朝涼

梅仕事

2025年5月25日

「お願いします」
 そう頭を下げる兄を、利吉は少し後ろから見ていた。本音を言えば布団に入っていてほしいのだが、大人の会話に加わることは許されない。よって、二人の会話をじっと見ていることしか出来ないのだ。
 崖から落ちてきたその大人は、怪我をしていて子供の利吉から見てもすぐに回復しないことが判った。深い傷が多くあり、それを治すのにも体力を使っているのだろう。この一月の間に、何度も熱を出して倒れ込んでいた。
 だというのに、次の日にはなんてことない顔をして起き出しては何か仕事はないか、やれることはすると聞かないのだ。利吉が言っても大丈夫だよと笑うばかりで、父や母に咎めてもらうしかない。どうか大人しく布団に入っているように言ってほしいと願いながら母を見ると、嫋やかに指を口元に添え小首を傾げた。
「昨日また発熱していたでしょう」
「体力が落ちているせいです。体力を戻すためにも動かねばなりません」
「そうやってこの間無茶をして、数日寝込んだでしょう」
 そうだそうだ、もっと言ってください母上。
 山桜も散り、ツツジが花開く頃。もう大丈夫だと薪割りや小屋の修繕をしたり、畑を耕したり水汲みをしたりと動いた結果、傷口が開いて発熱をしたのは記憶に新しい。
 彼の怪我を見ているのは利吉だ。
 どれだけ快復しているのか、両親よりも詳しい自信がある。その利吉がまだ早いと言っても、子供の言うことだと軽んじられたのか、彼は大丈夫だと母に仕事を貰いに行ってしまったのだ。あの時は悔しくて、そして今もその気持ちは燻っていて、お兄ちゃんなんて勝手にしたらいいと意地悪な気持ちが少しだけある。けれど同時に、これ以上無茶をして欲しくないという気持ちだってあるから、複雑な気持ちで座していた。
「あの時はご迷惑をおかけしました」
「謝る先は私ではありませんよ」
「……え」
「――――」
 母の言葉に顔を上げる兄は、きっと大きな瞳で母を見ているのだろう。二人の視線が絡んでいるであろうその時間、利吉は自分の膝の上に置いた拳を見ていた。
 もっと大きかったら、兄は自分の言うことを蔑ろにしなかっただろうか。父や母の言うことは聞くのだからそれはきっと正しくて、だからこそ悔しい。子供で半人前だけれども、与えられた仕事を完遂出来ないほど幼くもないと自分では思っているのに。
「ふふ」
 母の笑う声に顔を上げると、一度視線があった。
 恐らく――確実に、母には利吉の気持ちなど手に取るように判っているのだろう。本当に届いて欲しい人は、今、母と利吉の間にいるというのに届いていない。
「ではそうね……。利吉と共に梅仕事を任せようかしら。やり方は利吉に聞いてくださいね。利吉も良いですね」
「判りました、母上」
「あ、はい。かしこまりました……?」
 何かをはぐらかされたと、そんな気持ちになっていると、母がここ数日の間に利吉が受け持っている仕事を兄へと命じる。
 反射的に返事を返して、笑う母の前で男二人で顔を合わせたのだった。

