朝涼

07:君が誰のものなのかなんて

2025年5月13日
利「本当にいい性格してますね……」

 家賃の支払いという行事が入ってすでに数年経つというのに、まったくもって意識に染み付かない。定住の地というのは自分にとって関係のない遠いことで、その意識がまだ薄れない。正直今でも必要はないと思っているが、仕事をしている大人が定住の地を持っていないのはおかしいのだと気が付き、氷ノ山のあの場所を家にするのは烏滸がましいと町に家を借りたのが教師を始めた次の年。氷ノ山を実家とする少年には随分は恨みがましい目をされた過去が懐かしい。
 最初は意識していたから払い忘れるということもなく。だが、慣れてしまえば忘れ、忘れては大家に怒られ支払い、支払ったことでまた忘れるという悪循環。
 自分一人ならば契約解除されたところで問題ないが、今はきり丸がいる。あの子が卒業するまでは、帰る家、帰る場所をそのままにしておきたい。毎度数カ月分溜めてはギリギリで支払っている身で言うなという話ではあるが、それが本音だ。
 そんなわけで数カ月ぶりに家賃を支払い、ついでに予定に入っていないはずの溝浚いをさせられ、井戸周りの修繕まで駆り出され。昼九つまでには学園に戻るつもりでいたのに、結局すでに暮六つ。昼も食べられずに働かされたため、腹の音を盛大に響かせながらうどん屋に入った。米が食いたかったが、すぐに提供されるうどんのほうが良かったのだ。何ならうどんを食べた後に飯屋に行けばいいかと、かけうどんを三口で食べ終え腹の虫に餌を与えて一息。多少くちたものの、まだ満足とは言い難い腹を撫でながらさてどうしようかと歩き出して暫く、見知った気配を見つけて視線を動かした。
 男と男。一人は知らない顔だが、もう一人の方は服に隠れている黒子の場所まで知っている人物だった。声は聞こえないが、見知らぬ男の表情と仕草から何を話題にしているかなど、すぐに判った。
 ……ふうん。
 戦が近くなるということは、治安が不安定になるということ。今日を稼ぐことが難しいと、まずは盗みが横行する。それが暴力沙汰に発展し、制御する自治がなければ崩壊していく道を辿る。戰場が近いとよく見る光景のひとつだ。そしてその盗みとは別でよく見るようになるのが、今、私の前で展開されているものだ。
 若い身体を使って金を稼ぐということ。女だけでなく男も人気があるし、むしろ妊娠の心配がないからと、戦場では男のほうが好まれやすい。足軽たちはその地の近隣に住まう農民が担うためそこまで横行しないが、武士は遠方から駆り出されることがよくあり、そうなると地元から離れて羽目を外すなんてのはよくあることだ。それを仕事にしている者もいるし、斡旋している人間だっている。
 この地はまだ戦場は遠いが、しかし他人事ではなく小競り合いはいくつも起きている。だからもしかしたら、前にいる性を売る男は戦場から流れてきたのかもしれない。そうして相手を探していたところに、見目麗しい男が現れたら誰でも声をかけるというものだろう。
 けれど、と考えながら近付いていくのは、野次馬な気持ちから。
 ……その子、頷かないと思うけど。
 春を売る男には悪いけれどと優越感を感じる自分は、性格が悪いという自覚がある。だが、その見目麗しい男は、図体がでかくて私生活が無茶苦茶怠惰な男に夢中なのだと知っているのだから仕方がなかろう。青年が男を振ったらからかってやろうと思いつつ、ゆったりと足を進める。向こうはこちらの気配に気付いているだろうに、一度もこちらを見ないのが少し気に食わないが。
 声が聞こえるところまで近寄った時、こちらを見ないままの男が口を開いた。
「では、初めてなので作法から教えてくれますか?」
 言いながら、春を売る男の腰を引き寄せる男が笑う。
 …………は?
 その姿を見て、頭に浮かんだ疑問と共に噴き出した気配に、それが向かった先の男がびくりと身体を揺らす。きちんと自分のことだと把握しているようで何よりだが、私がいることをしっかり把握した上でのその所業を看過することは出来ない。
 突然様子の変わった青年に、春を売る男が首を傾げる。そんな二人に近寄り、肘を青年の肩に置いて体重をかけた。
「君、こいつはやめといたほうがいいよ。えげつない特殊癖持ってるから」
「は? え?」
「なんとこいつ、馬に犯されてる奴を見ながらじゃないとそもそも勃たないってね」
「はあ!?」
 二人の男が同時に声を出すが、自分に近い方の男には乗せた掌で頭を掴んで黙らせる。大人しく口を閉ざした青年に気を良くして、春を売る男に笑いかけながらもう片手をひらひらと振った。
「ぐちゃぐちゃに泣いて尊厳破壊された人間相手にしかおっ勃たないし、そのためなら何でもやるって酔っ払った時に白状してた。こんな女泣かせのような顔して閨では乱暴だっていうから、人は見かけによらないね。ということで商売出来なくなりかねないからこいつはやめときなよ」
 そう伝えると、ドン引きした顔で離れていく男を笑顔でみおくる。
 その姿が角に消えると同時に青年の首根っこを掴んだ。
「勝手なことを、っ」
「行くぞ」
 肘を使って離れようとする青年を許さず、関節を逆に開いて動きを封じると、顔を歪めて悔しがる。それを確認してから青年一人担いで地面を蹴った。

