朝涼

017:石

 休日前なら、夜更かしをしても次の日に響かない。
 神谷と付き合うようになってからの帰宅時間は、相変わらず定時を大幅に超えてはいるが、それでも日付が変更する前には帰宅するようになっている。電話がかかってくることはあるし、毎日そう出来る訳でもないが、確実に以前よりは会社にいる時間は減った。少なくとも、会社の床や椅子で寝ることは減った。
 最初こそ部下には驚かれ、同期には正気を疑われ、後輩にはいい人が出来たのなら紹介しろと絡まれ――最後は無視している――ているが、一ヶ月も過ぎれば表面上誰も何も言わなくなってきたのは、有難いことだ。
 そうして神谷のマンションに戻ってきたのは、二十二時半過ぎ。
 一緒がいい、という神谷の甘えに否やはなく、二人で風呂に入っている。腹が減っているから、出たら何か腹に入れたいと思いながら、シャンプーで頭をガシガシと洗っていく。
「梶ってさ」
 湯船に沈み、リラックスした神谷の声は少しだけ舌っ足らずになる。言うと絶対に言わなくなるだろうから、ひっそりと楽しんでいることは、これからもずっと小さな秘密だ。
「新人の時社員旅行で温泉行った時、石鹸で上から下まで洗ってたよな」
「……よく覚えてんなそんなこと」
「まじかよこいつって思ったからな」
「面倒くさかったんだよ」
 研修が終わってしばらく経った頃に、ご褒美とばかりに組まれている旅行は、上司の目がないためかなりの息抜きになる。旅行から帰ってきた後は本格的に業務に入り、年単位でまともに旅行など行けなくなることを、新人ばかりが知らず先輩上司も決して言わないという不文律が出来ているのはどうかと思うが。
 試供品で付いてきた、小さな石鹸で身体を洗っていく。
 昔は、髪も身体も石鹸一つで洗っていたのは事実で、それで問題もなかった。早く上がってビールを飲みたい、そんな気持ちだったからだ。特に女にモテたいという感情もなかったから、最低限不潔になってなければいいだろ、とそんな気持ちで。
「お前結構俺のこと覚えてんな」
 研修の時の居眠りといい、旅行といい。言われてないだけで他にもありそうだ。
「目立ってた自覚、本気で無しか」
 肩を震わせる神谷を横目でみて、腕を伸ばして額を一度突く。それでも笑いを止めないが、ため息一つで流した。
「一匹狼のくせに色んな同期に好かれる。女からのアプローチには気付かなくて、男からの嫌味はスルー。宮川が胃を痛めてたことも気付いてないだろ」
「…………」
「やっぱり」
 全身を洗い終え神谷をどかして湯船に浸かると、足の間に神谷が入り込み凭れかかってきた。抱き込み、肩に顎を置いて息を吐いた。
 そうして落ち着いたら、言わないといけないことを思い出した。
「……神谷次長」
「聞かない」
「反応が早ぇっての」
「プライベートに仕事持ち込む男は嫌われるぞ、梶次長」
 正論すぎてぐうの音も出ないが、しかし言わずにいるとそれはそれで不機嫌になる。仕事だから、というので強く追求されることはないだろうし、こちらの多忙を判っているから、その不機嫌すら飲み込むのだということも、判っている。
 だからこそ、ちゃんと言っておきたい。
「明日、休日出勤」
「……」
「つっても、時差考えると午後からでいける」
 機嫌を取るためでなく、これは事実。
 時差関係なく連絡が来るような状態の業務形態は本気でどうにかしたい。とはいえ、向こうは一度かけてきて繋がらなかったら、平気で後日に回すような連中ばかりなので、最近はあえて出ないようにして、こちらからかけ直すようにしている。それだけで残業が減った。真面目すぎるのは日本人ばかり、ということだ。
「ならいい」
 頭を倒して梶と頬を合わせる神谷は、少しだけ不機嫌でけれど怒ってはいない。仕方ない、と飲み込んだ気持ちが判るからこそ、薄い身体を抱きしめた。
「悪い」
「明日午前中まではプライベートな」
 それでも、仕方ないとは言わずにそう言って、梶を甘やかす神谷にたまらなくなる。
「仰せのままに」
 だからもう一度悪かったとは言わずに、体温の上がっている頬に口付けた。

石鹸の思い出