2025年3月3日
本当に唐突に、理解した。……否、してしまった。
見ないふりをしてきたことに対して、それが追いついてきたかのような、そんな感覚。
「土井先生?」
名を呼ばれ、意識が戻ってくる。半助の顔を覗き込んでくる利吉は心配を前面に出していた。それはそうだ。二人でうどんを食べている真っ最中に時を止めたように動かなくなったのだから、誰でも心配するだろう。半助とて、自分のことでなければ同じように心配する。自分が担任を受け持つは組の良い子たちならばあれこれと声をかけて原因を探るだろう。
だが、それをされてしまえば今の半助に誤魔化すことなど出来ない。忍びとして失格だろうが、あまりにも唐突で、まだ心の裡が荒れていて、落ち着いていない。こういう時自分はまだまだ半人前なのだと自覚する。
「あの、土井先生? 大丈夫ですか? かまぼこ食べちゃいましたか?」
器の中から口の中へ、啜りかけたまま止まっていた麺のことを思い出し、啜りきって口の中へ。空気に触れていた麺は冷たくなっていた。
ゆっくりと咀嚼するのは、時間稼ぎだ。良かった、このうどんがあって。少なくとも飲み込むまでは喋らなくていい。この間に自分を整えたらいいのだ。
うんと内心で頷き、たった今気が付いたことに関してきちんと脳裏に言葉として浮かべる。
弟として大切に思っている隣にいる青年を、自分はどうやらそれ以上の感情を持っている。
利吉に家族愛以上の欲を持っていると告げられたのは、随分と前のことだ。
ごめんねと謝り、けれどありがとうと伝えた半助に対して、青年は嫌いだと拒否されなかったということは要努力ということですね、と無駄な前向きさを見せ、ことあることに半助に伝えてきた。
時には言葉で、時には文で、時には贈り物で、時には和歌で。
強引に迫られたこともあるけれど、力が強いのは半助のほうのため素直に押し倒されることはないのが救いだった。押してくる利吉をかわして、お互いにそれで笑ってそんな関係が心地良かった。
強引ではあるものの決して無理矢理ではなかったし、半助が断っても利吉はケロリとしていたし。兄弟のじゃれあいのようなもので嬉しかったのも事実だった。
……だったというのに。
口の中ではもうほとんど液体に近くなっているうどんがあるが、まだ飲み込んでいない。だからまだ時間はある、そう思いながら前に座る利吉に視線を移した。
利吉は、心配そうな顔をしながらうどんを啜っている。どこまでも半助を気遣う姿に、どくりと心の臓が動いた。
この顔だって、先程言われた言葉だって、何度も言われた言葉なのに。今日唐突に本当にこの青年は半助のことが好きなのだと理解してしまった。
気付いておらず、判っていなかったこと。
目の前にあったけれど、見えていなかったもの。
それが唐突に視界が広がるように見えるようになった。――うどんを啜っている真っ最中に。
「あの、……利吉くん」
ごくりとうどんだったものを飲み込み、意を決して話しかけるとうどんの汁を飲んでいた青年は器を置いてから半助を見た。
温かい店内で温かいうどんを食べていたからか、少しだけ汗をかいているのか見て取れる。
流れ落ちないけれど確かにそこに存在するそれに、思わず手を伸ばして額から頬を拭うように触れた。
「…………」
「――――」
相変わらずびっくりするほど顔がいい。少年時代が終わり、青年となり精悍さを身に付けた青年に覗き込まれるといつもドキリとする。両親のいいところを継いだと言える姿。半助に追いつきそうな身長。身体つきはまだ細いが、これは縦に伸びるのに栄養を使っていたせいだろうから、あと数年もしたらもっとがっちり筋肉がつくだろう。忍びとして重くなりすぎるのは拙いが、利吉なら上手く身体を鍛えていくだろうからあまり心配していない。
女子の誰もが振り向くうつくしい顔、男子の誰もが羨む格好いい姿。
売れっ子で引く手あまた。きっと様々なところから勧誘を受けていることは想像に難くない。
そんな青年が懸想する相手が自分という現実。そのことに対して罪悪感や嫌悪感でなく、優越感を、覚えていた時点で気付くべきだった。――自分の鈍感さに驚くばかりだ。
思考が一区切りした時、指先の濡れた感触と、目の前の呆然とした顔にたった今自分が行った行動が思い出され、思わず椅子から立ち上がりかける。
だが、その腕を捕まれ思い切り引っ張られたがために浮いた腰がすぐに着地し、机に上半身を預けるように沈んだ。
「勘定お願いします」
そんな半助を逃さぬまま、精算依頼を口にする利吉の腕を掴む力は強い。店から出たら逃亡してやると考えるこちらと同じように、利吉は逃がすつもりなどないだろう。一瞬の勝負だ。
『お兄ちゃん』
給仕の女が来るまでの微かな間の間に、それを見越したように笑顔を貼り付けた利吉が矢羽音を飛ばしてきた。
『逃げたら泣きます』
「ずっる!」
思わず叫ぶと、周りが何だとこちらに注目する。利吉はそれら視線を気にすることなく、二人分の代金を払って立ち上がった。半助の腕を掴んだまま。注目を浴びたままよりは早く退散したいと、仕方なくそのまま立ち上がって歩き出した。
