朝涼

085:心

 黒崎と喧嘩をした。
 最初のきっかけがなんだったのか、さっぱり思い出せないけれど、最終的に白石が黒崎のマンションを飛び出してしまった。財布とスマホは持ってきたけれど、マウンテンバイクの鍵は忘れてしまったため、とぼとぼと歩く。
 バイト先はまだ営業中だから、少しだけバックヤードに居させてもらおうか、いやいや迷惑をかけるわけにはいかない、けれど他に行く場所もない、と思考を回しながら歩く先には、大学。昼間なら人通りも多いが、この時間だと学生がちらほらと見える程度だ。研究室なら、一晩過ごしても怒られることはないだろう、とそちらに向かう。
 全体的に照明が落とされているが、全く暗いわけではない廊下を進み、通い慣れた研究室の前に立ち扉を開けた。
 部屋の電気はついていて、ちらほらと人がいた。
「白石やん、どうしたん」
「んー、ちょっと……」
 まさか、喧嘩して行くところがなくて逃げてきましたなんて言えなくて、曖昧に笑う。
「宇佐美おったんやね」
 部屋の隅でノートパソコンを前にしている後輩を見つけ、寄っていく。白石が声をかける前から白石を見ていた宇佐美は、ぺこりと頭を下げた。
「珍しいですね」
「そういう宇佐美は常連なん?」
「家はだらけてしまって……ここにいたほうが捗るので」
「そうは見えへんけどなぁ」
 何も持ってきていない白石は、手持ち無沙汰のまま宇佐美の隣に腰掛ける。話しかけて邪魔するのは申し訳ないという気持ちはあるものの、一人で悶々としていたくない気持ちがあった。
「何かありましたか」
「……え?」
 文書を保存し、ノートパソコンを閉じた宇佐美が白石の顔をじっと見る。その視線の強さに顎を引くと、ゆっくりとその熱が横に逸れた。
「今まで一度も、白石さんがこの時間にここに来たことなかったので」
「……ちょお色々あって。あ、言うても大したことないんやけど」
 少しだけ、と未だ落ち着かない心臓が言葉を吐き出させる。
 黒崎が一方的に悪いだとか、白石が意地を張っているだけだとか、そういう気持ちがないわけではないけれど。それ以上に初めてのことに動揺が走っている。
 元々白石は誰かと喧嘩するというのが苦手だし、そうならないように動いてしまう癖もついている。だから、喧嘩というのは物心ついた頃に兄としたのが最後かもしれない、というくらい過去のことだ。
「吐き出して楽になれるのなら、お付き合いしますが」
「……ありがとぉ」
 飲みに行く気持ちではないけれど、向けられた好意がありがたく、素直に礼を言う。白石に告白してきた宇佐美により掛かるのは、きっと良いことではない。距離を少し置いて、踏み込まれないほうがきっといい。けれど同じゼミ生で、元々友人とまではいかなくとも、それなりに話していた相手だ。あからさまに避けることなど出来ない。
 それに今は、心が少し疲れていて。
「課題邪魔してごめんな。俺のこと気にせんと片付けてや」
 机にぺたりと懐き、見上げながら宇佐美に笑いかけると、宇佐美は何かを言いかけるように口を開き、しかし何も言わずにぺこりと頭を下げた。

心苛れ