朝涼

ひかりふる

2025年3月25日

「起きろ寝坊助共!」
「うわぁ!?」
 意識外からの唐突な大声に、一気に覚醒して文字通り飛び上がる。だが、それ以上は身体が重くて動かず、逆戻りで布団に倒れ込んだ。
「父上、大声はやめてください!」
「寝坊助が悪い。ほらほらいい天気だ、起きなさい。朝餉の時間だ」
 腹の上にある熱の塊が抗議するが、された方は笑って廊下を去っていく。視線を腹に向けると、向こうもこちらを見ていた。
「おはようございます」
 にこりと笑う、その塊。昨日の夜とは全く雰囲気の違う、少年の顔。
「良かった。今日は身体が温かいですね」
 私の手を取りほっとする、その姿。
「…………」
「どうしました?」
「嘘だろ……」
 夜中一度も起きることなく。夢を見ることも無く。太陽が登りきるまで、寝ていたというのか。
 生きていた世界が一晩で崩れ去ったあの日から、常に頭の中心は冷え固まっていて緊張し続けているが故に熟睡など出来なかった。
 ほんの少しの風音で起きて、虫の声で眠れなくて、人の気配など以ての外で。眠れないことに先に身体が慣れて、そうして生きてきた。これから先一生深く眠ることなどなく、次にそれが訪れる時は死ぬ時なのだろうと覚悟していたのに。
「――……」
 手足が温かくて、動きに引っ掛かりがない。
 意識しないと定まらなかった視界が、何もしなくとも焦点が合う。
 何より、
 ――ぐぅぅ、と小さな熱の塊が乗っかっている内蔵が音を立てた。
 それは少年にも聞こえたことだろう。きょとりと大きな瞳を瞬かせてから、優しく吐息を零した。
「ふふふ。お腹すきましたねお兄ちゃん」
 部屋の中に届く光が真っ白で、昨日まではそれが酷く煩わしかったのに、
 昨夜、ここは怖くないと私に伝えた少年が、そんな真っ白な空間の中で笑い視線を奪われる。
 この場所が怖くない場所だと、少年はたった一晩で証明してみせた。その小さくも温かな体温で。
 それがどれだけのことか判っていない少年は、私の上から起き上がって伸びをしながら欠伸を噛み殺していた。

 優しい場所など無縁で、この世は地獄だと呪った日々。真っ暗闇の先にこんな……優しい場所があるなんて、知らなかった。
 自分の過去が変わる訳ではなく、今も追われる身には変わりない。罪は決して軽くはならないけれど。報いは必ず追いついてくるのだろうけれど。今日、この小さな少年に救われたのは事実なのだ。
 この幸いを覚えている限り、自分は幸福のままだろう。

 身体の奥から力を抜き、真っ白の世界に立つ少年を見上げ口を開く。 
「……おはよう。利吉くん」
 少しだけ震えたことに、彼が気が付かなければいい。そんなことを思っていると、大きく目を見開いた少年――利吉くんが、体当たりするように身を投げ出し私の両頬に触れた。
「お兄ちゃんが笑った! ……あ、ごめんなさいっ」
 昨日まで律儀に触れる際に断っていた利吉くんが、喜びから一転離れようとする。それを留めるように小さな手を自分の両手で覆って頬に押し付けた。
「大丈夫」
 少なくとも利吉くん相手に咄嗟に振り払うことも、怖がることもこの先ないだろう。それほどに一晩の効果は強い。恐れていた体温が、今は酷く心地良い。
「無理してない?」
「していない」
「お兄ちゃんの笑った顔初めてみました」
 嬉しそうに笑みを浮かべる利吉くんに釣られるように、少しだけ口角を上げる。仕事中の演技ではなく、自分自身の笑みとして。
「私も、久しぶりに笑った」
「怪我していて痛かったですもんね」
 そうじゃないんだけどなというズレたことを言う少年を訂正せず、促して立ち上がり入口を見る。そこには家主である男が立っていた。
 自分たちを見て目を細めている姿を見て、この家族は本当に無償の好意で私を助けてくれたのだと今更ながらに理解した。得体のしれない抜け忍を、見返りも何もなく助けてくれる。裏を疑うしかなかった自分を否定せずに。
「おはようございます、山田どの」
「はいおはよう。いい加減揃わないと雷が落ちますよ」
「行きましょうお兄ちゃん! 母上は怒ると怖いんです!」
 私の腕を引っ張り歩き出す利吉についていくと、最後尾についた家主が子に聞こえぬ小さな声が呟いた。
「堅苦しいの肩が凝るからやめなさいよ」
「……それは」
「気楽に過ごしなさい」
 ぽんと背中を叩かれ、返事の代わりに頭を下げる。
 触れられた場所は、少年よりも少しだけ低いけれど確かな体温を私に伝えてきていた。

 ――この幸いを覚えている限り、自分は幸福のままだろう。
 それは喜びと恐怖。知らなければ耐えられることも、知ってしまえば手放した時に次は耐えられない。
 だから次にこの幸いを手放すことになったら、その時は終わりの時がいい。
 ひかりふる朝の中、そう心から願った。