朝涼

077:弦

 久しぶりに存在を思い出し、週末実家に顔を出して持ってきたものを、土曜日の朝からリビングで広げる。
 金具を外しケースを開けると、数年ぶりに目にする愛器。そっと手に取る四百六十六グラム。顎と肩甲骨で挟んで軽く弦を爪弾くと、流石にピッチが狂っていて苦笑した。
 弦自体、数年前のものだから、やはりここから交換しなければならない。昨日店が終わる直前に駆け込んで購入した弦を用意し、張り替えるためにペグを緩めた。弦張りは久しぶりということもあるのと、元々それほど得意でないというのもあって、時間をかけて確実に変えていく。ヴァイオリンはその造りから弦を一気に外すことはご法度。逆に言えば、一弦ずつ張り替えていくことが出来るということなので、あまり器用な指を持っていない神谷としては、ありがたい造りではあった。
「……何やってんだ」
「おはよ」
 背後からかかった声に、顔を上げずに挨拶だけ返す。残り一弦、集中を切らさぬまま一気に変えてしまいたい。
 梶は手を止めない神谷に何も言わず、リビングを出ていく。耳に届くのは洗面台を使う水音。梶が動く音を聞き流しながら、最後のE線をペグに入れ右向きに巻きつける。弦を引っ張ってアジャスターに引っ掛けた。E線は一番細いため緊張するのだが、久しぶりだが上手くいった。
 ほっとしながら丸まっていた身体を起こした。
「実家から持ってきたのか」
「ああ、久しぶりに弾きたくなって」
 リビングに帰ってきた梶は、作業をする神谷の隣に胡座で座りながら問いかけてきた。余裕が出来たため、それに答えながらギターのように身体の前で構えて一弦ずつ鳴らした。それは当然のようにチューニングは狂っていて気持ち悪い。ペグを巻いて締めながら、一弦ずつ音を合わせていった。
「それ……どうやってんだ」
「ん?」
 小声になっているのは、神谷が音を出しているからだろう。そんな気遣いに内心苦笑しながら首を傾げると、梶は神谷の手元を指さした。
「音を合わせてるってことは、判る。その音……? は、覚えてるってことなのか?」
 チューニングの仕組みについて知りたいのではなく、どうやってチューニングをしているのかを知りたいらしい梶に、チューニングの手を止めて自分の耳を指さした。
「ここで、覚えている音と合わせてるんだよ」
「……絶対音感ってやつか?」
「俺は相対。まあ、音楽やってる奴はほとんど最初に覚えるもんだよ」
 細かくペグを動かして音を合わせた後、G線を指で弾くと、音の合ったソの音が部屋に響いた。
「知らないとチューニングが出来ないから、まず基準の音を聴きながら自分でチューニングをするんだけど、その時はチューニングが合っているかどうかが判る機械を使うんだよ」
 針が真ん中を指せば基準の音からずれていないと視覚で判るというもの。それで補助しながら、耳を鍛えていく。
「何百、何千と聞いていると音の波が判るようになる。その波を小さくするようにするのがチューニング」
 ヴァイオリンを膝の上に置いて両手を開けた後に、親指と人差し指で隙間を作った。その指の間から梶を見ながら、逆の指でその隙間を上下に振った。
「例えば赤色でも、白に近い色と黒に近い色で別色ってくらい違うだろ」
「ああ」
「絶対音感はこの中の覚えている場所を一発で指せる。相対音感は覚えている近くを指せるように訓練するってこと」
 絶対音感と相対音感はそれぞれメリット・デメリットがあるのだが、今それを説明したところで脱線でしかないので割愛。
「ある程度音楽やってたら、相対は自然と身につく技術だよ」
「すげえな」
 専門外なことだからか、梶が素直に称賛してくるそのことが少しだけ気恥ずかしい。
 他の弦もチューニングを済ませた後、弓は持たずに本体を挟んだ。
 ピチカートで手慰みのようにバッハの有名曲を爪弾いた。クリスマスの時期によく聴くこれは、メイン旋律一本でも綺麗な音を響かせる。弓を持っていないのに、弦を押さえる左指も動きが鈍い。弾かないとこんなに出来なくなるのか、と驚きながら主旋律を三周したところで一度楽器を降ろした。
「すげえな」
 たった一人の観客は、神谷からしたらボロボロの演奏に目を開いて拍手をしてくれる。謙遜するのは意地が悪いと自分の心に収めて、その賞賛を素直に受け取ってもう一度構えた。
「なんかリクエストあるか? つっても、久々だから間違えるかもしれないけど」
「今の、もう一回聞きたい」
「……いいけど、いいのか?」
 同じ曲は詰まらないのではないかと問いかけると、梶はちらりとキッチンを一度見てから視線を戻した。
「最初のクリスマスん時思い出した」
「――――」
 神谷としては黒歴史だと思っていることを思い出させられて、言葉に詰まる。だが、梶としてはそうではない思い出として取っているのなら、苦言を呈したところでどうにもならないだろう。仕方がないと諦めて指を動かした。
 

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