朝涼

081:幽

 朝起きあがった時に少しの目眩。
 だが、立ち上がった後はなんともなかったから気の所為か寝起きすぐだったからだと思って気にしなかった。
 支度をして出勤をして、朝からのルーティンをこなして。出動要請に従って出向き、調書を取ったり被害届が出された事件の証拠集め。平和な署であっても毎日それなりにやることはある。その合間に香川と共にコーヒータイムという名のサボり。
「先輩今日なんかテンション高いですね」
「……そうか?」
「あ、今日の夜に合コンあるとか!」
「ジム行く予定しかねえよ」
 なんて会話をして、更に昼直前。生安課課長のうっかりが発動し、さきほどまで行っていた本庁の生安部に書類を渡し忘れたということで行ってきてほしいと頼まれ。てめえで行けなどと言えるわけもなく、そのまま昼に入っていいという有り難いお言葉と共に丸ノ内署を出た。
 ぶらぶらと公園横を歩いて本庁に入った後はさっさと用件を済ませ、生安課課長の小言を代わりに受ける。しがない巡査部長の役割だ。顔と声だけは神妙に右から左へと聞き流し、解放されたのは部屋に入ってから十五分後。
 昼休みに入った本庁は、どことなく緩んだ空気がある。その中で人気の少ない廊下の隅でスマホを取り出し、数階上で仕事をしている男にメッセージを送るとすぐに既読となり、部屋の名称だけが送られてきた。それに従って階段を上がる。
 目的の部屋をノックし、応えと共に中に入ると部屋の中には一人だけだった。もし誰かいたら、なんの言い訳も出来ないので少しだけほっとする矢島を見た、部屋の中にいた斉藤が思い切り眉を顰めた。
「……なん、だよ」
 自分の後ろに誰かいるのかと、思わず後ろを振り向くが誰もいない。つまり原因は矢島にあるはずだが、入って一目でそんな顔をされるほど酷い姿はしていないし――いつも通りのスーツ姿だ――、やっていない。……はずだ。
 立ち上がった斉藤は、机をまたいだ後大股で近付いてきて、矢島の額に音がする勢いで掌を当てた。
 その斉藤の掌と自分の額の温度が違う。
「――……あれ」
「バカは自分の体調不良も気付かんのか」
 辛辣な言葉を吐きながらも、斉藤は矢島の腕を掴んでソファに座らせる。そうしてジャケットを無理矢理脱がせて前からかけ、自分のものも放り投げてくる。顔面に投げつけられて一瞬息が詰まった。
「けど別にふらついたりとかねえし、午前中誰にも何も言われなかったし、自分でも何とも思わねえし」
 むしろ、一目で気付いた斉藤がおかしいとばかりに言葉を重ねると、ぎろりと睨まれ口を閉ざした。
「さっさと早退連絡入れろ」
「だから大丈夫だって」
「なるほど、元上司の前で倒れ、それを心配した心優しい元上司に連れられて強制早退がお望みということか」
「……」
 こころやさしーもとじょうしとは、どこのどいつさまのことなのだろうか。そんな気持ちを持って睨みつけるが、こころやさしーじょうしさまは矢島を見下ろしながら同じように睨みつけ返される。沈黙の部屋の中、備え付けの時計の秒針の音だけが響いた。
「一分以内に決めないのなら担ぎ上げて連れて行くが」
「それだけはやめろ」
 選択肢を実質一択にされ、頭を抱えて息を吐く。自覚症状はこれっぽっちもないが早退以外でこの部屋を出ることは許されそうにない。
 別にそこまで勤務態度は真面目ではないのだが、自覚症状がないためズル休みという感覚が拭えなくて戸惑ってしまう。スマホを取り出すものの、その戸惑いと迷いが指の動きを遅くした。
 そんな矢島の前に立ち見下ろす斉藤は、矢島の指をどかして逆さまの状態で勝手に矢島のスマホを操作して、電話帳の生安課を呼び出した。
「俺が話してやろうか」
「やめろっての」
 どうせ早退したところで自分一人で帰るのは許されず、連れて行かれるのはこいつのマンションなのだろうなと思いながら、ため息をつき覚悟を決めてボタンを押した。
 プライベートでは過保護というか、俺様で口が悪いのに矢島を無下にしない男に対して諦めを抱くしかなかった。

幽かな違和感