利吉に腕を掴まれたまま、半助が前を歩き早足で景色を遠ざけていく。
「お兄ちゃん」
後ろからの声は無視。
「土井先生」
どこまでも甘く、優しく浮かれた声。後ろを振り返らなくとも、どんな表情をしているか簡単に想像出来てしまう。だから決して振り向かない。
「……半助さん?」
「今まで一度もそんな呼び方したことないだろ」
初めての呼称に思わずツッコむ。足は勝手に民家が密集する集落から畑側へと進み、畦道に切り替わったところだったため、もういいかと足を止める。途端に利吉が半助の顔を覗き込むように眼前に立った。
「今すぐ滝行に行きたい」
「氷ノ山でしますか? 今はまだ冬山の時期ですから、春になってからじゃないと危ないですけど」
「今すぐって言ってるだろ。それに私だけじゃなくて君もするべき」
忍者として失格というくらいの醜態を晒してしまった。ああ、自分は本当に半人前だ。いや、伝蔵はそんなつもりで名付けてくれたのではないのだろうけれど。
「私も? 何故です?」
こてりと首を傾げるあざとさに半目を向け、掴まれていない右手で――そういえば彼はこんな時でも半助の利き手を拘束しない――頬をむにっと引っ張った。
「表情出過ぎ」
「だって、仕方ないでしょう。お兄ちゃんのせいですよ。あんな……艶かしい触れ方をされて平常心でいろと? 無理でしょう」
「な、艶かしいって……! 言い方!」
右手も掴まれ、先程の記憶をなぞるように利吉の顔が半助の指先に触れる。そのまま視線を合わせてふと微笑まれ、カッと顔に血が集まった。
「その反応……やっと私の想いが届いたということでよろしいですか?」
「…………」
まるでそれは既定路線であったかのように、利吉が軽やかに問いかけてくる。
だが、確かにきっとこれは、それなのだ。
氷ノ山で彼等と出会った時、自分は壊れていた。その壊れた器を治してくれたのは山田家の人達で、治ったその器を満たすように様々な感情を与えてくれたのは彼等と、学園で触れた子供たち。
沢山の人達のお陰で毎日毎日注がれるそれ。その中で一番半助に対して感情を与え、満たしてきたのは、今目の前にいる青年だろう。
「楽しければ笑って、悲しければ泣いて、喧嘩が出来るというのは相手を信頼しているからだし、喜びは一人より二人のほうが大きくなる」
二人の身体の間で両の指をそれぞれ絡めるように繋ぎ直され、利吉の額が半助の額に触れた。
「共にいたいという感情だけでなく、横にいて欲しい。守らせてほしいし、守って欲しい。安心して欲しいし、この距離を許して欲しい」
感情は決してひとつでは無いのだと、青年が笑う。
「他人同士が共にいるために、情欲が必要なのかどうか私には判断つきませんけれど。その欲も確かに持っています。貴方に触れたい」
利吉の親指の腹が半助の皮膚を柔らかく擦る。
「今の貴方には、大切なものが沢山あって、いちばんが忍たまたちだということは判っています。良い子たちと張り合うつもりなどありません」
そもそも土俵が違うでしょう、と笑う利吉に釣られてうんと頷く。ああ、この青年の聡いところはこんな時に実感する。全てを欲しがる子供ではなく、弁えて諦めるような大人でもなく。両方を兼ね備えた青年。
「私は貴方の全てにおいて最後の人になりたいんです」
「最後……?」
「例えば忍務で窮地に立たされたら、貴方は忍たまや他の人を助けるでしょう。私のことなど頭から消えてくれてもいい。利吉は放置しても必ず生き残る――そうやって、優先順位を最後尾にしてくれていいんです」
「なんで、そんな」
利吉の意図が判らずに疑問を口にすると、青年は鮮やかに笑う。
「私はその信頼に応えるため、命を捨てることは無いからです」
それが楔なのだと、彼は言う。
「貴方が愛すのも、大切にするのも、泣くのも、怒るのも。人生最期に視界に映すのも、耳に届く音も、匂いや気配を感じるのも全て私がいい」
それはどう見ても夢物語だ。彼とて判っているだろうに楽しげに語る。
「私の最後は全て貴方に捧げます。それほどに、私の全ては貴方に向かうんですよ。重いでしょう?」
何故そんなに、だとか。何故私なのか、とか。聞きたいことは沢山あるのに、彼から注がれ続けた結果、溢れた感情が波打っているせいで言葉にならない。
少しだけ視線を上げると、先程うどん屋で見た柔らかな視線が、半助の感情を溢れさせた最後のひと押しの笑みがそこにあった。
「この感情に名前をつけるのならば、愛としか言いようがないのです」
それを注ぎ続けたのだ。この青年は。長い時間をかけて。半助がいつか感情を溢れさせ、溺れるまで。
「お兄ちゃん」
すり、と頬同士が触れ合う。
「土井先生」
ぎゅうと両手が握られる。
「半助さん」
吐息が唇に触れ、そのまま熱が重なる。
「……きみは、ずるい」
「忍びですから。しかも優秀な、ね」
間近で笑まれ、それが生意気だったから仕返しのようにこちらから再び唇を触れさせた。