朝涼

009:月

 いつまでも残業しようとする松田を引っ張るように退勤させて、外に出る。丸の内周辺はビジネス街故に二十時を過ぎると一気に人がいなくなり、薄暗くなる。
 高層ビルの合間を縫うように、駅へと歩く。加藤の最寄り駅は、銀行を出たすぐ目の前の駅に乗ればいいのだが、そうはせずに松田の横についた。
「お前こっちじゃねえだろ」
「遠回り」
 皇居を横切るように歩く松田は、加藤の言葉にそれ以上言葉を重ねず、歩き続ける。きっとまだ、頭の中は仕事のことばかりだろう。だから加藤にさほど突っかかってこない。
 眇めのまま前方を睨みながら、しかし頭の中はここにはいない。そんな松田から視線を外し、加藤は皇居前特有の開けた空を見上げた。進行方向にある月。東京の夜は、星は見えずとも真っ白に輝く月がよく見える。

「月がきれいですね」

 有名なエピソードをそのまま口にする。正直、回りくどいなと思わなくもないが、直接的ではない慎ましさは日本人にウケるところなのだろうというのは判る。
 顔を上げたまま、しかし視線を松田に向けると一呼吸の後松田も加藤を見た。交差したのは一瞬。すぐに外されるが、松田が足を止めたため数歩進んだ後、加藤も同じように足を止め振り返った。
「なんて応えてほしくて言ってんだよ」
「松田はなんて応えるのかなって」
「お前ならなんて言う?」
「言ってくれんの?」
 松田に、告白と同義のこの言葉を言われたらと、想像するだけで心が踊る。だが、松田は鼻で笑うだけだ。
「言ってくれたら応えるけど」
「ロクでもない応えだろうから、」

「俺の命は松田のものだよ」

 いらない、と、拒絶されるより先に、言い切る。
 月を背後に、真正面から松田に送る、加藤の本音。
 松田がいるから今の加藤はある。心の、身体の中心にいるのは松田だけなのだと、偽りも歪曲もされずに松田に届いてほしい。
 その気持ちが届いたのか、それとも受け止めることを拒絶したのか──松田が、顔を歪めて視線を逸らした。
 届かないとは思わない。届いていて、けれどまだ許されていないだけだと思うのは傲慢だろうか。けれど、加藤にとって全部が本音で、嘘偽りない言葉だ。
「自分の命にもうちょっと敬意を払え、バカ」
 松田の返事に、笑みを深くする。
 好きに解釈することを、加藤はやめないし、松田もそれを判った上での発言だと知っている。だから、貰った言葉は、共にいてもいいのだと許可が出たと解釈する。
「好きだよ松田」
「情緒がねえな」
 は、と笑って歩き出す松田の横に並んで歩ける幸いを噛み締めた。

月に託す