朝涼

032:血

 生きているだけで悲鳴を上げる精神を抑え込んで生活する。
 普段は気にならない傷は、ふとした時に疼く。
 それを隠すことなど動作もなく、誰にも気付かれなかった。
 ……過去形なのは、気付いた一人が現れたからだ。今迄気付かなかったのに、突然気が付かれた。
 何故だと思いながらも、判っている。それだけ、神谷を見るようになったからだ、と。

「神谷」
「お疲れ、どうした?」
 M&Aの規模は大小様々で、小さいものなら毎日始まったり終わったりしている。それらのスケジュールを全て把握しているのは、営業ではなくM&A事業部の部長と次長だ。
 故に、月に一度、齟齬がないか営業とM&Aで確認作業を行う。万が一取りこぼしがあったら問題だからだ。勿論、取りこぼしがないことが前提で、ないことを確認する作業となっている。
 そんな月一のミーティングが終わった直後。
 先に部屋を出た神谷を追いかけるように、梶が声をかけてきた。まだ何かあっただろうかと振り向くと、腕を掴まれ引っ張られた。
「何だよ」
 エレベーターとは逆方向、角を曲がれば人の気配は少しだけ遠くなる。
「今日、上がり何時予定だ?」
 業務のことではないというのは、あの場で話されなかったから理解していたが、しかし梶から滅多に出てこないような台詞が出てきて驚いた。
「そんなに忙しくないから、二十時には上がるつもりだけど」
「判った。迎えに行くから待ってろ」
「……は?」
 更にそんなことを言われると、余計に意味が判らず反応が鈍る。あの、本人は否定しているが実情はどう見ても仕事人間の梶が。

 戸惑う神谷の目元を、梶の指先がゆっくりと撫でていく。
 たったそれだけで、梶が何故こんなこと言い出し触れたのか、――判ってしまった。

「……今まで気付いたことなかっただろ。なんで、今さら」
 今回が初めてなどではなく、昔から時折起こること。だからこそ自分を誤魔化す術も、外に出さない抑制も出来ている。
「今だから気付くんだろ」
「……」
 例えば幼少期の怒られた記憶、恥をかいたこと、嘘の内容、死にたいと願った日、人を傷つけた時、逆に人に傷つけられた時。普段は思い出さず、けれど何のきっかけもなく唐突に思い出し、沈み込む日というのはきっと誰にでもあることだろう。
 神谷は、そこに悪意のない世間からの偏見という項目が入る。
 どれもこれも小さなことで、笑いに変えられたり、昔は偏見だとすら思われていなかったこと。今は少しだけマシになって、けれど少ししか変わっていないこと。
 気にしていたら生活出来ないから、普段は気にしない。ただ、傷付かないわけではないから、ふとした時にその小さな傷が一気に痛みを主張する。今日がたまたまその日だったというだけで、明日には戻るだろう。いつものこと、だ。
 ……いつものこと、だというのに。
「いいか、待ってろよ」
 何も言えなくなった神谷の目元をもう一度撫でた後、梶は念押しして足早に去っていく。
 毎日終電にすら間に合わずに仕事をしている男が、四時間早く上がろうというのだから、一秒だって無駄に出来ないだろうに。それでも顔を合わせて神谷を気にかけて、少しだけ熱を残していく。
「……不器用すぎるだろ」
 苦笑し、梶を追いかけるように歩き出す。
 じくじくと痛む身体のどこかは、今のものだけで治るほど単純ではないけれど、気が紛れたのは事実。今はそれを良しとして息を吐いた。
 これに毎回付き合わせるのは悪いから、今日そのあたり話しておきたい、と考えるくらいにメンタルは上を向いた。
 きっと梶は、気付いたら毎回律儀にこちらを慰めようとするだろう。そうされたくないわけではないが、そんな過保護は望んでいないと、言っておかなければならない案件だ。
 誰しもありえることで、神谷とてそれに囚われ続けるほど若くはない。自分で自分の機嫌を取ることは出来るのだ。
 ただその中で、少しだけ傍に居てくれたらそれでいい。
 梶に依存したいわけではないのだと、伝えた上で甘えたい。

 一人で布団の中で自分を守っていた過去を思うと、随分と贅沢な願いだ。
 そんなことを思いながら、沈み込みそうになる思考を切り離すように、仕事のことで頭をいっぱいにした。
 梶が本当に神谷の退社に間に合うように現れるかは判らないけれど、その意志を尊重するため、仕事を終わらせようと、そう思った。

血涙に沈む過去