2025年4月6日
土「知らなかった? 大人ってずるいんだよ」
「好きです。お慕い申しております」
そう想いを告げた私に対して、土井先生はふと笑みを浮かべた。それはあまりにも先生に似つかわしくなくて、けれど同時に初めて出会った傷付いた人を思い出させる笑い顔だった。
その笑みが口を開く。
「うん、知ってるよ」
決死の覚悟――とまでは言い切らないが、どちらに転ぶにせよ、関係性が変わる可能性が高い言葉を口にするために、葛藤し悩みそれでもと決めて挑んだ一言に対して、土井先生の一言はあまりにも軽かった。
だから拍子抜けして、その次に来たのは苛立ちだった。
伝えた気持ちを、この人は投げ打ったのだと、そう感じた。取るに足らないものだとそう判断されたがための言葉なのだと思えば、苛立つなと言う方が無理だろう。
「……それだけですか?」
苛立ちを時分の身の内側に押し込めて、静かな口調で問いかけると、土井先生は少しだけ首を傾げた。
「それだけとは?」
それは、出会った時からある彼の癖。判っているのに、判っていないフリをする時に出るものだ。だから、この人はわざと私の言葉をはぐらかしている。
……ああくそ、ムカつく。
「私はお慕い申しておりますと土井先生に気持ちをお伝えしました。なら、その想いへの、先生の気持ちを好き嫌いで答えてくれても良いのでは?」
苛立ちはあり、怒りだってある。気持ちを投げ打たれて喜ぶような性格はしていない。しかし、雑な対応をされて幻滅することも嫌いになることも、投げ出したくなることもない自分に苛立つ。
「けれど、私がわざわざ応える義務はないよね」
拒否されることは十分にあると思っていた。
逆に受け入れられる夢想をしたこともある。
けれど、これは考えていなかった。
「……そうですね。けれど、答えを私に渡して下さるくらいの義理はあると思っていたのですが、私の勘違いでしたか?」
「なるほど、一理あるね」
視線を外して笑う先生の感情が判らない。
弟として、一年間ではあるものの生徒もしくは弟子として過ごして、決して嫌われてはいないという自負はある。そこを過つほど自惚れてはいない。だからこそ、判らない。今、この人はどんな感情を得ているのかが、見ても判らない。
嫌いだからと言って判りやすく態度に出す人ではないし、逆に言うと好きだからと言って判りやすく態度に出すようなこともしない人だ。
感情表現は豊かなのに、心を読ませないのは、流石としか言いようがない。
だからこそ、この人に夢中になる人が多いのだ。
――人は、暴きたい生き物だから。
「それで、答えをお聞かせ願いたいのですが?」
重ねて願う私に対して、先生は視線を戻して口を開いた。
「そもそも、君は私に好きだと言った。言うのは自由で、私に止める権利はないよ。けど、それを口にすることの傲慢さを、判った上で言っているんだよね?」
「傲慢さ、ですか」
そうだ、と教師の目をした男が語る。
「口にするということは、他人を巻き込むということ。他人を自分の中に組み込み、大なり小なり変化させるということだ。それを傲慢と言わずなんと言う」
「……変化を望んだことを傲慢だと言うのならば、そうなのでしょう」
「否定しないんだね」
「しません」
口に出さなければ関係は変わらない。変わらないということは安定しているということ。土井先生は、私にそれを望んでいたのだろうか。
今、感じるのは拒絶の空気。それを問えば確定してしまうと口に出来ない私は、先生の言う通り傲慢だ。他人に望むのに自分は恐れているのだから。
そんな私の気配を感じ取ったのか、先生が少しだけ空気を柔らかにして続きを口にする。気遣われている、その事に落ち込むのは自分勝手だろうか。
「例えば、私たちの間にあるのは兄と弟、一応教師と生徒もかな。わざわざその関係性を口にしなくとも共通認識としてお互いに持っているよね」
「ひとつお忘れです」
「え? あー……家族」
先生が恥ずかしげに口にしたその関係は、決して誰にも否定させない本当のものだ。説教を受けている最中であろうとも、無視出来ないと会話を割った私に対しては怒らずに、その関係も受け入れてくれていることに満足を覚えた。