     ●

「なんてこと言うんですかあんたは!」
 町から離れて藪の中。ここなら誰もいないだろうと身体を解放すると同時に、青年が私に文句を言ってきた。だが、それをしたいのはこちらの方だ。
「変な噂が広がったらどうしてくれるんですか!」
「別に困らないだろ」
 そう、困らないはずだ。
 激昂する青年の言葉に否定を即答すると、それに虚を突かれたのか二の句が告げられなくなっていた。その姿を見ながら唇を曲げて笑う。
 見知らぬ男に腕を取られて愛想を振りまいていた姿。予想を裏切って誘いに乗ろうとしていたこと。湧き上がる感情をそのまま声に乗せた。
「だって、利吉くんは私のことが好きなんだから、他のおなごだろうと男でも、誘われても断るべきだろ」
 昨日。そう、昨日のことだ。そう言ったのは今、目の前で絶句している利吉くんのほうだ。
 視線に熱が篭っていることなどとっくの昔に気付いていた。それでも私から何かするつもりはなかったし、利吉くんだって同じように何も行動しなかった。他人より近い距離で友人よりも気安く、家族としては少し遠い。そんな心地良い距離をずっと保っていた。その均衡を利吉は昨日壊した。
 耳の奥にまだ残っている、彼の熱に煽られた声。
 それが冷めやまぬうちに他の男の誘いに乗るとはどういうことだと睨みつけると、同じように利吉くんが私を睨みつけてきた。ぐいと私の腕を掴み、舌打ちを一つ。
「その私の告白に対して、貴方はなんて返事しましたっけ?」
 ――あなたが好きです。私のものになってください。
 憎しみすら浮かんでいる声と、愛おしさが滲んだ声が同時に聞こえてくる。昨日と状況は同じなのに、利吉くんの感情は正反対で少しだけ面白い。そんなことを考えながら、昨日と全く同じとなる利吉くんへの質問の回答と返事を返す。
「やだ」
 笑ってそう言った。
 昨日も同じことをした。掴まれた腕の熱がこちらに移ってきそうだなぁと、そんなことを考えていたことだって覚えている。今だって、痛いほどに掴まれて触れた場所から熱が移ってきそうだ。燃えて皮膚が爛れてひっついたら、これから一生ずっとこのままだなぁと、意味のない妄想をするくらいには熱い。
「そうやって振ったんだから、私のことなど放っておけばいいでしょう」
「やだ」
 舌打ちをして吐き捨てる利吉くんの言葉に否定を返すと、またも驚いたように息を呑む青年が掴む腕をこちらに引き寄せて身体を密着させる。掌だけでなく、全身熱い。利吉くんも、……自分も。いつか発火してしまうかもしれないくらいに熱い。
「私が君のものになる? そんなのごめんだな」
 互いの吐息が感じられる距離は、死角から一突きで首を取る暗殺の距離。
 それを許す意味を、青年は気付かないのは当たり前だと思って考えていないのか。
「一方的に奪うだけならば頷かない」
「…………」
「だって、私だけ渡してしまったら、君は簡単に捨てられるだろう」
「……な、に」
 二人分の体温を相乗して熱は上がり続ける。本当にこのまま溶け合ってしまったら、言葉なんていらなくなるのではなかろうか。そんな、馬鹿なことを考えながら、けれどどこまでも一人の人間同士だからと言葉を紡いだ。
 何故、一方的なのか。そんな薄い繋がりいつか消えてしまう。自分の人生に巻き込むのならば、もっと重い枷が必要だろう。搾取されるだけなどごめんだ。

「奪っていくのなら同じものを寄越せって言ってるんだよ」

 くれというのならば同じものを差し出せと、そんな正当な欲求。
 彼の熱に気付くくらい、自分とて彼を見ていた。ずっと近くにいた。関係を積極的に変えるつもりはなかったけれど、望まれるのならば否やはないくらい、私とて同じ熱を持っているのに。
 昨日の青年は一方的だった。だから拒絶した。あれが同じものを差し出す言葉だったのならば返事は真反対だったのに、利吉くんはそれに気付かず、勝手に怒って他の男の誘いに乗った。許せるものか。
 一方的などごめんだ。寄越せというのならば同じものを差し出せ。それが誠意であり、契約だ。縛り付けるというのならば、縛り付けられにこなければ、渡すことなど出来ない。
 唇を震わせ目を眇める利吉くんを見ると、私の怒りを感じ取ったのか、思いの一端を理解したのか。掴んだままの私の手首を更に締め付けた。
 混ざり合う熱は篭って、一方的ではなく二人の間を巡る。それを逃さぬうちに覚悟したらいい。
「本当にいい性格してますね……」
 もう一度舌打ちを繰り出す青年の膝を蹴ると、悔しげにそう呟き、利吉くんは私の唇に齧り付いてきた。