朝涼

082:古

 帰る場所を一緒にしたい。
 そんな神谷の願いを叶える形で、梶が神谷のマンションに越してくる。とはいえ、どこにも届けを出していない。形だけというのは、ギリギリセーフだろうか、アウトだろうか。
 ――お前の覚悟が決まったら、手続きしたらいい。
 それはつまり、梶にはその覚悟が決まっているということだ。そんな簡単に……と思ってしまうのは、神谷の考えが古いのか、意固地になっているのか判らない。けれどそう簡単に割り切り受け入れられるようなものでもない。
 男女とは違うのは、当然のことであり仕方のないこと。嘆く気すら起きないようなものに引っかかっているのは、逆説的に気にしているということか、と自己分析したところで結局はどうしようもないという結論に落ち着くのだ。法的なところ以外でも、やはり口さがなく噂をする人間は出てくるものだ。銀行員というイメージ先行職業だと風当たりは更に強い。だから、簡単に会社に届けて住所を同じにすることなど出来やしない。梶はどこまで判っているのか知らないが、神谷に強制せずにいてくれたことは正直有り難かった。
「……ま、今のところじゃ無理だな」
「何がだ」
「何でもない」
 思考を割り切ってしまうのは処世術。思わず漏れた言葉に反応した梶をいなしながら、梶が持ってきたダンボールを開けた。好きに設置していって良いと言われているため遠慮なく作業にかかる。
 クリーニングの袋に入ったままのスーツ、シャツ。皺になる前に救出して、作っておいたスペースにかけていく。全部クリーニング屋のハンガーなあたり、梶だなぁと笑ってしまう。
 一箱目が終わったら二箱目。それが終わったら三箱目。押し込むと皺になるため、スーツ類は少しスペースに余裕を持って入れられているためか、箱数が多い。隙間に靴下が詰め込まれているのは、知恵なのか杜撰の結果なのか。ぽいぽいとその靴下を梶空っぽになったダンボールに放り込んだ。
 五箱あったダンボール、その全てを開封してあれ? と首を傾げる。念のため少し離れて私服を仕舞っている梶の手元にあるダンボールも覗いていくが、側面に何が入っているか書いてある文字を見ていっても目当てのものが見つからない。
「どうした」
「梶、ネクタイは?」
 仕事着として分けられていた箱の中に、ネクタイは一本も入っていなかった。だからどこか別の場所に入っているのかと梶を見ると、ああ、と納得した顔をして神谷を見た。
「捨てた」
「は?」
「で、あとから買い物付き合ってくれ。ネクタイ揃えるから」
「……」

 ――次の相手が出来たら、その時にまた何本か選んでもらえばいい。

 神谷が言った、その言葉。いつだったかの会話が、頭に浮かんだ。梶はつまり、その次の相手である神谷に選んでもらうつもりで引越し前に全てを捨てたのだと、理解した。
「……零か一で考えるなって言っただろ」
「三本ずつ買えば一週間持つんだからいいだろ」
 事もなげに言い切る男に対して、どんな返答をしたらいいのだろうか。言葉を返せない神谷を見た梶は、神谷の指を攫ってあの時と同じようにするりと撫でた。
「会社で噂されても知らないからな」
「直接言ってくるのなんて松田くらいなもんだろ」
 梶に対して無遠慮で好奇心旺盛な部下の名前に、思わず笑ってしまった。

古いネクタイ