「広瀬さん、ありがとうございました」
そんな丁寧な言葉を発している管理官を横目に、香川と花村に寄っていく。
「お疲れ様です、先輩。管理官何だったんですか?」
「いや、まあ」
まさか管理官の息子の暴走が止まらなくて大変なんだ、などと言えるわけもなく、矢島は口篭ることしか出来ない。
「いつもの説教ですか」
「いつもの……説教……?」
香川の軽口に、花村が眉をしかめた後に矢島を容赦なく睨みつけてきた。その態度にこちらも思わず眉をしかめるが、年下だが階級が上である花村にそのままぶつけるわけにもいかない。朝のことは緊急事態だったし、齎された報の衝撃のデカさで矢島が思わずタメ口だったことを、咎められなかった。今はやばい。
「まさか、いつもいつも管理官のお手を煩わせているということか!? 先程は負けを認めたが、それとこれとは別だ!」
「……」
奴がセクハラとパワハラを繰り返している男だと、大声で言ってやりたい。そしたらどんな顔をするのか。いや、否定から入りそうだ。
しかし、目の前の若手キャリアが幻想を抱いている男の精液の味を、口の中に残したまま対峙するのは、尻の座りが悪い。
そもそもこの若手キャリアには複雑な感情があり、それを斉藤に知られている上に、花村は気付いていなくとも大変気不味い状況があったために、そういう意味でも顔を合わせづらいのだけれど。
「管理官が僕らの上司であった生安課長だったときから、二人はこんななんですよ」
香川があっけらかんと言いながら、花村を宥め始める。
「つまりそれほど前から管理官に! 度し難い! 管理官がどれほど素晴らしく仕事が出来るかあなたはちゃんと知っているのか」
「度し難いって」
なんという言葉選びだと、香川が思わずツッコむが、本人は矢島に噛みつくことに必死で気付いていない。
管理官は、管理官が、管理官に。まるで自分のほうが奴のことを知っていると自慢するように喋り続ける。つい先程、矢島と香川の上司時代があったという香川の言葉を忘れているかのように。
仕事内容は違えど、斉藤の仕事ぶりは知っている。
態度はでかいのに、それを黙殺出来るほどの仕事をする。広瀬が年単位で追っていた事件を、たった数日で解決に導いた。――それはもちろん、今までの積み重ねがあるからだと、判ってはいるけれど。矢島の知らないところで、何かをやって、結果が今。花村とて全てを知っているわけではないだろうに、自分の方が上なのだと、言外に伝えてくる。
「管理官は、捜査本部立ち上げ前からすでに動いていて、忙しい中準備を進められていたんだ。ここの捜査二課から捜査権を移す関係上、捜査本部がここに立ったが、移動時間すらそもそも惜しいというのに」
階級や、そもそもとしてキャリアとノンキャリアという、大きく絶対に乗り越えられない壁が斉藤と矢島の間にはある。花村は斉藤側と考えたら確かに矢島はそっちには絶対に行けないし、花村がこちらにマウントを取ろうとするのもよく判る。そのマウント自体は、別によくあることだ。
「我々だけでやるつもりだったのに、気付いたら貴方達がいて……何故管理官が選んだのか判らない」
「――……、さあ何ででしょーね」
広瀬に聞いたことを言ってもいいが、言ったところで火に油を注ぐ結果は目に見えているため、静かにはぐらかした。さっさと終わって欲しい。
「矢島、運転しろ」
右から左だけでなく上から下へも受け流している矢島の耳に、そんな命令が届いた。
そちらを見ると、スマホを片手にしている管理官。広瀬も同じようにスマホを見ているため、何か情報が入ったのかもしれない。
「管理官、私が!」
矢島が返事をするより先に、勢いよく花村が手を挙げる。斉藤はそんな花村をじっと見るだけで、何も言わない。ただ、視線が花村を拒絶していることだけは矢島が判った。さすがの花村もそれが判ったのか、すす、と腕が下がっていく。
「広瀬さん、このまま花村と香川を付かせますので、そちらお願いします」
「判りました。とんぼ返りになって申し訳ない」
「問題ありません」
広瀬の言葉に軽く鼻を鳴らした斉藤は、そのまま矢島を視線で促し出入り口へと足を向ける。
「何で……っ」
花村の、そんな小さな呟きは聞こえないふりをして矢島は後に続いた。
「わざとだろ」
廊下に出て暫くしてから口を開くと、隣を歩く斉藤が目を細めた。
「可愛い嫉妬を堪能させてもらった礼として、助けてやっただろう」
「やっぱわざとじゃねえか」
同じ部屋であんだけでかい声を出していれば、当然斉藤の耳にも届いていると判ってはいたが、この男は仕事をしながらもしっかり矢島の反応も見ていたということだ。
「あんた好みの従順な犬連れて行きゃよかっただろ」
「いい誘いだが、あまり煽るのなら押し倒すぞ」
「ちげえわ、相変わらず脳みそ腐ってんな。仕事しろ管理官」
どうしてそうなるのか、本気で不可解な思考にツッコミを入れながら、エレベーターに乗り込む。
「仕事が終わった後が楽しみだな、矢島」
ボタンの前に立つ矢島に対して、奥に入った斉藤は笑みの浮かぶ声をかけてきた。それに応えず沈黙を返したが、自分の数時間後の予定はどうやら決定事項だということは悟り、同時にそれを否定しない感情がどこから来るのか判ってしまって奥歯を噛んだ。
嫉妬と独占欲の境界上