2025年5月6日
土「…だから後悔するって言っただろぅ」
「別にいいけど……後悔すると思うなあ」
あまりにもその言い方が酷くて、あっけらかんと言うものだから意固地になった。いつもの精神なら、そんな言い方しないでくださいと、そう怒っただろう。
けれどその時の利吉の精神は投げやりで、言うなれば八つ当たりでもあった。甘えから来る八つ当たり。大人がすべきことではないと冷静な時ならば簡単に判ることが、その時の利吉には判らなかった。狭くなった視野は思考を狂わせる。結果、売り言葉に返された買い言葉を、更に売りつけた。
「そうやって言えば大人しくなると思うほどに舐められているのが腹立つ」
「そんなつもりはないけれど……まあ、今の君に言っても仕様がないな」
なんだその言い方は。まるで駄々を捏ねる子供を、暫く落ち着かせる時間を設けるためのような言葉は、と更に頭に血が上った。
ガリガリと頭を搔いた半助が、ため息まで付けて利吉を見た。
「先に言っておくけれど、恨むなよ」
「誰が」
やさぐれた気持ちのまま吐き捨てると同時に、目の前にいた忍びの姿が消える。それを脳みそが判断するよりも先、ほとんど反射的に前へと身体を投げ出すように転がった。
その判断は正解だったと言えよう。
一瞬前まで利吉の頭があった場所には、苦無の刃。それを操る本体に当たりをつけて懐から取り出した棒手裏剣を打つ。だがそれは何も当たることがなく、空気だけを切り裂いていく。勢いを無くして落ちてくるのを待たずに、前転していた身体を無理矢理左腕で方向転換。身を右に弾きながら苦無を引き出し、胸を守ると同時に、その刃に衝撃が加わる。
火花は一瞬。それが三つを数えた頃にやっと利吉の視界が半助を捉えた。
いつも、生徒を相手にしている時の厳しさとは全く違う、何の感情も見せない瞳が利吉を捉え、容赦なく胸や首、眉間、顬を狙っている。その武器も白墨ではなく苦無と棒手裏剣。優しさを捨てた忍びとしての姿に、溜飲が少しだけ下がった。
忍務に失敗した。
ひとつの書状をとある場所から抜き取り、偽書とすり替え、抜き取った書を別の場所へと持ち込むというよくあるもの。ただその場所が幕府の中枢だったことが難易度を上げていた。
どこぞの地方の城ならば、なんの苦労もない。近隣の城は造りも裏道も、抜け道だって把握している。場所によっては忍たまでもこなせる低難度の仕事だ。
だが、その指定場所が内裏と花の御所ならばどうなるか。
この国の中枢に入り込み、書を交換してもうひとつの中枢に置く。そんな依頼、初めてのことで最初は当然断った。いくら戦乱の世であろうとも、触れていい場所と駄目な場所はある。花の御所だけならまだしも、内裏はありえない、と。
あそこは天皇の御座す場所。近寄るものではないし、そもそも閉じた場所故に見知らぬ人間がいたら、すぐにバレるだろう。
依頼主はそれでも、と法外な金額を提示し、城勤めの忍びには依頼出来ないのだと頭を下げた。当たり前だ。どの城のものかバレたらお取り潰しになるだろう。だから利吉のようなフリーに頼むしかないのだ。……使い捨てが出来るように。
それでも請ける気などなかったのだ。
依頼を持ってきた男が、土井半助の名を出さなければ。
気を抜けば死ぬでだろう攻防戦。
最初は利吉も攻撃出来ていたが、今はもう防御一辺倒だ。近距離からの棒手裏剣を躱し、その隙を縫うように苦無が翻り、身体を振って距離を置こうとすると刀が追撃に来る。常に死角を取られ、利吉の身体の動きすらおそらく掌の上。今、生きているのは奇跡ではなく、生かされているだけのことだと、無理矢理思い知らされる。
この人は強い。利吉が守らねばなどと、思い上がりも甚だしいほどに強いのだ。
けれど、彼の実力と利吉の思いは無関係で。半助のことを考えて依頼を請けたことに後悔はない。
勝手にやって、勝手に守ろうとして、失敗した。現実はそれだけのこと。
「――――!」
左に一歩踏もうとすると、その踏み込む先に棒手裏剣が打たれる。体勢を崩した隙を見逃されることはなく、反りの浅い脇差が利吉の肩を貫き、地面に縫い止められた。
痛みはすぐには来ない。地面の硬さと、真上から見下ろされる影を認めた後にじわりと痛覚が仕事を始めた。
「勝負あり」
