「昔、妹に遊ばれたことがある」
爪を切る梶の隣で、雑誌から目を離さずに口を開いた。無料冊子にある広告は多岐にわたり、クーポンのついた食べ物屋やサービス店のもの、病院や塾などの広告もある。その中の一つ、女性のすらりとした手指とその飾られた爪先を見ていたら、隣から来る音に呼応して過去を思い出したのだ。
「高校に入ると、女子って着飾るようになるだろ。ちょうど爪切ろうとしてたら」
お兄ちゃんやらせて、と。
言われると同時に爪切りを取り上げられ、部屋に連れ込まれた。
基本妹に無抵抗になってしまうのは昔からで、妹もそれが判っているからかこちらを害することがない。
「爪切るだけならどこでも出来るだろ。なんでわざわざ個室に連れ込まれたんだって思ってたら」
妹の部屋は自分の部屋とは違って、少しだけ色が多い。しかし全体的に淡い色合いのためか光って見える。神谷の部屋は逆に暗く重い、そんなことを思ったことは幾度か有る。
そんな淡い色の中、小さな机に色々な物を広げ、対面に座るように促した妹はとてもいい笑顔で言った。
「人にやってみたかったんだ、って言いながらキラキラした爪見せてきた」
ネイルという名前で、マニキュアを使うからすぐにも落とせるものだから、土日の間だけ、お願いお兄ちゃん。高校一年の妹はそう言った。
「あれなんの意味でやってんだろうな」
ぱちりと爪を切りながら梶が言う。
「俺もそれ聞いた。で、実際やってみて判った」
普段とは違う爪切りで切られ、やすりで磨かれ、薬剤を塗られて、色を重ねられ。
乾くのを待つ間やることがなくて、自分の爪を見ていた。
自然とは違う人工的な赤色。目を逸らしてもなんとなく視界に入って、惹き付けられるそれ。
「最初は違和感しかなかったけど、生活してると絶対に目に入るだろ、爪」
雑誌を持つ手が視界の隅にある。普段は気にしない。見えているけれど見ていない。そこに「普段とは違う」ものがあれば、どうなるか。
他人によってキレイに整えられて、丁寧に色を重ねられた結果がずっと視界の中にある。
「テンション上がるんだよ」
自分ではなく、他人が神谷自身の価値を認めてくれた結果なのだから、それは無下に出来ず幸いに繋がる。大事にされたという証拠なのだから。
――自分の機嫌を取るのに、キレイなものを選びたいよね。
そう言って笑った妹は、少し前まで小さな子供だと思っていたのに随分と大人っぽくなったものだと、当時そう思った。
きっと妹は気付いていたのだろう。中学に入った頃から家族とほんの少しだけ距離を取ろうとする兄に。仲違いではなく、嫌悪でも拒絶でもない。言うなれば遠慮という距離。
だからワガママに兄を振り回し、その距離を広げさせなかった。
だから神谷も妹のワガママに付き合い、それ以上離れなかった。
そんな中のひとつのエピソード。
「
横には爪を切り終わって、やすりをかける男。
これだって、神谷を大事にするためだと神谷は知っている。丁寧に削り丸みをもたせる。引っかかり無くけれど短すぎず。
「……」
それを見ながら、思う。
一度は諦めたものが傍にある幸いは、ずっと続くと信じてもいいものなのだろうか、と。
諦めたからこそ軽く、信じるには重すぎる。
けれど、こうして自分を大事にしてくれている人がいるのは事実で、そんな人を裏切りたくないとも思う。
「梶」
呼びながらその手を取り、手入れされた爪先に唇を付け、軽く吸った。
空気が混ざり小さく音が鳴るのを聞きながら視線を上げると、唇を曲げながらも眉のシワがいつもよりも薄い梶の姿。
視線を合わせたまま顔を近付け、熱を重ねる。
梶が神谷を大事にしてくれるように、神谷だって梶を大事にしたい。対等であり続けたい。
大切だということを伝えるには一番判りやすい表現で伝えたくなり、あの新潟の駅で梶にだけ伝えた気持ちを、言葉に乗せた。