朝涼

新しき雛を濡らすは花時雨

2025年3月21日

「今一番欲しいもの?」
「はい、土井先生の回答は何だろうなと」
 雨の降る冬の終わりは、手足だけでなく全身が冷たくなる。だからなのか雨が気配を消すからなのか本日の学園はひっそりとしていて、話し声ひとつが密事に向いているように思えた。
 忍びならば、雨が降ろうと忍務に関係はない。学年によっては雨だからこそ実技授業を詰め込むのだと、利吉は父や兄から聞いたことがあったし、実際今日学園に足を踏み入れた時、泥だらけで身体を震わせる四年生の忍たまたちを見かけていた。
 風呂に直行する彼らに、大変だなあと呑気に思ったものだ。その後に、たった今自分は訓練ではなく本番を行ってきたことを思い出して、思わず笑ってしまったのだが。訓練で泣きそうになっている忍たまと、それを苦だと思わずにいる自分と。
 少し濡れたままの髪を晒し職員室長屋の扉を叩いた利吉を迎えたのは半助のみで、父は実技担当として四年生の授業の手伝いに行っているとのことだった。先程たまごたちにすれ違ったということは、父もすぐに戻ってくるだろうと待たせてもらっている。
 そんな最中、半助手ずから淹れてくれた茶を啜りながらの世間話。先日茶屋で女子たちが話して盛り上がっていたことをふと思い出し、話題に上げてみた。
「は組の良い子たちのいい点数……」
「それは確かに一番欲しいものですねえ」
 いつも通りブレない回答をする半助に笑えば、胃を押さえて身体を丸める半助は涙目のまま利吉を睨み付けてきた。
「そうは言うけどねえ、毎日教えたところを習ってないと言われてテストは視力検査でってのを見てると言いたくもなるよ……」
「今年の良い子たちは手強いご様子」
 湯呑みから伝わる熱がじわりと指先を温めていく。その熱を体内に入れてからほっと息を吐く。何か茶菓子を買ってきたら良かった。京の都の食文化はやはり栄えていて、見目麗しかった。
 少し予定をずらしてでも購入してから帰ってくるべきだっただろうか。いやしかし少しでも早くここに来たかったのだから仕方がない。手ぶらが無礼だなどという人はここにはいないのだし。
「一年生ってこうだったかなぁ……」
「今の六年生が一年の頃はどうだったんですか?」
「えー? ……ぽやぽやしてた」
 思い出すために視線を天井に投げた半助は、そのままそんなことを言い出す。歴代最強とも言われる現六年生を育てたのは、父とこの土井先生だ。そんな彼らも一年生の頃はそうではなかったのだと伺える言葉に、ふと吹き出した。
「それ、彼らに言ったら怒りそうですね」
「だって山田先生が止めなきゃ全員仲良く池に落ちそうになったんだよ」
「へえ、そんなことが」
 時折母の遣いでその頃ここを訪れたことはあるが、直後に外へ修行に行ってしまったため現六年生の小さな頃の記憶が利吉にはない。会っていたかもしれないが、その後の修行の記憶に押し流されてしまっているのだ。
「ああ、けどあの子たちも少しずつ強くなっていったんだよな……」
 その声は、冷たい雨に紛れるほど小さな音として、利吉の耳に届いた。懐かしさを噛み締めながら、同時に寂しさを内包する声。
 今の六年生は、半助にとって初めて受け持った生徒。思うことは沢山あることだろう。
「心配ですか?」
 意地の悪い言い方をすると、半助は利吉に視線を戻して肩を竦めた。
「まさか。それはあの子たちに失礼だもの」
「そうですね」
 半助が天鬼として動いていた頃も、彼らは最前線で忍務に当たり動いていた。一歩間違えれば死が待っていた場所で、引かなかった。それは勇気であり未熟でもあるが……利吉が言えることではないので、触れずに置いておく。
 だから代わりの言葉を舌に乗せる。
「大丈夫ですよ、彼らは土井先生と父上が育て上げたのですから。そして、一年は組の良い子たちは土井先生と父上に育てられるのですから……やっぱり大丈夫ですよ」
 利吉は、二人を師事し続けることを良しとしなかった。
 それに対して後悔はないけれど、それでも忍びとしての基礎を、生きるための術を、最初にそれぞれ教えてくれたのは父と母、そして兄だ。そんな利吉は今立派に忍びとして働いている。だから大丈夫なのだと、胃を弱める師の一人に笑いかけた。
 その利吉を見て、半助は体勢を戻してからふんわりと笑った。
「ありがとう、利吉くん」
「……いいえ。お兄ちゃんの胃を守るのも私の務めですから」
 軽く言って、二人でくすくすと笑う。
 穏やかな時間は利吉から緊張の残りを解していく。この人の前でなら、自分は警戒を解けるのだ。
「利吉くんの今一番欲しいものは何なの?」
 話題の水を向けてくれる半助に、利吉は目を細める。今、この時間だと言ってしまえばこの人はどんな顔をするだろうか。怒りはしないだろうが、困惑させてしまうことだけは判る。想像ですらままならないのは、いつもの事。
 だからなんてことない顔をして、今日も嘘をつく。
「父上が自分で洗濯することですね」
「あはは! それは難しそうだ」
「お兄ちゃんもですけど、ちゃんとしてください。二人して生活能力低いんですから……」
「うわやぶ蛇」
 顔を背けて耳を塞ぐ兄を睨みつけるが、暖簾に腕押し、全く効果はない。
「母上に一度しっかり怒られた方がやりますかね……」
「ええ、やだよぉ。御母上怖いじゃん」
「怒らせなければ良いのです」
「……今の言い方そっくり」
「何か?」
「何でも」

 お互いに顔を背けて言い合って。
 それが可笑しくて二人で同時に笑って。
 愛おしい時間は、確かに利吉が一番欲しいもの。

 旅立ちを控える雛たちが、雨に濡れる春先。
 それが止むまでていいからこの時間を堪能したいと、そう心から願った。