朝涼

004:空

 松田を知らなかったら、自分はどんな人生だったのだろうか。

 眠りにつく前の、空白のような時間に頭の浮かんだ疑問。隣にいない体温を恋しく思ったがために出てきたもの。
 平日に加藤が松田のマンションに行くことも、逆に松田がここに来ることもよほどのことがない限り出現しないイベントだ。そのフラグは唐突に立つこともあるし、加藤が必死にフラグを積み重ねていくこともある。なんだかんだ、流されてくれるようで松田はこちらの意に沿った動きをしてくれることのほうが少ない。
 一人きりの部屋の中。開けっ放しのドアは、廊下を挟んだ反対側のゲーム部屋に設置してある、つけっぱなしのパソコンのファンが回る音が響いてくる。
 その低い音を聞きながら、ここにはいない想い人を思う。
 生まれた瞬間から決まったレール。姉達は外に出て自由に出来るのに、何故自分だけ、と思ったこともあったけれど。そのレールから外れることは生半可ではないのだと気がついて、反抗は中学の頃にやめてしまった。
 会社のために生きて、死ぬ。没落させたら自分の名前が悪い意味で語り継がれるし、存続させたところでそれが当然だから何も残らない。
 進んでも止まっても、地獄でしかないのだ。
 小学校も中学校も高校も大学も新卒で入る職場も、全部親の指示。
 けれど入行する頃には、何もかもがどうでもよかった。親の言う通りに生きて、親が充てがった女と結婚して子供を儲けて、親から引き継ぎ社長の椅子に座って子供に引き継ぐ。全部決まっていること。自分の子供がどうするかなど考えない。親が加藤のことを考えないように。

 銀行で社会人の一通りを学んで家に帰る、ただそれだけだと思っていたのに。
 目を閉じ、思うのはたった一人。
 ジョブチェンジで各部署を回って、営業に戻ってきてしばらくのこと。
 唐突に話しかけられてその時加藤は松田の存在を知らなかったから先輩扱いして怒られた。それが、最初。
 加藤をただの同期のライバルとしてまっすぐにライバル視してくるその存在は、新鮮で意識を奪われた。
 松田と名乗った男は、部署こそ違うが同期の中での成績は優秀。派手なようで仕事ぶりは堅実。下調べ、根回しをしっかりして損を少しでも減らそうとするし、得を少しでも増やそうとする。そのために残業もするし、上司や先輩とのパイプラインを有効活用する。
 小学校の同級生である新東とのことを知ったのも、調べてわざわざ連絡を取って確認を取った。
 求められる範囲で利益を出して、プラスのことはしても自分にとっても会社にとってもマイナスになるようなことはしない。そんな仕事をしている加藤とは、正反対の存在である松田のことを、調べれば調べるほど本人の性格とは結びつかなくて不思議だった。
 仕事ぶりだけ見ればとても真面目なのに、同期の男にはかなり嫌われているし、敵が多い。そのくせ女には甘くてトラブルもそれなり。公私で別人かというくらい。

 だからこそ、気になった。最初は本当にそれだけ。
 それだけだったはずなのに、女とトラブルが起きるのを何度か見ている間に思うようになった。──俺にしておけばいいのに、と。
 それに気がついて、自分の感情が興味から別のフラグが立っていることに気がついた。
 初恋は幼稚園の先生であとは寄ってきた人と付き合って童貞捨てて生きてきた中、今まで選択肢になかった同性に欲を抱いたことに、最初こそ戸惑った。しかし想像でヌケてしまえば自分に言い訳も出来やしない。

 強烈な何かがあったわけではなく。
 気がついたら当然、という形で加藤の中にいた存在を無視せず受け入れて機会を狙った。

 松田を知ってからの自分は、それまでの二十八年とは正反対にアクティブに動いている。何もしなければ接点がない。接点を設けるために松田よりも上の成績を狙うようになったし、それで視界に入ろうとした。
 睨みつけられる強さは嬉しいけれど、物足りない。
 何も持っていなかった自分が、初めて興味を持って、手に入れたいと──近くにいて欲しいと願った存在。
 今も四苦八苦しているけれど、少なくとも手を握り横に立つことは許された。
 会いたい、隣にいてほしい、抱きしめたい、抱きしめてほしい、傍にいてほしい。
 際限なく湧いてくる欲求を全てぶつけたら、きっと松田は壊れてしまうから必死にセーブしている。
 満たされていく感覚と、足りないと叫ぶ飢餓感を毎日持っている。自分にこんな感情があるなんて初めて知った。松田がいなければ知らなかったこと。けれど知ってしまったからもう、松田を手放せない。

「……」
 近くのスマホを手にとって、電話をかける先は愛おしい人。
 数コールでちゃんと繋がる回線。出ないという選択肢を取らないことに喜びを感じる。
「好きだよ松田」
「人の睡眠邪魔しといて苛立たせるとは、いい度胸だなテメェ。俺の成績下げる目的か。死ね」
 寝ていたのか、言葉はいつも通りなのに少しだけ舌っ足らず。それがすごく、
「可愛い」
「寝ぼけてんならさっさと寝ろバーカ」
 悪態も、夜の気配の中では随分と甘い。それに目を細めてゆっくりと息を吐く。
「うん、おやすみ」
「はいはい」
 素直じゃない言葉を返して、すぐに切れる回線。たった数十秒のやり取りで満たされて、もう足りない。
 難儀だなぁと思いながら、それでも電話をかける前より増えた松田への感情を胸に、夢の世界へと旅立った。

空っぽだった男