朝涼

039:鬼

「お疲れ様です」
 少しズレた昼食時間。カフェに入るとそれなりに埋まっている席の中、見知った背中を見つけた。
 いつもならば、視界に入らない場所に陣取るのだが、昨日松田に言われたことが記憶に残っていたため足が向いていた。
「お疲れ。珍しいな」
 加藤の声に顔を上げたのは、営業二部神谷次長その人で。目を落としていたスマホを伏せながら、前の席を示してくれる。それに頭を下げて向かいの席に腰掛けた。
「松田が、上に媚売るのも仕事のうちだって言うので、松田の上司である次長に媚を売ってみようかと」
「それを俺に言ってどうすんだ」
 苦笑しながらも怒りの気配がないのは、今が休憩中だからだろうか。仕事中のこの人は空気が固く、殆どの下の人間は近寄りがたく思う。あえてそうしているようにも見えるし、素であるようにも見える。
 サンドイッチの封を切って口の中に詰め込んでいく。このあとは資料作りで席に座りっぱなしのため、あまり食べると眠くなるとこれを選んだが、足りない気もする。とはいえ足りなかったら菓子を食えばいいか。
「次長は、将来のことどれだけ考えてますか」
「人事面談は俺の仕事じゃない」
「じゃなくて、プライベートの方です」
 垂れそうになったマヨネーズを舌ですくい取ってから息を吐く。
 仕事のほうは、加藤に意思はあってないようなものだが、ある意味プライベートとくっついているとも言える。
「どうやったら松田をうちに引き抜けるかなぁ、と」
「うちのエース持っていかれる話を俺にしろってのは頂けないな」
 コーヒーを飲みながらの苦言はスルーし、周りの人がこちらに聞き耳を立てていないことを確認してからもう一度口を開く。
「二人で生きていくって、どうしたらいいのか」
「――……」
「チョロいくせに強情で、素直なんだか頑固なんだか」
 そこがいいのだし、どれだけ嫌いだと言われても諦めるつもりなんてどこにもない。それに、嫌いだと口で言いながらも最後のところで、松田は加藤を拒絶せず受け入れてくれている。それが頑固なところだから、あとは時間をかけて解いていくだけだ。
「それこそ、死ぬまで離さないつもりなので、早めに囲っちゃったほうがいいのかと考えているんですが、どう思いますか」
 松田と共に生きることは、加藤の中で決定事項。
 だからあとは時期と手段だけの話なのだ。プロポーズを何度しても頷いてくれないのに、口説くことは拒絶されていないので、時間の問題だとは思いつつも、早めが良いと思ってしまうのは仕方のないことだろう。
「加藤は……」
 ――この人はこんな顔をするのか。
 言葉を切って神谷は一度目を伏せ、息を吐き、もう一度顔をあげた時には、先程の一瞬見せた表情はどこにもなかった。
「あまり先のことを考えすぎると、鬼が笑うって言うだろ」
 恐らく無意識なそれは、加藤が見てはいけないものだったのだろう。きっとあれを見て良いのは一人だけのはずだ。
 だからそれには触れずに、脳みそに記憶せず、代わりにサンドイッチを口の中に詰め込んだ。
「松田が笑ってくれるほうが大切ですから」
「うちのエースを簡単に連れていけると思うなよ」
「それでも俺には松田が必要だから、諦めません」
 加藤の人生に松田は必要なのは絶対。そこがブレることはないのだから、営業二部には松田を諦めてもらうしかない。根比べならば得意だ。
 今はまだ、知ってもらうだけでいいと、そんな種まきをしただけ。

「媚じゃなくて喧嘩売ってどうする」
「……あ」
 意気揚々と発言したその意味を言われて気付く加藤を見て、神谷は音を立てずに身体を震わせ笑った。

鬼が笑う