「今は会話の流れで口にしたけれど、普段はわざわざ口にしない。言わないけれどもお互いに判っているものとして過ごしている。関係性というものは、そういうものだろう?」
言った瞬間から変わるものではなく、日常の中で少しずつ変化していくものだと、先生が言う。
それは、判る。
自分たちとて出会ったその日に家族になったわけでも、兄と弟という関係になったわけでもない。共に過ごし、寝食を同じくし、笑って怒って泣いて楽しんで。月日が私たちの関係を変えていった。
先生が言いたいのはそういうことだろう。
「つまり、私は今、振られたということでよろしいのでしょうか」
関係性を変える言葉を口にしたところで、その瞬間から変わるというのは幻想だ。お互いに認識を持たなければそれは変わったとは言い難い。
今日から友達だと言い合ったところで、二人の間に積み重なったものは何も無い。関係性はその後に積み重ねていくものなのだから。積み重なったそのものに対して、後から名を付けるものだ。それは、恋愛関係においても同じことだと、そういうことだ。
「利吉くんって、頭良いのにたまに鈍感だよね」
言ったところで関係は変わらないのだと、そう優しく諭されて。けれど、口にしなければ諦めもつけられないと、痛みを堪えて口にした拒絶の言葉。
そんな私に対して、先生の言葉はあまりにも軽かった。
しかし、言われた言葉の真意が判らない。
その気持ちが顔に出ていたのか、あのねと言葉が続けられた。
「私は、君の気持ちを〝知っている〟と言ったんだよ。それがどういうことか、判る?」
「どう……とは」
土井先生は、お兄ちゃんは、私の気持ちを知っている。私の、この、感情を。
「そんなに判りやすかったですか!?」
「そこじゃなくて。いやまあ判りやすかったけど」
判りやすかったのか、と凹む私に対して土井先生からの追撃が痛い。忍びなのに判りやすいって何だよ。
「あのねえ、利吉くん」
自己嫌悪と羞恥で沈んでいく私の前に、先生がにじり寄って来る。ぐいと腕を引かれて、互いに両膝立ちになった。そのまま力強い腕が私の背に回る。
圧と熱に、混乱の思考が停止した。
「君の気持ちを、知っている。その状態で私は君と過ごして関係を重ねてきたと、そう言っているんだよ」
――言わずとも、積もる想いを重ねれば。
ひそりと囁かれたそれは、あまりにも私に都合が良い解釈しか出来なくて、どう反応したらいいのか判らなくなる。それでも何かを口にせねばと、声を絞り出した
「け、けど、私の気持ちにこたえる、義務はない、と」
「言葉は武器だと、我々忍びはよく知っているだろう。こちらの味方にもなるが、敵にもなり得る。言葉にするということは怖いことだよ」
「それは、そうですが……」
情報は武器だ。人の口に戸は立てられない。だから、言葉を発することに慎重になる。
同時に、言わなくても伝わること、知ることもあるのだと、先生が言う。
「それに、君と私の間では、そんな言葉にしなくともいくつもの関係を重ねてきた実績があるだろう」
「私の気持ちを知っていると、言いましたね」
確認しても、もう頷きも何も返してはくれない。だから私も、それ以上の言葉を重ねずに片腕を先生の背に回し、もう片手で目の前の顔に指を這わせた。
それは、拒否することなく受け入れられる。その事実にぶわりと体温が上がった。こめかみから目尻へ。そこから頬へ。最後に唇に親指を這わせると、そこが少しだけ開いて軽く吸いつかれた。
「……ずるい」
私の気持ちにこたえる……ああ、そうだ。応える、だ。その義務は確かにない。
だからこそ、彼は、この人は、自らの意思で、私の気持ちを受け止めてくれていた。
桜の下で、冷たい川辺で、紅葉の中で、雪に塗れながら。
「知らなかった? それならこれから知っていくといいよ」
親指の代わりに顔を近づけると、彼がひそりと囁く吐息が触れる。それを受け入れながら、関係を深める行動を、二人で重ね合わせた。
「大人ってずるいんだよ」