朝涼

朝の逢瀬は短時間

2025年3月9日

 疲れた。
 無駄に東へ西へと走らされ全く必要のない戦場を視察に行かされ、京で噂になっている羊羹を買いに行かされ。忍び嫌いだろうが何だろうが構わないが、依頼したのはそちらだろうがと、後半はため息すら出なかった。それでも金は支払われたのだからマシだ。これで踏み倒されていたら流石にどうにかしてやろうかと思ったのだが。
 最後の嫌がらせとばかりに水汲みをやらされ、解放されたのは日が昇るまであと幾許の頃。この後別の仕事が入っているためむしろ遅刻しないで済むことを喜ぶべきだろうか。
 ……疲れた。寝たい。
 普段ならば二晩なら起きっぱなしでも問題ないのだが、精神的に疲れたためか、睡眠を欲している。かと言って長時間寝る時間はない。とはいえ、なるべく深く眠りたい。
 思考しながらも、足が向かう先はすでに結論を出していた。
 比較的近くてよかったと思いながら目的地の山へ。まだ太陽は欠片も見えないことに安堵しながら目線を遠くに投げると、木々の合間に忍術学園が見えた。訓練と防犯を兼ねて広く学園の敷地となっているこの場所は、子供たちを守る場所だからこそ教師や六年生が夜通し巡回している。
 その恩恵を勝手に使うのは申し訳ないという気持ちはあるものの、人間寝ないわけにもいかない。普段から学園に友好的にしているので、少しくらい留まっていても不審に思われることは無い。
 少しだけでもいいから深く眠りたいのだと、太枝に背を預けて目を閉じた。

     ●

 ふと浮上した意識は、近付いてくる気配を察知してのもの。一気に覚醒まで持っていき、しかしその気配がよく知ったものであると判って外に出さなかった警戒を解いた。
 寄ってくる存在も、あえて気配を隠しきっていないのはこちらに存在を知らせるためだからだろう。
 その気配が隣に立つと同時に瞼を開けた。
 山間から太陽が少しだけ覗き始めている。紫色と橙色。赤のような、青のような。様々な色が混ざってけれど美しい日の出。
「おはよ、利吉くん」
 こちらの気配に合わせて、隣に立つ忍びが呑気な声をかけてきた。
「おはようございます。珍しいですね土井先生が哨戒に出ているなんて」
「たまにはやらないと勘が鈍るからさ」
 それが嘘か本当か判らないが、聞いたところで答えは返ってこないだろうことだけは判る。身体を起こし、目元を擦って眠気の残滓を散らせてから立ち上がった。
「しかし、言い分からしてよくここで寝てるな?」
「見逃してください」
「ちゃんと寝ないと駄目だよ」
「寝られるときにはそうします」
「……」
 半目を向けられるが、こちらとしては最大限の本音だ。寝られない時は沢山あるし、その中で寝る時にはきちんと寝る。何も間違っていない。
 日が昇るとまた始まる一日。
 今日の忍務は昨日よりマシだといい。フリーだと断れない仕事もあるし、内容を選べないこともある。しがらみはなるべく作らないようにしているが、それでも横の繋がりは無下にできないのだ。朝日に祈るそんなささやかな願い。
 とはいえ、今日はいい日だ。彼の気配で目が覚め、最初に言葉を交わせたのだから。
 出来ることならばもっと話していたいけれど、お互いにそうはいかない。
「ままならないなあ……」
 ぽつりと呟きながら、彼がすぐに去らないその意味が自分と同じだと良いなと思いつつ自分の唇に人差し指と中指を押し当てた。
「土井先生」
 名を呼べば、薄明かりの中で向けられる視線。真っ黒の瞳に朝日が反射し煌めいている。世界で一番好きな造形を見ながら、自分の唇の感触が残る指を彼の唇に押し当てた。
「もっと触れたいところですが、触れると際限なくなりそうなので先生の熱を少々頂戴いたします」
 ふと指にかかる呼気。それを感じてから手を離した。
 ああ名残惜しい。本当はその唇にかぶりついて抱きしめてしまいたい。けれどそれは許されない。
 名残惜しさを振り払うため隣の木に移ってから彼を見ると、口元を押さえていた。
「利吉くんてキザだよな。恥ずかしいことするなよ」
「そんなつもりはないですが……土井先生にそんな顔をさせることが出来たのだから今日ばかりは甘んじましょう」
「さっさと行ってしまえ!」
「ははっ! 今度の逢瀬はもう少しゆっくり出来るといいですね」
 ああ、今日はいい日だ。好きな人がいて、その人の自分しか見れない顔が見れたのだから。笑いながら飛んでくるチョークを避けて木々の合間に身を投じた。