 ◆◇◆

「一昨日から梅の選別をしていたんです」
 陽の当たる縁側に座ってもらい、夜露から守っていた二つの笊を引っ張ってくる。そこには多量の梅が鎮座していた。
「多いね……」
「一年分一気に作りますし、梅酢と梅干し用とありますから」
 それぞれ座る場所の左側に梅が入った笊を、右側には空の笊を置いて座る。
「今日はヘタ取りです。お兄ちゃんは完熟梅の面倒をお願いします」
 はい、と竹串を渡して未完熟の梅を手に取ってヘタを飛ばした。上手く取れると気持ちがいいと知ったのは去年のこと。それまでは上手く出来なかったのだ。
「そういえばお兄ちゃんは……お兄ちゃんどうしました?」
 色々と思うことはあれど、拗ねたままというのは格好悪いと口を開いて顔を上げると、兄はきょとりと瞬きを繰り返して、梅と竹串と利吉を見比べるばかりだった。そして笊はまだ空っぽのまま。
 そのいとけない仕草に、もしやと思いながら口を開いた。
「お兄ちゃん……梅仕事したこと、ない?」
「う、うん。……お女中さんが準備してるのは見たことあるけど……」
 お女中さん、だって。まるで良いところの貴族様のようだと思いながら、しかし口にはしない。父から、決して過去に繋がるようなことは、気付いても口にも態度にも出すなと口酸っぱく言われているからだ。
 だからこそには触れずに、完熟梅を手に取り兄に差し出した。
「はい、これ持って」
「……うん」
 利吉も新しい梅を一つ取り、くるくるの手の中で回してヘタを正面に持ってくる。そんな利吉を覗き込みながら、兄も大きな掌の中で少しだけ不器用に梅を回した。
「梅のヘタは残ったままだとここから腐ってしまうので、漬ける前に取らなきゃいけないんです。竹串で、こう……」
 実とヘタの間に竹串の先端を差し込み、ピンとはね上げる。するとヘタの部分が飛び上がって地面に落ちた。その軌道を視線で追っている兄は、少しだけ目が輝いていて、楽しそうだ。
「ええと、こう」
 利吉の真似をして、恐る恐る先端差し込みヘタを取ろうとするか、しかし案外固く感じるのだろう、手がプルプルと震えている。
 差し入れては上手く出来ず、先端を実に沈めて汁を出し。一個の小さな梅に格闘する兄は、肩にまで力が入っていた。
「利吉くん、これ難しいよお。力入れると実を潰しちゃいそうだし、けど力入れないと取れない、しっ」
 不器用そのものの姿に、つい、笑いが込み上げてくる。
「ふ、ふふ、あはははっ」
「何で笑うの」
「だって、お兄ちゃんにも出来ないことあるんだなって」
 怪我をして、無理をして、無茶をしながらも与えられた仕事は完璧にこなす。そうしてまた倒れることを繰り返している兄の、こんな不器用な姿は初めて見たのだ。
「勢いが大事なんです」
 言いながら、新しい梅を手に取って、兄の前で竹串を差し込む。
「串はあまり深く差し込まなくて大丈夫だけど、下にというよりは横に入れる感じで」
「……こう?」
 利吉の手元と自分の手元を見ながら、兄が竹串の角度を変える。それを見て片手を伸ばした。
「もう少しこっち……この辺り」
「こんな浅くていいの?」
「うん。で、こうやって、勢いよく……」
 少しだけ上に持ち上げるように竹串を上げると、ヘタが飛んでいく。またもその軌道を視線で追う兄を同じように見上げた。
「ね。お兄ちゃんもやってみて」
「うん。……このまま、こう」
 利吉の動きを真似たものは、一個目とは違ってヘタだけが膝の上に落ちる。そうして綺麗に取れたその場所を、兄は嬉しそうな顔で見ていた。
「出来た!」
「お兄ちゃんならすぐにコツを掴んで出来るようになりますよ。完熟梅なら、手で取れるくらいのものもありますし」
 去年は利吉が母に言われたことを、今度は利吉が兄に伝える。そうして繋がっていくことが嬉しくて、何でも知っている兄に教えられることがあるのが楽しくて、温かい気持ちを心に梅のヘタ取りに夢中になった。
 今年一年、漬けている間の世話も利吉の仕事だ。だから、兄を誘って共に壺を覗いて、腐っていないか確認するのが楽しみだ。
 来年、そうして出来た梅を兄と共に楽しむことが出来るといい。それまで、……ここにいてくれるといいのだけれど。

「お兄ちゃん」
「んー?」
 ピン、ピン。と、二人でヘタを飛ばして。左から右へと梅を一つずつ移動させていく。
 ……ここにいてね、と言うのは子供っぽいだろうか。口を開きかけてふとそう思って、二個移動させる間を空けてしまう。それでも、兄はその間を急かすことなく待ってくれるのが嬉しい。
「夏には土用干しするんです。晴れの日が続く時を見計らわないといけないから……一緒に天気を見ようね」
 一年後の約束など、叶うはずもない。
 次の約束が守られないことも、利吉は知っている。
 けれど、先の約束をしたくなるくらいに、まだ兄と共にいたい。だから、少しだけ卑怯な言い方でそう願った。
「……山の天気は利吉くんのほうが読むの上手そうだ」
「けどお兄ちゃんも外したことないでしょ」
「そんなことないよ」
 曖昧な願いには曖昧な応え。
 けれど、今この瞬間にそこには二人だけの気持ちがある。少なくとも、兄は夏までいてくれる気がこの瞬間にはあるのだ。叶わないかもしれないけれど、この瞬間の気持ちは本物なのだとそう信じて、山の天気について二人語り合いながら梅仕事を進めていった。