荒い息を繰り返せば、身体がぶれて刃が肉を傷つけ痛みが増す。だが、息を止めていた反動が酸素を求めて仕方がなく、痛みを許容しながら呼吸を繰り返した。
「ぃ……っ、う」
「…………」
柄頭に掌を乗せながら利吉を見下ろす半助の瞳は、まだ冷たい。
思わず視線を逸らすために顔を背けると、足で頬を蹴られて戻された。
「何があった」
「――……いっ、ァ……!」
言いたくないという無言の抵抗すら許さないと、貫かれた刃を動かされた。
「言え、利吉くん。言わないならこれを抜いてもう一度初めから。口を割るまで続ける」
命を天秤にかけた根比べを、利吉が死ぬギリギリまでやるのだろう、この人は。後悔するなと、恨むなと言われているのだから。
それでも口を開けずにいると、半助は刃を利吉の肩から抜き、左手で鞘を操り利吉の奥襟を搦めて無理矢理立たせる。もう一度が始まったことに反射的に刀を抜くと同時に、襟から離れた鞘が下から利吉の顎を撃ち抜いた。
そこからはもう、一方的だった。
防御すら出来ず、打たれ、倒され、貫かれ、起き上がらされては投げられ、流れる血で視界が塞がれても許されず。地に倒れ続けることも出来ずに、立たされては傷を増やして、倒れ込みそうになればまた立たされ刃で貫かれ、張られて、回されて、打ち抜かれる。
それでも、致命傷にはならない傷を付けられているのだと、手加減されているのだという事実に力が抜けた。
「言う気になった?」
「……は……、」
「言いなさい利吉くん」
痛みは全身に響き、逆に判らない。そんな中、聴覚だけはきちんと仕事をしていて、半助の声を拾う。
今、自分は仰向けなのか俯せなのかも、もう判らない。痛みのせいで考えも理性も纏まらず、ぼんやりとした思考のまま、頑なだった喉が勝手に言葉を零した。
「ひ……っ」
引き攣れた喉が音になりきっていないものを発し、げほりと咳き込む。それをじっと見下ろしてくる男の視線から逃れることも出来ない。言いたくない、吐き出したい、相反する感情を持ったままそれでも喉が開かれた。
「……人が、死ぬ」
失敗が自分に返ってくるのならばそれは自業自得であり、自分の責任であり、納得も出来よう。だが、今回はそうではなかった。この失敗はこの戦乱の世の駒を一手進めるということでもあるのだと、気が付いたのは開戦の音を聞いてからだった。
自分の失敗で誰かが死ぬ、その覚悟が利吉には足りなかった。自分の腕の中にある大切なものしか見えていなかった。
説明はほとんど出来なかった。舌は回らず、思考は停止している。それでも、数少ない単語と情勢を半助は繋ぎ合わせてくれるだろうと、そんな信用がある。
「……馬鹿なことを」
半助が、利吉の顔を覗き込むように覆いかぶさってきた。顎を掴まれて自分が今、仰向けになっているのだと気が付いた。
「……せんせ」
「泣け」
短い言葉と共に、こつりと額同士がぶつかる。その、今までの攻撃よりも弱い接触に、ぼろりと目尻から雫が零れ落ちた。
許されないことをした。
この人や、きり丸のような子を、利吉が生み出してしまった。それは思い上がるなと言われるようなことかもしれないが、事実として利吉の心を締め付ける。
多くの血が流れて、自分の失敗の結果を見て。
だから、怒りと苦しみで断罪されたかったのだ。
「馬鹿だな」
短い断罪は、だからこそ利吉の心に入ってくる。許されないことをした。許されてはいけない結果となった。
瞬きをすると、目尻から涙がこぼれ落ちる。それを指先で拭った男の瞳から冷たさがなりを潜め、いつもの土井半助となって言う。
「痛いか?」
「……はい」
「……だから後悔するって、言っただろ、ぅ」
血を流す両腕を動かして、目の前の身体を抱きしめる。力加減が馬鹿になっているからか、語尾が痛みを訴えていたが、緩めることは出来なかった。
簡単に避けられるはずの人が避けることなく、この場所にまだ収まってくれる、奇跡。
「ごめんなさい」
口からまろび出た謝罪は、彼に向けたものであり、ここにはいない理不尽に命を落とした誰かに向けたものであり、親兄弟を亡くして生きる人に向けたものでもあった。
決して許さないでほしい。
一生見捨てないでほしい。
どこまでも自分勝手な感情に、涙は止まらない。
「ごめんなさい……」
「――――」
利吉の謝罪に応えないことで利吉を甘やかす半助に、只々抱き着いて泣いた。