上野の名前、その下に長谷川と森、その下に二つの空欄があり、最後に合計二十人の新入社員の名前。それぞれ十人ずつを受け持つようになっている。
 初めて見る新入社員の名前。彼らのほとんどは一年以内に消えていく。激務でプライベートがうまく持てないということと、業務内容がきちんと理解出来ないという理由で。給料の高さだけに惹かれて長く出来るほど簡単な仕事ではない。
 過去、SAとして手伝った時のことを思い出す。何も知らない新入社員を実質的に二人で監督しなければならなかったあの惨劇、違う。悲劇、そうじゃない、……苦労、そう苦労した。それを、今度はPMとしてまとめて取引を完結させなければならないのかと思うと、プレッシャーしかない。
 全新入社員が全員一斉に取引出来るわけではないため、ほぼ一ヶ月これにかかりきりになる。
 資料作りから初めて審査を通った順に取引をひっきりなしに行う。やることはいつも通りだし新人時代からルーティンで行っていることではあるものの、新人に任せるというのはかなり精神を擦り切らせる。
「で、だ」
 長年この業界で生き残ってきている歴戦の営業マンは、見かけだけならば人当たりのいい笑顔を部下二人に向けた。
「SA一人ずつ順番に選んで良いぞ」
 それは、つまり。
「さっきのじゃんけん」
「俺に勝ったから長谷川が先」
 ということだ。速攻でさきほどの奇行の理由が判ったのはいいことではある、がそんな決め方でいいのだろうかという疑問が残る。自分の時もそうやって決められたのだろうか。……決められていそうだ。
「頼む長谷川、俺は少しでも楽がしたい……」
 悲痛な声が隣から聞こえるが、視線を合わせられない。
 SA達の中で誰が一番優秀かなど、言わずもがな、である。上野も含めて、今同じ人物の顔が三人の脳裏に浮かんでいることだろう。
「悪い森、それは俺も同じだ」
「長谷川ぁ……」
「片桐をお願いします」
 横を見ることなく上野に宣言すれば、隣が打ちひしがれる。
 片桐以外にも勿論優秀なSA達はいるが、頭一つ分飛び抜けている処理能力と仕事の正確さは、一度でも部下として片桐を使ったことがあれば手放せなくなるというものだ。実際、三浦が海外から東京へやってきて早々、片桐との仕事が減って苦労したこともあった。
 それほどまでに、片桐の仕事ぶりはすごい。
 早くて正確。けど四角四面でない柔軟さがある。
「では僕は、石川を」
 森は片桐の二つ上のSAの名を挙げ、資料の空いている空欄にそれぞれの名前を書き込めば、ツリーの完成。
 それを見て、久しぶりに片桐との仕事になるのかと気がついた。
 SAとして後輩を育てつつ、上からの無理難題にも応え仕事を捌く片桐は、少しずつ責任の比重が増えてきている。まだ少し先だろうが、このまま問題なくいけば最短昇格となるだろう。
 ……ほんと、仕事だけは真面目にやるよな。
 それが長谷川の影響であるということが誇らしくもこそばゆい。
 頬の裏側を噛んで口元が緩みそうになるのを阻止していると、上野が内線を使って片桐と石川を呼び出し始めた。このまま打ち合わせに入るということなのだろうと、気を引き締めた。