朝涼

070:鐘

 今年の中秋の名月は、生憎の雨だった。分厚い灰色の雲と生ぬるい雨は、年に一度の満月の姿を見せてはくれない。
 日中もまだ暑い日々。盆地である京都は、夜になっても外気温が下がり切ることはなく蒸し暑いのだが、雨が降るとその暑さも多少はマシになる。
 少しだけ窓を開け、雨の音を室内に届けると、それだけでも涼しさを感じるのだから不思議だ。
 窓際で、ガラスの冷たさを感じながら暇つぶしの数独。頭は使うけれど、研究とは違ってただ数字と戯れることが出来るこれは、黒崎にとって幼少期から変わらぬ趣味だ。
 最初は何も考えずに、判るところから数字を埋めていく。それが終わってから一つずつじっくりと考え、答えを導いていくのが黒崎のやり方だ。縦横斜め、それに加えて小さな三掛ける三のマスに数字を揃えていく。あとは二国同盟の仮置きから他の数字を割り出し、埋めていくだけだ。もちろんそれでも詰まることはあって、最終的には総当りする時すらある。
「黒崎さん、おやつ食べませんか」
 少し前かがみになって数字に没頭していた黒崎の耳に、そんな柔らかな声が届く。
 顔を上げると、お盆を持って黒崎を見ていた白石と視線が合った。
 白石の発音は京都特有の柔らかさとイントネーションがあって、黒崎の思考を妨げずに脳内から引き戻してくれる。
 それでいて、怒るとそれなりに勢いがあって怖くはないが気圧されるのだけど。
 今はそんなことはなく、柔らかな雰囲気のまましゃがみ込みお盆を床に置いた。その上に置かれているものは。
「団子と……抹茶?」
「コンビニお菓子とインスタントやけど、たまにはこういうのもええかなと思って」
 月は見えへんですけど、と笑いながら白石が座った。
 串に刺さった三色団子と、湯呑に入っている抹茶。湯呑を先に手にとって口付けた。苦くて粉っぽいけれど、ちゃんと抹茶の味がする。
「今日みたいな日に、松尾芭蕉は短歌を詠まれたんでしょうね」
「……福井とここなら、さほど大きな天気の違いもないだろうな」
 雨の音は、いつもは聞こえる生活音を消してしまう。
 もちろん現代は音に溢れていて、芭蕉の頃よりもずっと騒がしいのだろうけれど、それでも現代人の自分達にとっては充分静かな部類だ。
 串に刺さった団子はほのかに甘くて、美味しい。
 床に座り込んで、窓際で雨音を聞きながらの時間は穏やかで、こんな時間を用意してくれた白石に感謝の念が生まれながら、抹茶をまた一口飲んだ。

月いづく は沈める 海の底